第25話

文字数 2,977文字

「じゃあ、さとちゃん。先にお家で待ってるからね」
「うん。用事が済んだら帰るから」
 学校での活動があることを仄めかしておくと枝都子は安心してくれる。それを知っていた里巳は祖母を先に帰すことにして、跨いだばかりの教室に振り返った。やがてカラカラと小さな音を鳴らして進路指導室の扉が開く。
「お疲れ様。天立さん」
「乙部先生、ありがとうございました。とても助かりました」
「良いのよ。それよりも天立さんの演技力は本当に凄いわね。いっそ今からでも役者さんを目指しちゃう?」
 不安定な職業を提示するのは教師の推薦としてどうなのだ、と里巳は思ったが、今は他に言いたいことがあった。
「言ったじゃないですか。私は『普通』に暮らせたらそれで良いんです。才能とか生まれ持ったものを使わない平和な場所で、何のレッテルも貼られることのないように」
 祖母に嘘をつく理由は乙部にも話していた。枝都子は芸能人だった両親のことを気にせずに「普通」の学生生活を送って欲しいと願っている。だから里巳を引き取った際には父親の苗字をすぐに変えた。
 子どもの頃、母親に似た容姿や目立つ経歴のせいで他者との隔絶を感じていた。里巳にとって『特徴』とはある意味トラウマのようなもので、取り払えば幸せに近づくと思ってしまっている。もしもレーザーで除去できるなら、人生の要らないホクロの全てにお金をかけたいくらいなのだ。
 だから錦野が勝手に“探偵”などと呼び始めた時には蕁麻疹が出た。彼だって頭はキレる方なのだから自分で推理したら良い。そう思うことは何度もあったのに、錦野は必ず里巳を頼る。
「才能があるって言うのはとても大切なことよ。もちろん進む道は本人が選ぶものだけど、持たざる人の分まで何かを創ることができるという自覚はあるべきだと、私は思うわ」
「どうしてですか?」
「そうじゃないと、持っていない方の人が報われないから。天立さんだって、欲しいものを買ってもらえなかった時はとても悲しいでしょう?」
「そんな子どもみたいな目を向けられても、期待に応えられる保証なんてありませんよ」
 「子ども、ね」と言いながら乙部は口に手を添えて笑った。困ったように少しだけ眉を八の字にして苦笑いする。
「人は誰かに期待する生き物よ。自分が持っていないものじゃないと誰かには期待しない。天立さんを頼る誰かが居るなら、それはあなたにしかないあなたの良さを、その人が知っているというだけじゃないかしら」
「私は私が嫌いです。それを認められたところで……嘘ですよ」
 里巳だけの良さ。つまり里巳自身が自覚したところで絶対に認めようとしない部分のことである。自認しない才能はお世辞か嫌味と相場が決まっていた。
「少しお説教が必要みたいね……天立さん」
 しかしそれを聞いた教師は黙っていなかった。自分を傷つける思想はピアノ線みたく里巳に絡みついていて、このままでは心は陶器のように割れてしまう気がしたのだ。
「あなたは両親の娘じゃないのよ。あなたに芸能界や芸術への憧れが無いのなら、知名度なんてものは必要ない。だから天立里巳という一人の人間として生きるのに、立場や才能を枷だと思う必要もないのよ。そして全ての才能が親の持ち物だったなんてことは、絶対にあり得ない」
「……どうでしょうか。ヒトが遺伝子の掛け合わせでできている以上は、限りなく親譲りの物が多いと思いますが」
「そんな話をするなら、人類はみんな等しく木登りや水泳が得意じゃないとおかしいわ。その反論癖はあなた自身のもの? それともご両親がそうだった?」
 里巳は大きな瞳をはっと開いた。
 母親は世間に無実であることを言い返し切れなかった。父親は自分の声が無意味だと悟って逃げてしまった。
 だから里巳は、せめて自らの口だけは閉ざさまいとしている。言われるがまま責められたら人の心は死んでしまうのだから。
 何か、名前の付けられない何か大切なことを教わった気がして、里巳はぎゅっと自分の心を抱いた。
「乙部先生みたいな人と、もっと早く出会いたかったです」
「私も上等な人間ではないわ。美大まで行って、デザイナーになる夢を諦めたの……凄く、悔しかった。だからせめて生徒たちには夢を叶えて欲しいのよ。知ってる? 今、美術部に凄い子が居るの」
「大伴美羽さん、ですか?」
「そう。実は彼女も進路指導室に顔を見せてくれているのよ。私はああいう子に夢を叶えて欲しい。有名になるってことは、とても難しいことなんだけどね」
 こんなところでも有名人の名前は出てくる。里巳が夢を見つけることがあったとして、それは少なくとも世間話のネタにされるような職業でないことは間違いない。だからこそ好奇心で尋ねてみた。
「もし私が女優になりたいと言ったら、先生は応援しましたか?」
「もちろんよ。天立さんには素質があるもの。知名度的にもブランディングはばっちりよ」
「……やっぱりその道は遠慮願います」
 里巳が断るとわかっているから冗談になる。彼女にジョークを飛ばす人間なんて限られている。乙部が生意気な男子生徒と同じくらい天立里巳という少女を理解している証拠だった。
 錦野は里巳に言った。彼では解けない問題でも里巳ならば解くことができると。詰まるところ、彼は諦めたと同時に期待したのだ。本当なら煩わしいはずの評価だが、錦野が認めている里巳の才能は「両親の娘だから」ではない。だから里巳はあの『開かずの間』で居心地が良かったのだ。
「少し用事ができました。乙部先生、今日は本当にありがとうございました」
「どういたしまして。気をつけて帰ってね」
 里巳は頭を下げて特別教室棟の階段を駆けた。吹き抜け廊下を戻り、教室棟の掲示板で『鯉ヶ谷新聞』を睨む。バツ新聞への宣戦布告を取り止め、乗っ取られているなんて曖昧な噂話で済ませたのは、まだ里巳の意思を捨てていないから。
「まどろっこしいやつ」
 里巳が真意を汲み取って協力する姿勢を見せる保証もないのに、錦野はまだ「期待」している。期待なんていうのは無責任で勝手な気持ちに他ならない。しかしそれは、里巳が人を信じることを止めない気持ちと少しだけ似ていた。
 里巳は上履きのままズカズカと校舎の外に出る。ぐるりと特別教室棟を回り込み、正門から最も遠い端に位置する場所の外扉を感情任せに五回叩いた。もしも近くに誰かが居たらバレてしまうことは必至だったが、保護者も生徒も教師も面談に勤しんでいるためその心配はなかった。
 「どうぞ」と間の抜けた声がして、里巳は苛立ちを隠しもせずに『開かずの間』の扉を開けた。そこには塩っぽい平たい顔に、太い四角フレームのメガネをかけた男子生徒が見慣れた通りに座っている。
「やあ。もうこないんじゃなかったの」
「白々しいのよ似非ライター。宣戦布告もできない腰抜け。遠回しの陰気者」
 頭に溜まっていた悪口を一頻り放つと、当人は塩顔をニヤつかせて「酷いなあ」と呟いた。錦野は里巳からこのくらいの毒舌が溢れることくらい知っている。
「探偵にはならないよ。だけど私はただの学生だから、問題だけは解いてあげる」
「それは頼もしいね」
「どうにかして芦間恋奈と接触させて。彼女が犯人ならそれで良し。違うなら犯人がわかるまで契約続行よ」
 頼り甲斐のある言葉に、錦野は考えることもしないで「仰せのままに」と笑った。
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