第11話

文字数 2,193文字

 錦野が何やら一計を案じたせいで、今日の『開かずの間』での集会は解散することとなった。時間を確認するとまだ五時前で、いつもの解散よりは一時間程度早い。家に帰るのがあまりにも早いと色々と不都合なので、里巳は特別教室棟三階の図書室で時間を潰すことにした。
 大して興味もない話題の小説を手に取り、席について五分で冒頭を読み終えた頃、苦みのある甘い果実の香りが鼻に届いた。
「やっぱここだったか。天立」
 僅かな息切れは彼女を探して階段を上ったからだろう。西洋風の彫りの深い顔が、ヨレたスーツを整えながら里巳を見下ろしていた。その顔が普段の授業の時よりもずっと真剣味に溢れていたので、一つの躊躇いもなくパタンと本を閉じる。
「こんにちは、滝田先生」
「平然としてるなあ。俺が何を聞きに来たかくらいわかってるだろ」
「『犯人は本当にお前たちなのか?』ですよね。答えはもちろんノーですよ」
 日頃、授業か『開かずの間』でのサボりでしか会わない滝田がわざわざ話をしに来たのだ。滝田の懸念は手に取るようだったし、彼もまた里巳の答えは予知できていた。
「そんなことはわかってる。錦野は知らんが、少なくともお前がニュースで人を傷つける訳ないからな」
 滝田ら三十代の人間には、里巳の両親はいわゆる世代ドンピシャの時の人々だった。数々の連続ドラマに出演した彼らの不倫記事は滝田周辺の世間話を大いに賑わせた。だからこそ嘘の報道を里巳が酷く嫌っていることも知っている。
 二人は静かな図書室の外へ出ると、近くの階段の踊り場で話の続きを始めた。
「やっぱり別に発行者が居るんだな?」
「はい。私と錦野は犯人を探すつもりです」
「探して、どうする?」
 それが滝田の最も尋ねたいことだった。まだ青葉でしかない人間は、そうでなくとも人は、時に未来を見ずに何かを成し遂げようとする。その意志が他人に向いた時の恐ろしさを滝田は知っているのだ。
 今回の件は里巳の両親に訪れた不幸の規模縮小版と言っても良い。果たして、里巳は寸分の迷いもなく答えた。
「悪意があったなら名前を公表するべきだと思います。もしも誰かがエックス新聞の記者の正体が錦野だと気づいてしまったら、彼はこの悪行の罪まで被ることになる。そうならないためにも、悪いことをした人は裁かれるべきです」
 今でも里巳は、両親の記事を捏造した週刊誌の記者だって何らかの罪に問われるべきだと思っている。今回も同じだ。宮路のことが真実かどうかはともかく、錦野という罪無き人間に最悪のレッテルが貼られる前に阻止したい。
 傍目には悪を滅する状況にも見えるが、そこにある種の危険性を孕んでいることを滝田は知っている。
「お前に正義感があることを否定はしない。だが肯定もしない。人間、一度レールを踏み外したからといって社会に戻れないんじゃ救いがないからな」
 どの口が、と里巳は思った。滝田は教師として正しいことを言おうとしているが、バレなければ違反行為でもやるタイプだ。彼女の小さな耳にはある種の自己保身にしか聞こえず、少女は滝田の言葉を婉曲して受け取った。
「さすが、車内喫煙者は違いますね」
「痛いところ突くなあ……でも気をつけろよ。学校なんて狭いコミュニティの中じゃ、上手く立ち回らないとすぐに悪者だ」
 実感のこもった様子で言った西洋顔に、里巳はニヒルな笑みを浮かべる。
「だから『黙認する』ですか?」
「まったく、嫌味ばっかり言うなよな。せめて錦野を見習えってことだ」
「肝に銘じておきます」
 どの口が、と思ったのは、今度は滝田の方だった。しかし滝田としても「天立は馬鹿なことをする生徒ではない」という認識があるため、これ以上の弁舌は徒労だろうと諦める。
「何か必要なことがあれば言え。借り一つ分は手伝ってやるから」
「わかりました。その時は頼りにしています」
「話はそれだけだ。せいぜい気をつけて……」
 再三の忠告をしかけた時、遠くから「天立さん!」と大きな女性の声が里巳を呼び止めた。里巳と滝田はびくっと肩を跳ねさせながらも、聞き覚えがあったから素直に振り向いて応じる。
「│乙部(おとべ)先生。こんにちは」
 階段の上から降りてくるのは一つ結びと中肉中背のシルエットの女性だ。窓から入る太陽の光を僅かに返す薄黄蘗のカーディガンと黒いパンツで、前髪を垂らさない髪型は模範的なオフィスカジュアルなスタイルである。
 里巳は乙部を美人だとは感じていないが、ナチュナルメイクがうまい人だと評していた。元々は凹凸をあまり感じない顔にうまく影を作っており、低めの鼻や一重は目立たなくなっている。
 ただし里巳の化粧の経験と言えば、幼い頃に母親のドレッサーの中身をぐちゃぐちゃに荒らした程度で、まともにオシャレを楽しもうと思う年齢になった時にはすっかり人目を集めないことばかりを気にするようになってしまったので正しい評価はわからない。
 さて、三人は踊り場で顔を突き合わせると、乙部が会話を切り出した。
「良かった。なかなか見つからないから、明日には担任の先生に言って呼ぼうかと思っていたの。滝田先生、天立さんを進路指導室にお借りしてもよろしいですか?」
「ええ、どうぞどうぞ。俺の用件は済んだので」
 滝田があまりにも保護者然とした言い草をするので、里巳は睨み顔でだらしない大人を見送ってから、乙部に言われるがまま進路指導室へ寄り道していくことになった。
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