第38話 焼き菓子の味

文字数 1,566文字

「悪かったな。娘に悪気があったわけじゃない。ミアはこういった言い方しかできないだけなんだ。感情を知らないのでな」

 怒らせてしまうかもしれない。
 そう思いながら身構えていたカレンの予想に反して、父親は素直に謝罪の言葉を口にした。
 
 ……感情を知らない。
 どういう意味なのだろうか。カレンが抱いた疑問をよそに父親は言葉を続けた。

「理屈や知識でしか物を考えられない。だが、そんな彼女が何かをしようとしている。受け取ってやってくれ」

 ……理屈や知識でしか物を考えられない。
 やはり、何を言っているのかが分からなかった。
 父親は更に言葉を続けた。

「知識に頼っているだけとはいえ、娘が出した答えだ。無下にはしたくない」

 そんな父親の申し出に押されるようにして、カレンはミアと呼ばれた娘が差し出している紙袋を受け取った。今の複雑な自分の思いに反して、紙袋から漂ってくる匂いが途端にカレンの食欲を刺激してくる。

 ……焼き菓子。
 子供の頃からこの匂いだけは知っている。だが、口にしたことは一度もなかった。

 幼い頃は兄のネイトと一緒にお使いで街なかに来ると、焼き菓子の匂いがするお店の前でカレンはよく足を止めていた。その度に隣のネイトが泣きそうな顔で自分のことを見ていた。そのことをカレンはよく覚えている。

 きっとネイトは焼き菓子を欲しがる妹が不憫でならなかったのだろう。我慢している妹が可哀そうでならなかったのだろう。ネイトはそんな優しい兄だった。

「ありがとう……」

 兄のことを脳裏に浮かべながらカレンは少しだけ俯いてお礼を口にした。

「折角だから、あっちで一緒に食べましょう」

 紙袋を受け取ったカレンを見て、娘のミアが木陰になっている道の端を指し示した。どうやら自分も一緒に食べるつもりのようだった。カレンが父親に視線を向けると父親が小さく頷いた。

 それを見てカレンは小さく溜息を吐き出した後、娘のミアが指し示す所へ歩みを進めたのだった。




 焼き菓子はカレンが想像していた以上に美味しい物だった。そもそも奴隷の身では甘い物自体を食べる機会が限られている。

 これ程までに甘くて美味しい食べ物が世の中にあるのかと思えたほどだった。兄にも、ネイトにも食べさせてあげたかった。カレンの中でそんな思いが湧き上がってくる。涙が溢れてしまいそうだった。カレンは目尻に力を込める。

 そんな思いと共に食べる手が止まってしまったカレンを見て父親が口を開いた。

「どうした?」

 父親は短くそれだけを言う。
 カレンは無言で黒色の頭を左右に振って、残る焼き菓子を一気に口の中へと放り込んだ。

 ネイトのことを思うと、自分だけが焼き菓子を味わって食べるのが申し訳ない気がしたのだった。熱を出した自分などに構わなければ、兄のネイトは死ぬことはなかった。そして、生きていればこうして今の自分と同じように、焼き菓子を食べられる機会があったかもしれないのだ。

 そう思うとカレンは申し訳がなくて、悔しくて更に涙が浮かんでくる。

(とと)様、泣いています。どこか痛いみたいです」

 ミアが少しだけ的外れなことを再び言い出した。それに対して父親が口を開いた。

「いや、大丈夫だ。痛いわけじゃない」
「そうですか。痛いのなら、医者に連れて行くのですよ。本に書いてありました」
「そうだな……」

 そう言った父親の声が少しだけ掠れた気がした。

 やはり、この子は少しだけあれなのかもしれない。それは可哀想なことなのだろうか。そして、彼女を可哀想だと思うことは自分が毛嫌いしている同情というものなのだろうか。

「気にしないでくれ」

 父親の言葉にカレンは軽く頷いた。

「別に気にしてない。様子が少しだけおかしいとは思うけど、私はそれを可哀想だとも思わないし、同情したりもしない」

 その言葉に父親が少しだけ口の端を緩めた気がした。
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