第三話 物か人か
文字数 3,488文字
「ちょっとだけ違う」
「えっ?」
「俺ね。幼年学校の頃から、いつも誰かに言い寄られてたんだよ。男女問わず」
「はあ?」
目を丸くしたライアンにカツミが苦笑いを向けた。
カツミ以外の者が言えば、鼻持ちならない自慢話に聞こえるだろう。だがカツミの口調には、たっぷり毒と自虐が塗り込められていた。
「珍しい生き物を手に入れたいって感覚だよ。軽蔑したけど、だからって拒否したりはしなかった。俺は人じゃない。物だったんだ」
「それって侮辱ですよ。なんで怒らないんですか?」
ライアンは怒っていた。まっすぐな怒りの感情を疑問としてぶつけられたカツミは、乾いた自分の感情がカサリと音をたてるのを聞いた。
怒り。つまりは自尊心。それは、あの当時のカツミが放棄していたものだった。彼はずっと心を殺して生きてきた。皮肉にも、それだけが心を守る手段だったからだ。
「たぶん寂しかったから。何かに縋りたかっただけだと思う」
虐げられた期間があまりに長いと、被虐意識が鈍麻してしまう。怒りを示さなければならない状況ですら、興味を持たれたと抵抗を放棄し、逆に縋りついてしまう。
関心を示してくれる相手であればカツミは誰でも良かった。くだらない好奇心や優越感が動機であったとしても。自分が他人にとってのトロフィーであっても。
「セアラとは入隊後すぐに知り合ったんですか?」
「そう。これまでと同じだと思ってたんだ。だから一度だけ。でも彼女は違ってた」
「ずっと貴方のこと心配してました」
「うん。分かってたよ。支えてくれてたから」
カツミの言葉が過去形だということにライアンは気づいていた。ジェイのこと。シドのこと。セアラから聞いた話はライアンの決意を遅らせた。ライアンはずっと待っていたのだ。セアラの心の変化を。そしてカツミの心の変化も。
「セアラは俺といてもセアラの望む幸せを掴めない。俺はそう思ったんだ」
「それが深い溝ですか」
「彼女が会いに来てた頃、俺は能力を封じてたんだ。でも今は違う。難なく心を読まれたり、いきなり弾き飛ばされたとしたら、どう感じる?」
カツミにとってはそれが紛れもない現実。その現実を突きつけられたライアンは深く息をつき、しかし率直に答えた。
「……嫌です」
「俺だって嫌だ。他人の思考がふいに飛び込むこともあるし。それと一番嫌なのは、疑心暗鬼になられることだ。まともに付き合えると思うか? メーニェじゃ迫害の対象っていうのも、分からないでもないよ」
「疑心暗鬼ですか」
「そう。怖いんだろうね。でも俺だって怖かった。自分のことが怖くて仕方なかったよ。いや、今でも怖い」
「俺はルシファーのこと、怖いなんて思ったことなかったですよ」
ライアンの言葉を聞いたカツミは思う。
ルシファーの家族はみんな能力者だもんな。家族が守ってくれたから、あいつは自分の力を操れる。効力も限界も熟知しているし、自分の価値を信じているから能力の使い方を間違ったりしない。
カツミは、ルシファーにあって自分にはないものを思い知らされていた。
「ルシファーは自分の能力をきちんと制御できる。能力を否定されない環境で育って、制御の訓練を重ねてきたからね。だから能力を武器として自在に操れるんだよ。当然、自分の限界についても熟知してる」
「限界ですか」
「俺は自分の限界が分からない。ルシファーと違って不確定要素がとても多いからね。そして、もう封じるのを止めたんだ。だからこうして指一本動かすだけで」
ガタリ。
カツミの言葉に思わず身を引いたライアンが、椅子から立ち上がった。しかしカツミがくすっと小さく笑った途端に、膨れ面になって座り直した。
「ほんの冗談だって」
「きつすぎますよ。ったく。大丈夫なんですか? こんなこと話して」
周囲のテーブルに視線を送ったライアンに、カツミは平然と告げた。
「俺たちの周りにだけシールドを張ってる。今の俺たちは他人に意識されない」
「えっ?」
「ライアンが立ち上がっても、誰ひとり見向きもしなかっただろ? そういうことだよ。能力ってのは」
脱力したライアンの前に注文した料理がずらりと並べられた。カツミがまた小さく笑いながらスプーンを手に取る。お勧めの魚介のシチュー。フィーアの好物だった料理だ。焼きたてのふわりとしたパン。彩りのきれいなサラダ。カツミにはそれで十分だったが、ライアンの前には分厚いソテーが置かれた。間髪入れずに、どう見てもメインのどっしりした料理が三品並ぶ。
「食うよなぁ」
「そんな普通ですよ。カツミが少なすぎるんです」
「あ。やっと名前で呼んでくれた」
「……」
「嬉しいよ」
戸惑い顔のライアンを見て、カツミが目を細めた。
ライアンには能力者に対する偏見や壁がない。セアラの元恋人という立場だけ。それだけが彼の中の引っ掛かりだったらしい。そう感じたカツミは、もう少しだけライアンに歩み寄ってみようと決めた。
「ライアン。俺ね、ラヴィの子孫なんだ」
「えっ?」
「彼は晩年から改名してるんだよ。だから、ライアンとは繋がりがあるんだ」
「ラヴィとハーブ。ルディ……」
ライアンの脳裏で運命の歯車がカチリと噛み合った。三つの歯車は軋み音も上げずに回りだす。まるで百年前からずっと回り続けていたように。
「そう。俺がルシファーと出会ったのは偶然じゃない。引き寄せられたんだ」
「それもさっき言ってた感覚なんですか?」
「説明が難しいよ」
「話が元に戻りましたね」
ライアンはもう追求をしなかった。彼は自分を納得させるために他人の聖域に土足で踏み込むことをしない。
セアラに対しても、ライアンは急かすということをしてこなかった。その態度の裏にあるのは、揺るぎのない自信と他者を信じる強さである。
ライアンってちょっとルシファーに似てるな。そう思いながら、カツミは過去から今へと話題を変えた。
「どうしてもこうなるんだ。相手がルシファーだと言わなくても通じる」
「ああ。だから」
「一緒にいられるんだ。そんな相手はとても少ないけど、この十年の間、彼が支えてくれたよ」
「……でも、それって寂しくないんですか?」
ライアンは眉を寄せ、じっとカツミを見ていた。彼の本心は『聞く』までもない。想いの優しさに触れたカツミは、素直に謝意を口にしていた。
「ありがと。ライアン」
「えっ?」
「ありがと。いいんだよ。そういうもんだって思ってるから」
「そういうもの?」
「そう。これが俺にとっての普通だから」
「普通……」
ライアンはラヴィのことを知った幼い時から、メーニェが行っている迫害に憤りを覚えていた。そしてこの星の政府の曖昧な態度にも。
ハーブ・クレイスンは、ラヴィ・シルバーが最も信頼する同僚だった。新参の移民者であるライアンの家族がこの星に受け入れてもらえたのは、ラヴィとの繋がりが判明したからである。ラヴィの存在がなければ、特区への入隊など決して叶わなかったのだ。
しかし未だにメーニェでの能力者は迫害の対象であり、この星においての差別意識も根深い。
ラヴィを英雄扱いするのは、彼を祀り上げておけば能力者が有益な道具だと認識されるからである。役に立つなら殺さずに使えばいい。ラヴィは政治に利用されている虚像なのだ。
ライアンには、カツミが自分のことを物だと言った意味が分かるような気がした。その彼を人として支えようとしたセアラの気持ちも。
同情ではない。それは本能だ。人として当たり前にある慈しみの心だ。セアラはカツミにベタベタと貼られたレッテルを全て取り去り、中身だけを見ていたのだろう。孤独な魂を、ただ守りたいという気持ちだけで。
彼女に出会えて良かった。ライアンはあらためてそう思った。
「式の招待状、送っていいですか? 来てくれます?」
「行ってもいいの?」
カツミの返事はライアンには意外だった。セアラがカツミの手を取ったように、ライアンも思わずカツミを擁護していた。
「そんな言い方しないで下さい。貴方は決して物じゃないです。俺は貴方の友人になりたい。貴方の手をとったセアラのことが、もっと好きになりました」
「うわっ。惚気られたなぁ」
にやりと笑ったカツミを見て、ライアンが気恥ずかしそうに咳払いをした。
手を差し出したカツミに応えて二人は握手を交わす。
その時、ライアンの脳裏にカツミから流れ込んだ映像が投影された。
──蒼い星。水の星。広がる原生林。
「百年前にラヴィが目にしたシャルー星だよ」
目を丸くしたライアンは、悪戯っぽく微笑んだカツミに人を超えた何かを重ねたくなった。しかし目の前の人物が一人の人間に過ぎないことも分かっていた。
「えっ?」
「俺ね。幼年学校の頃から、いつも誰かに言い寄られてたんだよ。男女問わず」
「はあ?」
目を丸くしたライアンにカツミが苦笑いを向けた。
カツミ以外の者が言えば、鼻持ちならない自慢話に聞こえるだろう。だがカツミの口調には、たっぷり毒と自虐が塗り込められていた。
「珍しい生き物を手に入れたいって感覚だよ。軽蔑したけど、だからって拒否したりはしなかった。俺は人じゃない。物だったんだ」
「それって侮辱ですよ。なんで怒らないんですか?」
ライアンは怒っていた。まっすぐな怒りの感情を疑問としてぶつけられたカツミは、乾いた自分の感情がカサリと音をたてるのを聞いた。
怒り。つまりは自尊心。それは、あの当時のカツミが放棄していたものだった。彼はずっと心を殺して生きてきた。皮肉にも、それだけが心を守る手段だったからだ。
「たぶん寂しかったから。何かに縋りたかっただけだと思う」
虐げられた期間があまりに長いと、被虐意識が鈍麻してしまう。怒りを示さなければならない状況ですら、興味を持たれたと抵抗を放棄し、逆に縋りついてしまう。
関心を示してくれる相手であればカツミは誰でも良かった。くだらない好奇心や優越感が動機であったとしても。自分が他人にとってのトロフィーであっても。
「セアラとは入隊後すぐに知り合ったんですか?」
「そう。これまでと同じだと思ってたんだ。だから一度だけ。でも彼女は違ってた」
「ずっと貴方のこと心配してました」
「うん。分かってたよ。支えてくれてたから」
カツミの言葉が過去形だということにライアンは気づいていた。ジェイのこと。シドのこと。セアラから聞いた話はライアンの決意を遅らせた。ライアンはずっと待っていたのだ。セアラの心の変化を。そしてカツミの心の変化も。
「セアラは俺といてもセアラの望む幸せを掴めない。俺はそう思ったんだ」
「それが深い溝ですか」
「彼女が会いに来てた頃、俺は能力を封じてたんだ。でも今は違う。難なく心を読まれたり、いきなり弾き飛ばされたとしたら、どう感じる?」
カツミにとってはそれが紛れもない現実。その現実を突きつけられたライアンは深く息をつき、しかし率直に答えた。
「……嫌です」
「俺だって嫌だ。他人の思考がふいに飛び込むこともあるし。それと一番嫌なのは、疑心暗鬼になられることだ。まともに付き合えると思うか? メーニェじゃ迫害の対象っていうのも、分からないでもないよ」
「疑心暗鬼ですか」
「そう。怖いんだろうね。でも俺だって怖かった。自分のことが怖くて仕方なかったよ。いや、今でも怖い」
「俺はルシファーのこと、怖いなんて思ったことなかったですよ」
ライアンの言葉を聞いたカツミは思う。
ルシファーの家族はみんな能力者だもんな。家族が守ってくれたから、あいつは自分の力を操れる。効力も限界も熟知しているし、自分の価値を信じているから能力の使い方を間違ったりしない。
カツミは、ルシファーにあって自分にはないものを思い知らされていた。
「ルシファーは自分の能力をきちんと制御できる。能力を否定されない環境で育って、制御の訓練を重ねてきたからね。だから能力を武器として自在に操れるんだよ。当然、自分の限界についても熟知してる」
「限界ですか」
「俺は自分の限界が分からない。ルシファーと違って不確定要素がとても多いからね。そして、もう封じるのを止めたんだ。だからこうして指一本動かすだけで」
ガタリ。
カツミの言葉に思わず身を引いたライアンが、椅子から立ち上がった。しかしカツミがくすっと小さく笑った途端に、膨れ面になって座り直した。
「ほんの冗談だって」
「きつすぎますよ。ったく。大丈夫なんですか? こんなこと話して」
周囲のテーブルに視線を送ったライアンに、カツミは平然と告げた。
「俺たちの周りにだけシールドを張ってる。今の俺たちは他人に意識されない」
「えっ?」
「ライアンが立ち上がっても、誰ひとり見向きもしなかっただろ? そういうことだよ。能力ってのは」
脱力したライアンの前に注文した料理がずらりと並べられた。カツミがまた小さく笑いながらスプーンを手に取る。お勧めの魚介のシチュー。フィーアの好物だった料理だ。焼きたてのふわりとしたパン。彩りのきれいなサラダ。カツミにはそれで十分だったが、ライアンの前には分厚いソテーが置かれた。間髪入れずに、どう見てもメインのどっしりした料理が三品並ぶ。
「食うよなぁ」
「そんな普通ですよ。カツミが少なすぎるんです」
「あ。やっと名前で呼んでくれた」
「……」
「嬉しいよ」
戸惑い顔のライアンを見て、カツミが目を細めた。
ライアンには能力者に対する偏見や壁がない。セアラの元恋人という立場だけ。それだけが彼の中の引っ掛かりだったらしい。そう感じたカツミは、もう少しだけライアンに歩み寄ってみようと決めた。
「ライアン。俺ね、ラヴィの子孫なんだ」
「えっ?」
「彼は晩年から改名してるんだよ。だから、ライアンとは繋がりがあるんだ」
「ラヴィとハーブ。ルディ……」
ライアンの脳裏で運命の歯車がカチリと噛み合った。三つの歯車は軋み音も上げずに回りだす。まるで百年前からずっと回り続けていたように。
「そう。俺がルシファーと出会ったのは偶然じゃない。引き寄せられたんだ」
「それもさっき言ってた感覚なんですか?」
「説明が難しいよ」
「話が元に戻りましたね」
ライアンはもう追求をしなかった。彼は自分を納得させるために他人の聖域に土足で踏み込むことをしない。
セアラに対しても、ライアンは急かすということをしてこなかった。その態度の裏にあるのは、揺るぎのない自信と他者を信じる強さである。
ライアンってちょっとルシファーに似てるな。そう思いながら、カツミは過去から今へと話題を変えた。
「どうしてもこうなるんだ。相手がルシファーだと言わなくても通じる」
「ああ。だから」
「一緒にいられるんだ。そんな相手はとても少ないけど、この十年の間、彼が支えてくれたよ」
「……でも、それって寂しくないんですか?」
ライアンは眉を寄せ、じっとカツミを見ていた。彼の本心は『聞く』までもない。想いの優しさに触れたカツミは、素直に謝意を口にしていた。
「ありがと。ライアン」
「えっ?」
「ありがと。いいんだよ。そういうもんだって思ってるから」
「そういうもの?」
「そう。これが俺にとっての普通だから」
「普通……」
ライアンはラヴィのことを知った幼い時から、メーニェが行っている迫害に憤りを覚えていた。そしてこの星の政府の曖昧な態度にも。
ハーブ・クレイスンは、ラヴィ・シルバーが最も信頼する同僚だった。新参の移民者であるライアンの家族がこの星に受け入れてもらえたのは、ラヴィとの繋がりが判明したからである。ラヴィの存在がなければ、特区への入隊など決して叶わなかったのだ。
しかし未だにメーニェでの能力者は迫害の対象であり、この星においての差別意識も根深い。
ラヴィを英雄扱いするのは、彼を祀り上げておけば能力者が有益な道具だと認識されるからである。役に立つなら殺さずに使えばいい。ラヴィは政治に利用されている虚像なのだ。
ライアンには、カツミが自分のことを物だと言った意味が分かるような気がした。その彼を人として支えようとしたセアラの気持ちも。
同情ではない。それは本能だ。人として当たり前にある慈しみの心だ。セアラはカツミにベタベタと貼られたレッテルを全て取り去り、中身だけを見ていたのだろう。孤独な魂を、ただ守りたいという気持ちだけで。
彼女に出会えて良かった。ライアンはあらためてそう思った。
「式の招待状、送っていいですか? 来てくれます?」
「行ってもいいの?」
カツミの返事はライアンには意外だった。セアラがカツミの手を取ったように、ライアンも思わずカツミを擁護していた。
「そんな言い方しないで下さい。貴方は決して物じゃないです。俺は貴方の友人になりたい。貴方の手をとったセアラのことが、もっと好きになりました」
「うわっ。惚気られたなぁ」
にやりと笑ったカツミを見て、ライアンが気恥ずかしそうに咳払いをした。
手を差し出したカツミに応えて二人は握手を交わす。
その時、ライアンの脳裏にカツミから流れ込んだ映像が投影された。
──蒼い星。水の星。広がる原生林。
「百年前にラヴィが目にしたシャルー星だよ」
目を丸くしたライアンは、悪戯っぽく微笑んだカツミに人を超えた何かを重ねたくなった。しかし目の前の人物が一人の人間に過ぎないことも分かっていた。