第40話 遠い記憶
文字数 2,915文字
その日の夜、ルイーズと同衾した後で自分の部屋に戻ってきたカレンは寝つくことができなかった。粗末な寝台の上で何度も寝返りをする。体は疲れているはずなのに、頭の中が妙に冴えていた。
やがてカレンは寝台から起き上がると、物音を立てないように注意しながら外に出る。
別にあの時の言葉をそのまま信じていたわけではなかった。ただ、あの父親の言葉が妙に引っかかり、それと同時に奇妙な予感めいたもあった。
それらに突き動かされるようにして、カレンは寝台を抜け出て外に出たのだった。
……いた。
薄い月明かりに照らされて父親は立っていた。片手には既に幅広の長く大きな大剣を握っていた。
「……遅かったな。始めるぞ」
父親が低い声でそれだけを言う。
……何を?
とは訊かなかった。口を動かそうにも口は石のように固まっていたし、何よりもこの状況が信じられなかった。
父親の言葉を借りるのであれば、これから屋敷の皆を殺すことになるのだ。
本当なのだろうか。あまりに現実離れをしていて俄かには信じられなかった。
そんなカレンの思いを知るはずもなく、父親は大剣を片手に握ったまま、皆が眠るはずの屋敷に向かって歩みを進めていったのだった。
それからどれぐらいの時間が経ったのだろうか。長かった気もするし、短かった気もする。
気がつけばルイーズたちの家族が住む屋敷からも、奴隷たちが寝起きをする粗末な建物からも火の手が上がっていた。
燃える炎に照らされながら、いくつもの悲鳴を聞いたような気がする。だが、それも定かではない。全てが夢であったような気もする。
「火事ですね……」
あの声だった。まるで地の底から響いてくるかのような声。横を見るとミアといったか、あの父親の娘が立っていた。ミアはカレンに目を向けずに、その硝子玉のような瞳を燃えさかる屋敷に向けていた。
「火事だから火を消さないといけませんね……」
ミアはそう言ったものの、自身で何かをするような素振りはなかった。やはり、この子は少しあれなのだろうとカレンがそう思った時だった。急にカレンがミアに顔を向けた。
「あなたが家を燃やしたのですか? 家を燃やしてはいけないのですよ」
どこも見ていないような硝子玉のような瞳を向けられて、カレンの背筋に冷たい物が走った。咄嗟にカレンは首を左右に振った。
それを理解したのか、理解してはいないのか。ミアは再び燃えさかる屋敷に顔を向けてしまう。
燃え盛る屋敷の玄関から一人の男が転がるように出て来た。服のあちらこちらが焦げているようだった。炎に照らされたその顔で、その男がルイーズであることが分かる。ルイーズの方も、視界にいるのがカレンだと分かったようだった。
ルイーズが再び転がるようにしてカレンのもとへやって来る。
「カレン、屋敷が襲われた。化け物みたいな大きい男が中で剣を振り回して、火をつけ回っている。くそっ。皆、皆、殺された!」
四つん這いのままで叫ぶように言うルイーズをカレンは無言で見下ろしていた。
「おい、逃げるぞ。あの化け物がここに来るかもしれない。人を呼びに行くぞ!」
ルイーズの妻や娘たちはまだ屋敷の中なのだろう。その生死は分からないが、ルイーズはそれを気にかける素振りも見せなかった。そこでルイーズはようやくカレンの様子がおかしいことに気がついたようだった。
実際、カレンは先程から逃げて来たルイーズを労わるわけでもなく、四つん這いとなっている彼を無言で見下ろしているだけだった。
「おい、カレン! 聞いているのか?」
その言葉にもカレンは無反応だった。
「ちっ! 気でも触れたのか? お前はそこで化け物に襲われて死ね。俺は行くぞ!」
立ち上がったルイーズがそう吐き捨てて、走ろうと一歩を踏み出した時だった。短い悲鳴のような声を上げて、ルイーズは足をもつれさせて転んでしまう。カレンが走り去ろうとするルイーズに足を掛けたのだ。
何事が起ったのかが咄嗟には分からなかったようだが、自分が足を掛けられたことだけは分かったようだった。ルイーズはが大地に投げ出された格好のままでカレンに非難の目を向けた時だった。その顔が恐怖からか大きく歪んだ。
カレンが背後を振り返るとそこには鮮血に濡れた大剣をにぎる父親が立っていた。ルイーズは尻を地面につけたままで後ずさる。
父親の動きはその大きな体に似合わず素早かった。一気にルイーズとの距離を詰めると、その大剣を振り下ろす。
ごろりと音がしたような気がした。胴体から切り離された勢いでルイーズの頭部がカレンの足下に転がってきた。その顔は恐怖で歪んだままだった。
父親は大剣を握ったまま、カレンに体を向けた。
今のルイーズがそうだったように、この父親が本当に皆を殺したのだろうか?
「……皆、殺したの?」
声が掠れる。
「そうすると言っただろう? それにお前が望んだことだ」
父親の低い声が返ってくる。
その言葉を聞いてカレンの顔に浮かんだものは満面の笑みだった。他の人が見ればそれは狂気の笑みに見えただろうか。
そうかとカレンは思う。願うのならば、今のルイーズのように大きな恐怖と大きな苦しみの中で皆が死んでいてほしかった。カレンは心からそう思う。
カレンは無言で足下に転がってきたルイーズの頭部を踏みつけた。何度も何度も踏みつける。
優しかった兄のことだ。きっとネイトはこれらのことに怒るのだろう。でも、自分たちは家畜ではない。殴られたら殴り返すのは当然なのではないだろうか。
遠い記憶。まだ幼かった頃の記憶だ。それでも優しかった兄の笑顔だけは今でも鮮明に思いだすことができた。
そしてカレン、カレンと呼びかける優しい兄の声。その声は今もこの耳に残っている。
今、カレンの視界にはあの父親が長剣を振り上げる姿がある。不思議とそこに恐怖はなかった。
カレンは兄の笑顔や優しい声を思い返しながら、笑顔を浮かべる。先程までの狂気じみた笑顔ではなくて、心から幸せそうな笑顔だ。
……ごめんね、兄さん。そして、ありがとう。
カレンが心の中でそう呟いた時、視界の中で父親が長剣を振り下ろした。
頭の奥でぷつんと音がした気がした……。
雪が散らつき始めていた。その山道に二つの影があった。一つは大きく、一つは小さい。時折、山中から聞こえる獣の声以外は二つの影が歩む足音だけだった。
小さな影が大きな影に語りかけた。
「父 様、父様はまた人を殺したのでしょうか?」
小さな影の問いかけに大きな影が無言で頷いた。
「人を殺してはいけないのですよ。本にそう書いてありました」
「そうだな……」
大きな影がそれだけを返す。小さな影もそれ以上は言葉を発することはなかった。
雪が散らつく寒い山道。周囲で動いている物は、この二つの影だけだった。
「これから、どこに行くのでしょうか?」
少しの沈黙の後、再び小さな影が口を開いたようだった。
「北だ。もっと北に行く」
「そうですか。北は寒いところですね……」
小さな影の言葉に大きな影が言葉を返すことはなかった。
雪が散らついて底冷えのする寒さが増していく山道。その周囲で動く物はこの二つの影以外には何もなかった。
やがてカレンは寝台から起き上がると、物音を立てないように注意しながら外に出る。
別にあの時の言葉をそのまま信じていたわけではなかった。ただ、あの父親の言葉が妙に引っかかり、それと同時に奇妙な予感めいたもあった。
それらに突き動かされるようにして、カレンは寝台を抜け出て外に出たのだった。
……いた。
薄い月明かりに照らされて父親は立っていた。片手には既に幅広の長く大きな大剣を握っていた。
「……遅かったな。始めるぞ」
父親が低い声でそれだけを言う。
……何を?
とは訊かなかった。口を動かそうにも口は石のように固まっていたし、何よりもこの状況が信じられなかった。
父親の言葉を借りるのであれば、これから屋敷の皆を殺すことになるのだ。
本当なのだろうか。あまりに現実離れをしていて俄かには信じられなかった。
そんなカレンの思いを知るはずもなく、父親は大剣を片手に握ったまま、皆が眠るはずの屋敷に向かって歩みを進めていったのだった。
それからどれぐらいの時間が経ったのだろうか。長かった気もするし、短かった気もする。
気がつけばルイーズたちの家族が住む屋敷からも、奴隷たちが寝起きをする粗末な建物からも火の手が上がっていた。
燃える炎に照らされながら、いくつもの悲鳴を聞いたような気がする。だが、それも定かではない。全てが夢であったような気もする。
「火事ですね……」
あの声だった。まるで地の底から響いてくるかのような声。横を見るとミアといったか、あの父親の娘が立っていた。ミアはカレンに目を向けずに、その硝子玉のような瞳を燃えさかる屋敷に向けていた。
「火事だから火を消さないといけませんね……」
ミアはそう言ったものの、自身で何かをするような素振りはなかった。やはり、この子は少しあれなのだろうとカレンがそう思った時だった。急にカレンがミアに顔を向けた。
「あなたが家を燃やしたのですか? 家を燃やしてはいけないのですよ」
どこも見ていないような硝子玉のような瞳を向けられて、カレンの背筋に冷たい物が走った。咄嗟にカレンは首を左右に振った。
それを理解したのか、理解してはいないのか。ミアは再び燃えさかる屋敷に顔を向けてしまう。
燃え盛る屋敷の玄関から一人の男が転がるように出て来た。服のあちらこちらが焦げているようだった。炎に照らされたその顔で、その男がルイーズであることが分かる。ルイーズの方も、視界にいるのがカレンだと分かったようだった。
ルイーズが再び転がるようにしてカレンのもとへやって来る。
「カレン、屋敷が襲われた。化け物みたいな大きい男が中で剣を振り回して、火をつけ回っている。くそっ。皆、皆、殺された!」
四つん這いのままで叫ぶように言うルイーズをカレンは無言で見下ろしていた。
「おい、逃げるぞ。あの化け物がここに来るかもしれない。人を呼びに行くぞ!」
ルイーズの妻や娘たちはまだ屋敷の中なのだろう。その生死は分からないが、ルイーズはそれを気にかける素振りも見せなかった。そこでルイーズはようやくカレンの様子がおかしいことに気がついたようだった。
実際、カレンは先程から逃げて来たルイーズを労わるわけでもなく、四つん這いとなっている彼を無言で見下ろしているだけだった。
「おい、カレン! 聞いているのか?」
その言葉にもカレンは無反応だった。
「ちっ! 気でも触れたのか? お前はそこで化け物に襲われて死ね。俺は行くぞ!」
立ち上がったルイーズがそう吐き捨てて、走ろうと一歩を踏み出した時だった。短い悲鳴のような声を上げて、ルイーズは足をもつれさせて転んでしまう。カレンが走り去ろうとするルイーズに足を掛けたのだ。
何事が起ったのかが咄嗟には分からなかったようだが、自分が足を掛けられたことだけは分かったようだった。ルイーズはが大地に投げ出された格好のままでカレンに非難の目を向けた時だった。その顔が恐怖からか大きく歪んだ。
カレンが背後を振り返るとそこには鮮血に濡れた大剣をにぎる父親が立っていた。ルイーズは尻を地面につけたままで後ずさる。
父親の動きはその大きな体に似合わず素早かった。一気にルイーズとの距離を詰めると、その大剣を振り下ろす。
ごろりと音がしたような気がした。胴体から切り離された勢いでルイーズの頭部がカレンの足下に転がってきた。その顔は恐怖で歪んだままだった。
父親は大剣を握ったまま、カレンに体を向けた。
今のルイーズがそうだったように、この父親が本当に皆を殺したのだろうか?
「……皆、殺したの?」
声が掠れる。
「そうすると言っただろう? それにお前が望んだことだ」
父親の低い声が返ってくる。
その言葉を聞いてカレンの顔に浮かんだものは満面の笑みだった。他の人が見ればそれは狂気の笑みに見えただろうか。
そうかとカレンは思う。願うのならば、今のルイーズのように大きな恐怖と大きな苦しみの中で皆が死んでいてほしかった。カレンは心からそう思う。
カレンは無言で足下に転がってきたルイーズの頭部を踏みつけた。何度も何度も踏みつける。
優しかった兄のことだ。きっとネイトはこれらのことに怒るのだろう。でも、自分たちは家畜ではない。殴られたら殴り返すのは当然なのではないだろうか。
遠い記憶。まだ幼かった頃の記憶だ。それでも優しかった兄の笑顔だけは今でも鮮明に思いだすことができた。
そしてカレン、カレンと呼びかける優しい兄の声。その声は今もこの耳に残っている。
今、カレンの視界にはあの父親が長剣を振り上げる姿がある。不思議とそこに恐怖はなかった。
カレンは兄の笑顔や優しい声を思い返しながら、笑顔を浮かべる。先程までの狂気じみた笑顔ではなくて、心から幸せそうな笑顔だ。
……ごめんね、兄さん。そして、ありがとう。
カレンが心の中でそう呟いた時、視界の中で父親が長剣を振り下ろした。
頭の奥でぷつんと音がした気がした……。
雪が散らつき始めていた。その山道に二つの影があった。一つは大きく、一つは小さい。時折、山中から聞こえる獣の声以外は二つの影が歩む足音だけだった。
小さな影が大きな影に語りかけた。
「
小さな影の問いかけに大きな影が無言で頷いた。
「人を殺してはいけないのですよ。本にそう書いてありました」
「そうだな……」
大きな影がそれだけを返す。小さな影もそれ以上は言葉を発することはなかった。
雪が散らつく寒い山道。周囲で動いている物は、この二つの影だけだった。
「これから、どこに行くのでしょうか?」
少しの沈黙の後、再び小さな影が口を開いたようだった。
「北だ。もっと北に行く」
「そうですか。北は寒いところですね……」
小さな影の言葉に大きな影が言葉を返すことはなかった。
雪が散らついて底冷えのする寒さが増していく山道。その周囲で動く物はこの二つの影以外には何もなかった。