第5話

文字数 2,061文字

 里巳が戻る途中、三階の視聴覚室の明かりが点いていることに気づいた。放課後に委員会が無いとあまり使われない教室で、今日は誰も呼び出されていなかった。里巳は興味なく通り過ぎようとしたが、その中に見覚えのある紺色のスーツがくたびれたように項垂れているのを見つけた。
 彼女は暗い雰囲気に迷いつつも、今回の件の当事者に話をしておくことにした。
「滝田先生、こんにちは」
「天立か。よお」
 教室に入ると苦味のあるシトラスの香りが漂った。おっかなびっくりといった様子で顔を上げた滝田は、いつもの放課後よりもかなり疲れた様子である。若干血色が悪く、深い彫りの顔と相まって、里巳が事情を知らなければ保健室行きを勧めたところだ。
「疲れてるみたいですね。タバコでも吸って来たらどうですか」
「今の俺にタバコの話は止めてくれ。胃が痛くなる……というかお前、わかってて言ってるだろ」
 軽い冗談のつもりで言った台詞は滝田に突き刺さった。里巳はもう少し性格の悪いことを言ってやりたい気持ちになったが、それで他人を追い詰めるような快楽主義者ではない。大人しく無害な教え子を演じることにした。
「錦野くんから聞きました。先生が犯人なんですか?」
「あのな。仮に俺が犯人だったとして、素直に言うわけないだろ。そして何より俺はやってない」
「その言葉が聞けて安心しました。これで気兼ねなく先生に恩を売れます」
 滝田は「恩?」と胡散臭いものを見る目を里巳に向けた。彼女は自分が策謀者だと疑われることを嫌って、錦野の作戦を正直に告げる。
「錦野くんが真犯人を見つけ出して、滝田先生の悪評を払拭してあげようとしているみたいですよ。そうしたら『開かずの間』の番人になってくれるんじゃないかって」
 実際のところ、時おり様子を見に来て周囲の様子を伝えてくれる滝田は、既に番人としての役割を果たしているとも言えた。
 そこで、里巳たちの狙いは恩に着せた確約である。人の往来状況がいつでもわかる――とまでは言わないが、事情を知っている滝田の存在が興味本位で『開かずの間』近くまでくる生徒たちを追い返してくれれば良いと思っていた。
 さらに言えば、今の状況は滝田の黙認によって成り立っているところが大きい。セキュリティを万全にするためには里巳たちが彼を囲う必要があるのだ。
 そんな打算丸出しの交換条件をこれ見よがしに提示しようと思っていたが、滝田は悩む素振りもなく里巳に泣きついた。
「頼む! ただでさえ生徒の視線も痛いのに、先生たちには規則破りが見つかりそうなんだ!」
「……惨めですね、先生」
 到底、生徒が教師に言うには相応しくない台詞だった。滝田は心を詰られるような息苦しさを覚えながらも、他に頼りがないことを自覚している。四面楚歌の現状に比べればマシだと考えていた。
 里巳は協力的になった滝田に向かって笑顔で尋ねる。
「あの吸い殻が見つかったのって先週の金曜日でしたよね。ちなみに、滝田先生は何をしていましたか?」
「おいおい。俺のアリバイを聞くのかよ」
「念の為です。全てを疑わないと、私も確信のない噂をバラ撒く生徒になってしまいますよ」
 滝田は老け込んだ顔をげんなりさせた。しかし里巳が愉快そうにニヤついているのを見て、諦めたように当日のことを思い出そうとする。
「その日は放課後から帰りまで、職員室でテストの問題を考えてたよ。何人か見ていた先生も居ると思う」
「その間にタバコ休憩は?」
「……した。ニコチンが無いと頭が煮詰まるんだから仕方ないだろ」
 随分と社会人的な理由だ、と里巳は思った。タバコですっきりした気分が味わえるのは、ニコチン欲求による苛立ちを短時間のリラックス効果で打ち消すからだ。その後は思考力の低下を招くので、詰まるところただの出来レースでしかない。
 プラシーボ効果と、パブロフの犬に見られるような条件反応の結果だ。里巳に言わせれば、滝田は間違いなく社会の犬だった。
「どこで吸いましたか」
「……」
「答えづらいということは、やましいことがあるんですね。つまり犯人は先生だと広めても問題ありませんね」
 滝田は脅しじみた言葉に「ああ!」と痺れを切らしたような声を放り、事実を言った。
「車の中だよ! だけど誓ってポイ捨てなんかしてない。だって普通に考えて馬鹿だろ。違反をバラしにいってるようなもんだぞ」
 里巳は噂があながち間違いではないと思いながらも滝田の言い分に納得した。確かに自分が違反を犯していると自覚があるのなら、せめて隠す努力くらいはするだろう。
「信用があるんだか無いんだかわからないなぁ」
 里巳の独り言に、滝田はぐうの音も出せなかった。
「教師の中には先生以外の喫煙者も居ますよね?」
「ああ。ぱっと頭に浮かぶだけでも片手じゃ収まらないよ」
「先生のように車の中で吸う人は? 確か禁止事項ですよね?」
「……恥ずかしながら居ない」
「そうですか。滝田先生以外に疑われる人物が現れないのも納得しました」
 ホント良い趣味してるよ、と滝田は生徒に向けるには情けない台詞を吐くしかなかった。
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