第12話

文字数 2,605文字

 鯉ヶ谷高校の進路指導室は少し不思議な場所だ。部屋の広さとしては教室の三分の二程度。様々な地元大学の資料や赤本、問題集などがあって、勉学教材の図書室とも呼べそうな場所である。
 そこまでは割と普通なのだが、異質なのは内装だ。最も目を引くのは、雑貨店に売っていそうな、動物をモチーフにした可愛らしい手製のイラストが両面テープで壁にたくさん貼られていた。一般的な公立高校の教室と言うよりは、なんとなく学童保育施設のような柔らかい雰囲気のある教室になっている。多くの生徒はこの教室がどうしてこのように厳格さからかけ離れた仕様になっているのかは知らず、稀に訪ねる里巳も例に漏れなかった。
 里巳は乙部の質問に大方の予想がついていた。その憂鬱も相まって低くなりかけた声のトーンをどうにか押し上げて「どうかされたんですか」と聞く。乙部はにこりと人当たり良く笑いかけた。
「念のため確認をしておきたくて……来週の進路面談、本当に担任の先生じゃなくて良いの?」
 鯉ヶ谷高校では二年生へ進級すると同時にクラスが文系と理系に分かれる。おおよそ文系の方に人数が偏り、文系か二クラス、理系が一クラス、文理合同が二クラスとなるのが通例だ。来週に予定されている三者面談は、生徒と保護者、担任の教師を含めて文理選択の確認を行うものだった。
 そして鯉ヶ谷高校では、生徒側の希望があれば面談時に他の教員――とは言っても担任を持たない保健室の先生や目の前の乙部くらいのものだ――に代理で行ってもらうことができる。里巳は夏休みにあった三者面談も、乙部に代理を頼んだのである。
「……はい」
 予測はできていたのに取り繕い切れなかったのは、ここには居ない家族に対する罪悪感からだった。少女の様子を察した乙部は、困り顔を作りそうな表情筋を無理やり押し広げた。
「そっか……おばあちゃんには、まだ本当のこと言えてないのね」
「すみません」
「ううん、謝らなくて良いのよ! 私が進路相談室に居るのはこういう時のためだもの。気にしないで」
 かぶりを振った一つ結びが大きく揺れた。
「じゃあ面談の時は、前みたいに『ボランティア部で頑張っている』って言っておくわ。天立さんも話を合わせてね」
「わかりました」
 現在の里巳の所属は、乙部が顧問を務めているボランティア部となっている。しかしあくまで書類上の話だ。実際には幽霊よりも透き通った部員で、里巳は一度もその活動へ足を運んだことはない。
「確認したかったのはそれだけよ。困ったことがあったら、また言ってね」
「ありがとうございます」
 里巳がどうにか口にした感謝の言葉には、言葉以上の意味は微塵もなかった。そそくさと乙部に背を向けて進路指導室を出る。こんな時ばかりは、自分の容姿にも自信が持てなくなるくらい心が醜く見えるのだ。

 国道沿いにしばらく自転車を走らせたら、近くには古くなった電灯と畦道ばかりが広がっていく。鯉ヶ谷高校から三十分ほどペダルを漕ぐと、その小さな家は見えてきた。築四十年の二階建て和装建築で、近くには野菜畑がある。都会離れした風景は一言で言えばみすぼらしくもあるが、土の香る空気は人混みの中では味わえない清涼さがあった。
 里巳は元々豪邸と呼んで差し支えないほどの家に住んでいたが、今はこちらの家の方がずっと落ち着くようになった。昔の家はいつ誰が見ているかわからなかったから。
 自転車をトタン屋根のバックヤードに押し込むと、里巳は砂利の庭をゆっくりと歩いて玄関に入った。早々コンソメの匂いがして、寒い空気に当てられた鼻が幸福感を覚える。
「ただいま」
「おかえり、さとちゃん」
 リビングからゆっくりと喋る嗄れ声が聞こえてきた。声の主は里巳がローファーを脱いでいる間に玄関へとやってくる。里巳がこの世で唯一信頼を置く祖母、天立枝都子(えつこ)だ。
 僅かに黒が混じるシルバーの髪を短めに揃えており、女性的な体付きが無ければ老父にも見える厳しめのつり目をしていた。薄く施した化粧では隠し切れない皺がたくさん浮かんでいて、七〇年分の歴史が刻まれているかのようである。
 彼女は手製のエプロンを締め直しながら里巳に尋ねた。
「今日は部活だったのかい?」
「うん。そうだよ」
「そうかい、そうかい」
 平然と吐かれた嘘に対して、枝都子は疑う素振りもなくとても嬉しそうに語る。その顔を見た里巳は風で荒れた前髪を直した。いつものように目元を隠して、敢えて祖母と視線を交わすことはしない。
「良かったよお。さとちゃんが『普通』に学校に通えて」
「……うん」
 里巳の前から両親が居なくなり、孤独となった彼女は簡単に周囲から冷ややかな目を向けられるようになった。いじめ紛いのこともあったし、毎日のように家に詰めかけてくる週刊誌やテレビ局の記者たちには恐怖心を植え付けられた。
 里巳の人間不信は未だに改善されていない。しかし、無二の味方である祖母に心配をかけることがとても心苦しくて、どうにか『普通に学校へ通う女子高生』を演じている。幸い俳優だった母親の影響か、人前で感情を隠すのは得意だった。
「じゃあ私、部屋で勉強してる。ご飯になったら呼んでね」
「はいはい。頑張ってね」
 そう言って枝都子はリビングへと戻り、晩ご飯の支度をし始める。里巳は聞こえないくらいのため息を吐くと小ぶりな洗面所で手を洗い、二階にある自室へと閉じこもった。
 里巳は今日の授業の振り返りをしようと日本史のノートを開いたが、頭にはずっと偽エックス新聞――もとい『バツ新聞』の記事が染み付いている。集中できない苛立ちを抱えるくらいならとベッドへ転がり込み、復習へ回すはずだった脳のリソースを割く先を変えた。
「攻撃的な悪意があるのは明白……よね」
 里巳としては、どんなことでも悪意のない可能性を探したい。先のタバコのポイ捨て然り、何にでも明確に人を陥れようとする考えがあるとは限らないからだ。里巳は人を信じてはいないが、夢を見ることを諦めた少女ではなかった。
 ただし今回は、両親のことを彷彿とさせるような事案である。犯人は宮路の名前を公にしている。宮路と教え子の不倫の真偽はわからないにしても、里巳からすれば報道を行った者は間違いなく悪者に他ならなかった。
 ――これは自己満足だ。私の鬱憤を晴らすための。
 しばらくは他のことに集中できそうにない。期末テストが終わった後で良かったと、里巳は心底思わされた。
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