第17話

文字数 3,185文字

 水曜日。バツ新聞の発行から六日目となり、鯉ヶ谷高校では知らぬ者の居ない噂話の種となっていた。新聞部発行の『鯉ヶ谷新聞』でも「エックス新聞の乱心!?」と銘打ち、全力で犯人を探していると報じた。下馬評では新聞部がとうとう“探偵”を有言実行するのではないかと期待が高まっている。
 そんな生徒たちの声は露ほども知らない里巳は、放課後の『開かずの間』で珍しく髪を上げ、ヘアゴムを咥えていた。慣れないながらも額からちょうど触角が生えたようなポニーテールを作る。素顔が晒されるだけで、まるで別人のような雰囲気になった。
 日本人離れした透き通るブロンズの瞳と、長い睫毛の上にくっきりと彫られた二重瞼。ホクロはなく、鼻筋は定規を立てたようにすうっと細く通り、街行く誰もが「欠点がない」と思うことだろう。
 謎の変身の一部始終を見守っていた錦野は、どこかでメガネがおかしくなったのかと思った。彼が知るダウナーな少女の姿が見えなくなって驚いていたからだ。
「おやおや。どこの事務所にお入りで?」
「くだらない冗談は要らないわよ。それよりも、何か情報は手に入ったの?」
 普段通りの声を聞いて錦野がふるふると首を振る。今日一日至る所で地獄耳を働かせていたが、彼らが追いかける一件について語る生徒の話は、どれも「エックス新聞の発行者って……」とか「宮路と関係がある女子って……」などと謎の人物についてあらぬ推測を言うだけだった。
「やっぱり、核心的なことはわからないままね」
「申し訳ないよ」
「ま、そうだと思って、こんな恰好をしたのよ」
 錦野が頭上にハテナマークを浮かべるので、里巳は自らの妙案を呈した。
「これから大伴美羽に会ってくるわ」
 疑問符はビックリマークに変化した。そして他人を利用することには躊躇いのない錦野が思わず問うてしまう。
「良いのかい。協力は有り難いけど、天立嬢が表立って動けばエックス新聞の犯人として疑われてもおかしくないよ」
「ポイ捨て犯以外の美術部員に錦野が話を聞く方が危険度でしょう。それに、会うのは私であって私じゃないから……錦野。何かテキトーに名前、頂戴」
 里巳がそう言うと、目の前の記者が途端に面白そうな笑みを浮かべる。『在籍していない生徒の噂』のような記事が頭に浮かんだ様子だったが、エックス新聞に使えるかどうかは微妙なところだった。
 新しい名前決めにたっぷり十分を要し、時間の無駄遣いを自覚した里巳は早歩きで特別教室棟の階段を上った。

 里巳の目的は大伴美羽との接触だった。現在の美術部の内情は、筧では二年生しかわからない。ならば他の美術部を当たるのが道理だが、いかんせん立場を隠している錦野から直接コンタクトを取るのは難しかった。
 そしてもちろんのこと、里巳も大っぴらに動けば疑われる立場だ。だからこそまったく別人の様相へと変わることで目的を達成しようとしている。

 錦野が見立てた通り、美術室の暗がりに対して扉越しに目を凝らすと、セーラー服を着た大きめな背中が見えた。里巳は扉の引手へと静かに指をかけると、最低限の音だけで教室に入って行く。
 『こちら側、美術部』という張り紙付きのロープは少し前に訪れた時と変わらない様子だ。しかしその先にあるいくつかの絵は進化を遂げ、さらに洗練されている。
 特に目を引くのは、やはりあの男女が抱き合っている絵だ。神秘的で、かつ生々しさがある。人の情欲と、その間にある定規では測れない感情を絶妙に表情や肉体へ投影している絵画。
 それと似たタッチで別の絵を書いているのは一人の少女だ。少女と呼ぶにはかなり発育が良く、猫背で座っていると男子並みの厚みを感じる。しかし、ふくよかというよりは、グラマーで女性的な体つきに見えた。長い髪は少しウェーブがかり、ボリュームのある見た目になっている。
「……」
 作品へ真剣な眼差しを向ける少女は里巳の存在に気づきもしない。里巳もその集中力に気押されるように、教室の扉を閉めてしばらく待つことにした。
 ゆっくりと色が増えていく。雨の日の道に水溜まりができて、浮かんだ虹が反射するように、絵は美しさを増していく。描かれているのは図書館と思しき場所で佇むように本を読む老婆だ。少し引いたアングルで体全体を写し、辺りには別の小さな手のひらがいくつもある。
 美しく年老いた女性が慕われながら余生を謳歌している。そんな想像がすぐに膨らむような作品だった。
「ふう」
 大伴が自らの作品を眺めて一息ついたところを見計らい、里巳は十分以上閉ざしていた口をようやく開いた。
「失礼しています。大伴美羽さん」
「え……?」
 集中していた大伴は石を落とした後の水面みたく跳ね上がって驚く。そして人の存在に次いで、露わになった里巳の美貌に愕然とした。
「あなた、誰?」
「二年のオオエヤマ・リミです。制作の邪魔をしてごめんなさい」
 学年も名前も偽った。
 オオエヤマは「大江山、いく野の道の、遠ければ、まだふみもみず、天の橋立」の句から取ったらしい。天立という苗字からそれを連想できる錦野の知識量は流石だが、わざわざ珍しい苗字を付けたがるネーミングセンスはどうにかならなかったのかと里巳は諦念を浮かべた。せめて名前の方は普通にしようと本名をもじってリミとした。
 さて、偽名はさほど重要ではない。ここで里巳がすべきは、錦野が接触しづらい大伴から情報を引き出すことである。しかし利益と不利益に行動原理を支配されがちな里巳があの新聞記者よろしくフレンドリーに情報を開示させる技術を持っているはずがなかった。
「この教室、宮路先生が居ないのに使っても良いんですか? 私の記憶が正しければ、先生は勝手な行動にかなり厳しかったように思うのですが」
「……許可はちゃんと取っているわ」
「なるほど。では大伴先輩が宮路先生のお見舞いに行った生徒なんですね」
 里巳があっさりと指摘してみせると、大伴は「何でそのことを……!」とあからさまに驚いた。わかりやすい反応は、あまりにも「犯人」と言うには素直過ぎる――里巳にはそんな風に感じた。
 新聞部のリサーチ力は確かだが予想が外れていることは多い。大伴に対する警戒度を一つ落としつつ、会話の主導権を握りたい里巳はさらに言った。
「こんなに綺麗にカマにかかってくれるとは思いませんでした。宮路先生に教室の利用許可を取るだけなら、電話でも構わないでしょうに」
 突然現れた後輩の指摘に、温厚そうな大伴の顔が曇る。
「あなたは一体何なんですか。私に何の用事があるんです」
「大伴先輩もご存知かと思いますが、宮路先生の噂について調査している者です」
「もしかして、あなたがエックス新聞の発行者……?」
「そうだとしたら?」
 大伴は筆を捨てるように置いて、目の前のセーラー服に掴みかかった。さっきまでのおどおどした態度はどこへやら、一回り大きな身長が里巳を圧倒する。
 そんな中、見た目よりも感情的な人だ、と当の里巳は俯瞰的に見ていた。近くで観察すると指先や髪が荒れている。元々なのか今の状況におけるストレスなのかは判別がつかなかった。
「ふざけないで! あんな記事書いて、よくものうのうとこの教室に入れたわね」
「まだ、何も言っていませんよ。その手を離してください。宮路先生に続いて美術部員が暴行事件を起こしたなんて噂が広まったら、コンクールへの参加すら危ぶまれてしまいます。せっかくそれほど美しい作品を描いているのに、勿体ない」
 そこまで言うと、大伴はハッと気づいたように手を緩めた。そうして離した先で悔しそうに握り拳を作り里巳を睨む。
「あなたの勘違いを一つ訂正しておきますが、私はエックス新聞の発行者ではありません。そして宮路先生の噂を流したのは、本来のエックス新聞の発行者ではないのです」
「え……?」
 困惑する大伴に、里巳は事のあらましを話した。
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