第28話

文字数 3,008文字

「……ここまでの話を聞いて、一層わからなくなりました。あなたはどうして宮路先生が不利になる追加記事を出したんですか」
「それが宮路先生からのお願いだったからや」
 とうとう里巳の頭が混乱し始めた。『開かずの間』に集った者たちの総意では「芦間が大伴の才能を妬み、自らの存在を露見させずに復讐を行った」というのが大筋の予想だったのだ。
「……だけど、そうか。よく考えたら二枚目のバツ新聞は宮路先生にしか焦点を当てていない。大伴先輩を狙うなら援助交際の相手は『学外』じゃなくて『学内』の生徒になるはず。そんな単純なことを見落としていたのね」
「何や納得した顔しとんなあ。普通信じられへんやろ、こんな話。ウチも最初、何言うとんこの人って思ったわ。せやけどワケを聞いて納得した」
 芦間はエラを作るように頬を強ばらせて、あたかも顔の四角い美術教師の真似をした。
「『このままだと美術部が危ぶまれてしまう。だから私が身代わりになる形であのフェイクニュースを本物にしてしまえば、美術部を遠ざけることができるはずだ』って。ホンマ、あの先生らしい考えやで」
「宮路先生らしい、ですか」
「うん。あの先生、生徒のためなら自分のことなんて平気で犠牲にすると思うで。それこそウチみたいなちょっと関わっただけの生徒でも」
 宮路の教師像、人間像は大伴が言っていたことと一致する。錦野のような授業を面倒臭がっている多くの生徒には不評だが、正面から見える世間の評判と人の側面に異なりがあることは里巳の理解するところであった。
「つまり二枚目の新聞は、宮路先生が自らを囮にするために作成したもの。あなたは身動きの取れない宮路先生に代わってあの記事を貼りに来た協力者だった。それが真相だと」
「せや」
「宮路先生を守ろうとは、考えなかったんですか」
 里巳が尋ねると、芦間の陽気さはなりを潜めたように訥々と言う。
「それが最善なんやろね……ウチはウチにできること、よぉわかってるつもりなんよ。学校中に広まった噂の払拭なんてどうやってもでけへん」
 それがメディアという怪物の恐ろしさだ。情報とは劇薬である。一度世に放たれた毒やウィルスを抹消することなんてできない。里巳は彼女の痛感した無力さを誰よりも理解でき、ぐっと歯を食い縛った。
「で。ここまでの話をして、こっちもわかったんやけど……やっぱり宮路先生を叩いたんは本物のエックス新聞じゃないんやな?」
 ここで初めて里巳は探られていたことに気づいた。芦間は見た目よりもずっと強かで、腹芸にも長けているようだった。里巳は素直に答える。
「はい。私は犯人を探しています。これ以上、誰かを貶めるニュースは見過ごせませんから」
「頼むわ、オオエヤマさん。もう手遅れかもしれへんけど、宮路先生を助けられるなら助けてあげて。大伴ちゃんもきっとそれを望んどる」
「これは事件に関係のない質問なのですが、大伴先輩がそこまで宮路先生を慕う理由は何ですか」
「大伴ちゃんはな、色々あって男が苦手やねん」
「……噂は聞いたことがあります。性被害に遭った過去がある、と」
「それが実の父親からの虐待やって話は?」
 聞いたことのない話に里巳は首を振った。芦間は猫のような目をこれまでに無いくらい真剣に向けて「誰にも言うたらアカンよ」とドスの効いた声で念を押した。
「男が苦手な理由を聞いたら話してくれたことがあるんよ。子どもの頃、何度かそういう目に遭わされたんやて。今は逮捕もされてある程度吹っ切れて、作品の糧にしとる言うてた。ホンマ、逞しくってええ子よ。大伴ちゃんは」
「そう……だったんですね。逞しい、です」
「せやけど怖いもんは怖いまま。せっかく共学に来てそないなこと大っぴらにしたら友だちもでけへんやろ? だから内緒にしてたんよ。そしたら一年の最初の方の時、アホな男子どもがオドオドする大伴ちゃんを面白がってからかい始めよって。ウチもぶん殴ろか思ったんやけど……先に宮路先生がブチ切れてな。大伴ちゃんにとって初めて信じられる男やったんよ」
 男が苦手な大伴にとって宮路はヒーローのように映ったことだろう。加えて興味のある分野に造詣が深いと言うのなら、一層師事を仰ぎたくなるのは道理だ。美術室での取り乱しようが可愛く思えるほど彼女は宮路を尊敬していた。
「だから大伴ちゃんは宮路先生を慕っとる。でもあの時にはもう、宮路先生の方は大伴ちゃんの作品に惚れとったんやろな」
 教師、画家という職業としてお互いをリスペクトした二人は、この三年間でさらに絆を深めた。ここまでの話を聞いたら、里巳には宮路という教師が援助交際をするような人物には見えなくなっていた。
「だからこそ宮路先生は今年の大伴ちゃんの作品をコンクールに応募させる気は無いんやって」
「え……どうして、ですか?」
「宮路先生いわく、今回の作品はコンクールに応募したら確実に大きな賞を獲るって言っとった。せやけど『大人』のテーマに沿って大伴ちゃんが描いたんは男女の絵。過去を乗り越えた大伴ちゃんやからこその作品らしいけど、それが世に出るっちゅうことは……」
「世間に彼女の過去が伝わる可能性がある」
 うん、と芦間は悲しげに頷き、肯定した。次のコンクールは美大やプロまで注目する大きなものだと筧が言っていた。タバコの件で美術室に入った時に見た裸で抱き合う男女の絵。あれが大伴の作品であり、彼女が過去を乗り越えたからこそ描けた絵だ。
 しかしそのルーツを調べ上げる人間が居たら、彼女は乗り越えた過去をもう一度トラウマとして呼び起こしてしまうかもしれない。
 里巳もそうだ。いや、彼女は乗り越えられてすら居ない。大伴にそんな恐怖が襲いかかることを肌で実感し、密室の教室で冬空以上の寒気を浴びた。
「芸術家に限らず、クリエイターは作品だけやなくてその人の歴史まで評価される生き物や。だから大伴ちゃんの話だってどれだけ探る奴がおるかもわからん。宮路先生は大伴ちゃんを心配して、今回はテーマ的にも応募を見送ろうかって話をしとったらしい。せやけどそんな理由で世に出られへん作品があるなんて、ウチは可哀想で見てられへんわ。大伴ちゃんの才能やったら過去なんて関係なく、絵の道だけで誰かを幸せにすると思うねん」
 一頻り思いの丈を吐き出した芦間は朗らかだった顔を暗く染めてしまった。親を見失った独りぼっちの山猫が今にも鳴きそうに見えた。
 大伴のせいで美術の道から遠ざかった芦間からすると、騒ぎ立てるメディアには怒りしか湧かないはずである。里巳はそんな彼女に僅かばかりの共感を覚えた。
 推測でしかないことを言うのは不本意だったが、大伴のためにここまで暗躍した芦間にも何かしらご褒美があっても良いのかもしれない。里巳はそう思って、いつかに美術室で見た光景を伝えることにした。
「芦間先輩。先週、大伴先輩は別の作品を描いていたようでした。もしかするとコンクール自体を諦めた訳ではないのかもしれません」
「……ホンマに?」
 芦間は里巳を見た時よりも目を大きくし、にへ、と頬を崩しながら呟いた。
「そっか。ほなら、ええなあ……うん。そやったら、嬉しいわ」
 噂話もたまには悪くない。一瞬だけそんな思考になりかけて、里巳はすぐに自己満足を捨てた。元を正せば誰かが流したフェイクニュースが宮路たちを苦しめている。
 犯人を突き止めなければ。里巳の中で使命感が風船のように膨らんだ。
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