第2話
文字数 1,827文字
里巳がエックス新聞のネタを提供した翌週の月曜日、下駄箱の前にある掲示板には人集りができていた。理由はエックス新聞の最新号が発行されたからである。
学校という閉鎖的な空間を利用した謎のコンテンツ。娯楽の少ない学生にとって、エックス新聞はその内容も然ることながら、話題の種としても有益だった。
里巳はある程度の内容を知っているので、興味のない生徒と同じようにスタスタと教室へ行こうとした。すると前から歩いて来た一人の男性教員がひらひらと手を振るのが見えた。里巳は軽いお辞儀で返す。
「おはよう。天立」
「おはようございます。滝田先生」
ヨレ気味のシャツの上に紺のスーツを着ており、くっきりとした二重と高い鷲鼻は西洋人っぽさを感じさせる。日本人離れしたビジュアルが生徒からはハンサムだと評判だが、滝田はれっきとした日本人で、かつ国語の教員であった。
里巳の鼻には彼が付けているシトラスの香水の匂いが届いたが、すっきりという感覚は薄かった。食べ物で例えるなら、金柑のように、食べた後に僅かに強い苦味が残る感じだ。彼女は悟られないように口呼吸に切り替えた。
「すっかり盛況になったな、この新聞。初めこそ胡散臭い貼り紙だったけど、今じゃすっかり鯉ヶ谷高校の生徒たちの娯楽だ。凄いよ。錦野も天立も」
「私はあまり関与してないですよ。それと、あまり生徒の居るところでは裏の話をしない方が錦野くんのためじゃないですか?」
滝田は「ごめんごめん」と繰り返した。彼は里巳の他に、エックス新聞発行者の正体を知る唯一の人間だ。そして彼が『開かずの間』の鍵の所持を黙認しているからこそ、錦野と里巳はあの教室を自由に使うことができている。
「どうしてこの新聞を始めたんだろうな」
「自称エンターテイナーですからね。奇抜な発想をする人の頭の中はわかりません」
「お前、褒めてるようで馬鹿にしてるだろ」
滝田がけらけらと笑う。本来ならば注意くらいはしても良い状況を見逃している辺り、里巳はこの先生にも錦野と同じ臭いを感じていた。
「ま、ネタに困って本当に事件を起こすんじゃないぞ」
「しませんよ。エックス新聞はフェイクニュースだけを取り扱う新聞なんですから」
「そう言えば聞いたことなかったけど、何でエックスなんだ? 匿名新聞とかでも良かっただろ」
「それは私も気になって聞いたことがあるんですが……」
里巳は呆れられることを承知で、聞いた話をそのまま伝える。
「『格好良いから』だそうです」
その日の午後には既に、進路指導室はいつもより盛況だったという。
変わり映えのない月曜日が流れていく。週初めということもあり、これから五日分は繰り返す授業の日々に多くの生徒たちはげんなりとしていた。「そんなサザエさん症候群に少しの潤いを!」と息巻いて、月曜日を刊行日にしているのが錦野だった。里巳には理解不能のエンターテインメント精神だ。さらに言えば、月曜日は体育がある火曜日と金曜日に比べれば幾らかマシだと思っていた。
週初めの七限目には必ず学年集会がある。一クラス三十人が四クラス。計百二十人が鯉ヶ谷高校の一学年だ。その人数を纏めて体育館に収容し、男女が分かれた番号順に、生徒たちが体操座りで並ぶ。
無駄な脂肪の多い中年の男性が前に立って、月末のテストまであと少しだの、最近は掃除が全体的に甘いだのと耳にタコができそうな内容をマイク越しに話している。
退屈な学年主任の話を聞き流していた里巳は、とある一つの内容で思考を夕飯の献立から現実に引き戻された。
「えー、次に……これは残念なお知らせになってしまいます。実は特別教室棟の裏で、タバコの吸い殻が見つかりました」
何人かの生徒たちがザワつく気配がした。里巳も一瞬だけ体を跳ねさせたが、理由は初耳の情報に驚いた彼らとは違う。
『校舎の裏でタバコが見つかった』――つい先週、彼女がエックス新聞のためにテキトーにでっち上げた内容と被っていたからだ。彼女は錦野が採用しなくて良かったと心底安堵した。
学年主任の教師は嫌悪感を滲ませるように話を続ける。
「見つかったのは駐車場ですが、先生方もご存知の通り校内は全面禁煙です。車内での喫煙も、もちろんいけません。生徒ではないと信じていますが、もしそうならば立派な犯罪です。今すぐ止めなさい」
最後の警告が誰の心を騒がせたのかは、里巳には興味のないことだ。しかし、間違いなく物好きな記者が心躍らせているという確信だけは残っていた。
学校という閉鎖的な空間を利用した謎のコンテンツ。娯楽の少ない学生にとって、エックス新聞はその内容も然ることながら、話題の種としても有益だった。
里巳はある程度の内容を知っているので、興味のない生徒と同じようにスタスタと教室へ行こうとした。すると前から歩いて来た一人の男性教員がひらひらと手を振るのが見えた。里巳は軽いお辞儀で返す。
「おはよう。天立」
「おはようございます。滝田先生」
ヨレ気味のシャツの上に紺のスーツを着ており、くっきりとした二重と高い鷲鼻は西洋人っぽさを感じさせる。日本人離れしたビジュアルが生徒からはハンサムだと評判だが、滝田はれっきとした日本人で、かつ国語の教員であった。
里巳の鼻には彼が付けているシトラスの香水の匂いが届いたが、すっきりという感覚は薄かった。食べ物で例えるなら、金柑のように、食べた後に僅かに強い苦味が残る感じだ。彼女は悟られないように口呼吸に切り替えた。
「すっかり盛況になったな、この新聞。初めこそ胡散臭い貼り紙だったけど、今じゃすっかり鯉ヶ谷高校の生徒たちの娯楽だ。凄いよ。錦野も天立も」
「私はあまり関与してないですよ。それと、あまり生徒の居るところでは裏の話をしない方が錦野くんのためじゃないですか?」
滝田は「ごめんごめん」と繰り返した。彼は里巳の他に、エックス新聞発行者の正体を知る唯一の人間だ。そして彼が『開かずの間』の鍵の所持を黙認しているからこそ、錦野と里巳はあの教室を自由に使うことができている。
「どうしてこの新聞を始めたんだろうな」
「自称エンターテイナーですからね。奇抜な発想をする人の頭の中はわかりません」
「お前、褒めてるようで馬鹿にしてるだろ」
滝田がけらけらと笑う。本来ならば注意くらいはしても良い状況を見逃している辺り、里巳はこの先生にも錦野と同じ臭いを感じていた。
「ま、ネタに困って本当に事件を起こすんじゃないぞ」
「しませんよ。エックス新聞はフェイクニュースだけを取り扱う新聞なんですから」
「そう言えば聞いたことなかったけど、何でエックスなんだ? 匿名新聞とかでも良かっただろ」
「それは私も気になって聞いたことがあるんですが……」
里巳は呆れられることを承知で、聞いた話をそのまま伝える。
「『格好良いから』だそうです」
その日の午後には既に、進路指導室はいつもより盛況だったという。
変わり映えのない月曜日が流れていく。週初めということもあり、これから五日分は繰り返す授業の日々に多くの生徒たちはげんなりとしていた。「そんなサザエさん症候群に少しの潤いを!」と息巻いて、月曜日を刊行日にしているのが錦野だった。里巳には理解不能のエンターテインメント精神だ。さらに言えば、月曜日は体育がある火曜日と金曜日に比べれば幾らかマシだと思っていた。
週初めの七限目には必ず学年集会がある。一クラス三十人が四クラス。計百二十人が鯉ヶ谷高校の一学年だ。その人数を纏めて体育館に収容し、男女が分かれた番号順に、生徒たちが体操座りで並ぶ。
無駄な脂肪の多い中年の男性が前に立って、月末のテストまであと少しだの、最近は掃除が全体的に甘いだのと耳にタコができそうな内容をマイク越しに話している。
退屈な学年主任の話を聞き流していた里巳は、とある一つの内容で思考を夕飯の献立から現実に引き戻された。
「えー、次に……これは残念なお知らせになってしまいます。実は特別教室棟の裏で、タバコの吸い殻が見つかりました」
何人かの生徒たちがザワつく気配がした。里巳も一瞬だけ体を跳ねさせたが、理由は初耳の情報に驚いた彼らとは違う。
『校舎の裏でタバコが見つかった』――つい先週、彼女がエックス新聞のためにテキトーにでっち上げた内容と被っていたからだ。彼女は錦野が採用しなくて良かったと心底安堵した。
学年主任の教師は嫌悪感を滲ませるように話を続ける。
「見つかったのは駐車場ですが、先生方もご存知の通り校内は全面禁煙です。車内での喫煙も、もちろんいけません。生徒ではないと信じていますが、もしそうならば立派な犯罪です。今すぐ止めなさい」
最後の警告が誰の心を騒がせたのかは、里巳には興味のないことだ。しかし、間違いなく物好きな記者が心躍らせているという確信だけは残っていた。