第31話

文字数 3,116文字

 しかし認めてしまったからには彼女をバツ新聞の発行者であることを自供させなければならない。依然として錦野の立場は危うい。里巳は悪事を働いていない者が罪を被るなんて見過ごせない人間だからだ。
「まずあなたにたどり着いた時、正直言って私は信じられませんでした。あなたは多くの生徒から信頼されているし、相談事も熱心に聞いてくれる。だから私は、あなたの行動に『悪意のない可能性』を考えました」
「悪意のない可能性……」
「あなたは昔、デザイナー志望だったんですよね。そして大伴美羽も、ジャンルは違っても同じ絵の道に進もうとしていた生徒だった。だから応援しようと……いえ、今もしている。だって生徒の進む道を考えるのがあなたという先生だから」
 今まで見てきた乙部の教師としての行動を信じたかった。その末にたどり着いたのは、大伴が画家として大成するためのプランだった。
「クリエイターには知名度が必要。つまりブランディング。もしも大伴美羽に教師との援交疑惑が上がれば、自ずと│そういう路線(・・・・・・)で彼女にスポットが当たるから」
「そうよ」
 大伴が過去に性的虐待を受けていたという噂。芦間によって裏打ちされた事実であったが、多くの人間は仔細を知らない。しかし調べればこうも容易く見つかってしまう。
 実際、学生の里巳たちでさえ彼女の過去にたどり着くことができた。大伴美羽が吹聴していなくても狭いコミュニティの中では軽い噂が立つくらい珍しくない。そして火の粉を浴びない限り、火のない所では火事にはならないものだ。
 虐待を乗り越え、画家としての才能を開花させたうら若き女子高生――なんというサクセスストーリーだろうか。世間やメディアが食いつくには十分過ぎた。
「大伴さんは過去を乗り越えて、画家になりたいと私に相談してくれたわ。だけど良い絵が描けるだけの人はたくさん居る。評価される作品を創れることは前提で、現実として食べていくには注目を浴びなければ難しい。飛び抜けた才能が必要なの」
「あなたの言うその才能が、性的虐待の過去、ですか」
 里巳は押し潰したような声で聞いた。乙部は見えない月を眺めるかのように恍惚な表情を浮かべ、記憶の中にある『美』を思い出す。
「大伴さんの応募予定だった作品、見せてもらったわ。とても……とても素晴らしい絵だった。人の手で描かれたとは思えないほど神秘的で、だけど人にしかわからない艶めかしさや穢れがある。あの絵だけで、見た人たちは彼女のことを知りたくなるわ。そして噂を聞き、真実を知った大人たちは気づくのよ。『ああ。大伴美羽には誰にも真似できない唯一の才能があるんだ』って」
「ふざけないで!」
 怒りが溢れていた。錦野に向けた毒舌の数々なんてただのリンゴだったかのごとく、血の味がするくらい鋭く上擦った怒りだった。
「辛い過去が“才能”な訳がない。それを乗り越えた心は、その人だけのものなの。誰かに詮索されたり、ましてや才能だなんて言い換えられて良いものじゃない!」
「あなた、もしかして……天立、さん?」
 里巳は口では答えを示さず、代わりに結い上げた髪を解いた。いつも通り目を隠すまで落ちてきた前髪を見て、乙部は腑に落ちたような表情をした。
「そっか。あなただったから、真実にたどり着けたのね」
 その瞬間、乙部から半ば諦めたような呼吸が漏れた。
「ねえ、天立さん。考えてみて。あなたに進みたい道があったとして、もしそれが普通に大学へ進学するだけではどうにもならない道だったとしたら? あなたは夢と過去、どっちを選ぶ?」
 問いかけられたのは実感の湧かない質問だった。幼い頃に誰かを持て囃す人間の恐ろしさを、もっと言えば手のひらを返す人間の薄情さを知っているから、里巳はアニメのプリンセスにだって憧れたことがない。
 押し黙る生徒を見て、乙部は続けた。
「選ぶのは難しいわよね。だけど私にはその選択肢すらなかった。平穏な暮らしで手に入ったのは、芸術とは無縁の生活だけ。私は今でも夢を叶えられなかったことをずっと後悔している。辛い過去が無い代わりに、辛い未来が待っているだけなの」
「道のためなら心を捨てなきゃいけないんですか」
「傷ついて欲しい、なんて思っている訳ではないわ。ただ、必要なの」
 二人は思想が平行線をたどることを察した。お互いに言葉が見つからないでいると、走ってくるような新しい足音が廊下に響いた。
 足音の主は息を切らし、慌てた様子で走って来た。日本人女性の中ではやや大きめの体格。荒れ気味の長髪がさらにぼさぼさになるのも気にしないでスカートを揺らす。大伴は温和に見える顔を怪訝な面持ちに変えて、信じ難い光景をどうにか飲み込もうとしていた。
「……乙部先生」
「大伴さん……!?
 驚いたのは乙部だけでなく里巳もだった。なぜなら彼女が学校に残っている理由は、彼女は真実を知る立場にあると判断し、錦野との通話越しに話を聞かせるためだけだったからである。詰まるところ、本来は『開かずの間』で待機しているはずだったのだ。
 動揺する後輩を落ち着かせるために、大伴は下手くそに微笑みかける。
「ごめんね、オオエヤマさん……じゃなくて、天立さん。約束だったのに」
「……いいえ、構いません。あなたも言いたいことがたくさんあるでしょうから」
 里巳と大伴は互いに頷いた。そして今回の事件において最も根深く巻き込まれる結果となった少女が犯人と向き合う。
「乙部先生。私は確かに画家になりたいです。だけど過去に注目された結果なんて嫌です。私は、ちゃんと私の絵を評価して欲しいんです。宮路先生や、乙部先生が認めてくれたように」
「……世の中は綺麗事じゃどうにもならないのよ。芸術は、知名度も含めて芸術なの。誰にも知られない作品になんて、何の価値もない。私がそうだったように」
「私は画家になります。自分自身の作品の力だけで。絶対に」
 言い切る若者の希望に満ちた表情に、乙部はかつての自分の面影を見ていた。大伴をとても哀れにも思ったし、絵の中に居た女性のような美しさも感じた。あまりにも綺麗なものに心打たれた時、人は言葉を紡ぐことを忘れるのだ。
「乙部先生。宮路先生にしたことを償ってください。そうしなければ彼は教師を続けられなくなる。大伴先輩には、守ってくれる頼れる大人が必要なはずです」
「頼れる大人……そうね。それが大伴さんの選ぶ道なら、私は邪魔者になってしまうものね」
「念のため言っておきますが、この会話はちゃんと録音していますし、別の協力者たちもリアルタイムで聞いています。逃げ場はありませんよ」
 里巳は警告としてスマートフォンを取り出して通話画面を見せた。乙部は大人がよく使う苦笑いをする。
「今更そんなことしないわ。もう少し人を信じてくれても良いのよ、天立さん」
 土台、無理な話だと里巳は思った。今日で人を信頼することの脆さを改めて痛感した。否、乙部が『里巳だけの教師』だったなら、どこまでも信じることができただろう。「ずるい」という言葉は誰にも聞こえない喉の奥だけで響いた。
「……大伴さん。陰ながら応援しているわ」
 正面から向き合うも、二人の視線は交わらなかった。大伴は大きな体を丸めるようにお辞儀する。お役御免であることを自覚した教師は、罪を償うために立ち去ろうとした。
 そのすれ違いざま、里巳はカーディガンの背に聞いた。
「もし私が女優になりたいと言ったら、私の生い立ちを世間に公表しましたか?」
「ええ。当然よ」
 迷いのない返答を聞いて、やはり彼女に悪意はないことを悟る。ただそこには大伴美羽の夢を応援する乙部という教師が居た。
 鼻を突くような寒さが里巳の目頭を熱くさせていた。
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