第32話(エピローグ)

文字数 3,544文字

 翌日の明朝、乙部は警察に宮路への傷害および名誉毀損を自白した。世間では田舎町の小さな事件でしかなかったが、情報は瞬く間に鯉ヶ谷高校中に広まった。エックス新聞を乗っ取り、宮路勝臣を学校から追い出そうとした張本人。土日を挟み月曜日になると、顔を合わせた生徒たちは一層噂話を拡大していった。

 『開かずの間』には今日も三人の生徒が居た。それだけ学生が集まれば他愛ない会話に花が咲くこともしばしばだが、このメンバーで率先して喋るのは錦野くらいだ。そして疲れが充満したようなどんよりとした空気の中では彼の口すら呼吸を控えたくなる。
 そんな中、ツインテールの毛先で遊ぶ筧が今日幾度目ともわからない溜め息を吐いた。
「まさかあの乙部先生がねー……」
「意外とショック受けてないんですね。筧先輩」
 椅子に大きくもたれかかった錦野が言った。飄々と人を喰うような態度はいつも通りだが、目の下に隈があるせいで陰湿な人間にしか見えない。筧は自分の落胆もほどほどに、ちらりと机に頬をつける女子生徒を見遣る。
「ショックはショックよ。でもそこの後輩の落ち込みっぷりを見たら、悲しむ気も失せるわ」
「……落ち込んでいません。今後を憂いていたんです」
 里巳を見守っていた錦野と筧は視線を合わせて「やれやれ」と首を振る。目が隠れていても表情は明らかであった。
 里巳は乙部を信頼していた。人間性の深いところまではわからなくても、進路指導としてこれ以上ないほど適任の教師だと思っていたのだ。祖母への嘘に協力し、迷っていた文理選択にも里巳の将来が考えられた上でのアドバイスをしてくれた。大伴に対する歪んだ期待と応援が無ければ、きっと今でも心から頼っていただろう。
「結局今回の騒動は、天立嬢の嫌いな『悪意』は無かったのかな」
 錦野の疑問にはすぐに答えられなかった。世間的に見れば乙部の行動は『悪』と断するべきなのだろう。
 ただし乙部も宮路も、形はどうあれ大伴の才能を守ろうとしていたことに違いはないのだ。やり方に対する批判はあっても、里巳はそれぞれの行動が大伴の将来を広げた可能性は否定できない。里巳は重い体を起こして言った。
「ある意味では、ね。だけど乙部先生は間違っていた。私の考えは変わらない」
 彼女からすればレッテル有りきの知名度なんて反吐の出るものだ。もしも女優を目指して『二世タレント』なんて肩書きが付いたら、どれほどテレビ局から求められようとも里巳は迷わず社会から消える。
 ――きっと大伴先輩もそうだよ。過去の傷なんて思い出したくないに決まってる。
 証拠は自身のズキズキと痛む胸の中にあった。だから里巳は絶対に乙部を認めたくない。例え大伴の夢の実現のためにどれほど有効な手段だったとしても。
 傷を抉るような錦野の話題を払拭しようと、筧は努めて明るい声を出した。
「あんたたち、今回は大伴先輩が宮路側で助かったわね。もしこれで大伴先輩と乙部先生が知名度のために共謀していたら、エックス新聞はお終いだったんだから」
「確かにそうですね。そしてその時こそ、エックス新聞は告発新聞に成り果てていましたよ」
 エックス新聞が乗っ取られている可能性を新聞部が示唆していたことによって、普段とは異なる記事の出し方に納得した生徒も多いようだった。
 また掲示板への貼り紙認可制度は「教師が起こした事件で生徒を抑圧するのはいかがなものか」という提案がとある男性教師から説かれたことで泡影の案と化したらしい。
 今の鯉ヶ谷高校では「宮路のことを何らか嫌っていた乙部が学校を辞めさせようと追い込んだ」と噂されている。そこにそれぞれの思惑や生徒を慮る気持ちは介入していない。
「やっぱり噂なんてろくなものじゃないわね」
 里巳が本心を呟いた後、外扉を五回叩く音がした。そろそろこのやり取りに慣れてきた里巳と錦野は動じなかったものの、筧だけは慌ててだらしない姿勢を正す。しかしその行動は禁じられた教室に居るという理由からではなかった。
 錦野が扉を開けると、そこには小さな紙袋を片手にする西洋顔ジャパニーズ教師が居た。
「よ。お前ら」
「滝田先生!?
 いつも通りヨレたスーツを猫背で着こなして、どこかアウトローな雰囲気を漂わせながら『開かずの間』に入って行く。バタバタと身嗜みを整える先輩を横目に錦野が尋ねた。
「こんにちは。今日もサボりですか?」
「俺には他に言うことがないのか……」
 滝田がげんなりした表情をすれば芦間が唸る。錦野は今度のエックス新聞の記事の見出しを『鯉ヶ谷高校に居着く番犬!』にでもしようかと考えた。
 そして特に気にしていない当の滝田は何やら紙袋を渡す。
「今日は純粋に、お前らを褒めに来たんだよ。偽新聞のフェイクニュースから、ちゃんと真実を見つけ出して宮路先生を救ったんだ。だから、ほら。内緒の差し入れ」
 紙袋に印刷されているのは、多くの駅地下やデパートに店を並べているスイーツ店のロゴマークだ。話題や大衆性に関心深い筧と錦野は揃って「おー!」と声を上げる。
 テンションが上がる単純な二人を見ながら、里巳は辟易とした様子で呟いた。
「本当に救われたのは大伴先輩だけだと思いますけどね。宮路先生が芦間先輩に事情を話切れなかったのは、乙部先生がデザインの相談相手だったからだし……」
「あ? 大伴? 誰だそいつ」
 うっかり口からこぼれていた里巳の思考に、滝田が反応した。アソートの中からお菓子を選んでいた二人も「え」と固まる。
「ウソ。滝田先生知らないの? 結構受賞とかして全校集会で呼ばれたりしてるのに」
「興味なくて殆ど聞いてないからなあ……あ、今のナシで」
 不真面目な教師に呆れ声混じりの溜め息が溢れた。所詮興味のない人間には大伴美羽の功績もその程度でしかないと思い知らされる。
『芸術は、知名度も含めて芸術なの。誰にも知られない作品になんて、何の価値もない』
 あの夜の言葉がずっと里巳の胸に突き刺さっている。名声を得られず、夢破れた乙部だからこそ、本気で大伴美羽という芸術家を応援していた。その気持ちには嘘も悪意もない。
 悪意のない可能性を追いかけた結果は、必ずしも幸せとは限らないのだ。せめて大伴が平穏に夢を叶えることだけが今回の騒動の望ましい結末である。
 それに里巳は他人の大成を祈るよりも、明日の我が身の方が重要であった。
「なあ天立。お前、次からの面談どうするつもりだ? 今までは乙部先生に協力してもらってたんだろ」
 お菓子で生徒たちの気を反らせた滝田がこっそりと聞いた。里巳は嫌な話題を思い出して顔を背ける。
「お前さえ良ければ、どうにかして俺が代わりをやっても良い。学校側も事情を伝えれば協力してくれるだろう」
 その申し出に、前髪に隠れた目がぱちくりと動く。
「驚きました。そういうの面倒なタイプだと思ってたから」
「面倒さ。だけどお前が困る方が面倒なんだ」
 不真面目な男が良い教師ぶろうとしている。人間不信な里巳が信用足るかと言われればそうは言えないが、少なくとも現在の教師たちの中では最も本音が話せる先生だった。
 しかし天立里巳は基本的に天邪鬼な性格だ。誰かの思い通りは好きではない。
「いいえ。正直に話して来ます。乙部先生を否定した私が今のままだったら、きっと今回のことも、全部嘘になっちゃうから」
 今度は滝田の方が目を瞬かせたものの「そうか。頑張れよ」の言葉だけに留めた。彼もまた生徒の自主性と前進を応援する教師である。
 里巳は滝田が持って来たお土産を二つバッグに突っ込むと、椅子から立ち上がった。
「善は急げ、っていう昔の人の言葉に従って来ます。それじゃ、さようなら」
 里巳が『開かずの間』を出ようとする瞬間、各々手を振る筧や滝田とは違い、錦野だけが口を開いた。
「天立嬢。今度は本当に契約を破棄するかい」
 筧が「あんたねぇ!」と机を叩く。しかし錦野は里巳の後ろ姿へ真剣な眼差しを向けることを止めない。この問題は怨恨を掘り返してでも聞いておくべきことだと判断した。
 確かに祖母へ嘘をつく必要が無くなれば、里巳にとって『開かずの間』は不要な教室である。しかし嘘ではなく「真実のために必要」だと判断するなら、もう少しここに居る理由もある気がした。
「部活動ではないにせよ、学校の生徒と一緒に遊んでいるなら心配させないでしょ。ここはそういう理由で使わせてもらうわ」
「友達って言っても良いんだよ」
 愉快そうな男子生徒の冗談に、里巳はようやく機嫌を取り戻した微笑みで答える。
「嘘はつかないって言ったでしょう。そのフェイクニュースには、もの申すわ」
「これは手厳しい」
 『開かずの間』を出て、里巳は自転車をかっ飛ばす。幾ばくかの不安と期待を冬の訪れの中に吐き出した。
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