第26話

文字数 1,940文字

 木曜日、放課後。今週は二年生までの三者面談があるため、面談がある生徒以外は帰宅している。そんな人口密度の減った鯉ヶ谷高校の、用事がなければ滅多に立ち寄ることのない視聴覚室で、滝田はイケメンと評される顔を間抜け面にしていた。
「なーんで俺がこんなこと……」
 既に今日予定していた保護者との話を終えた滝田には重たい疲労が浮かんでいた。しかしこれがあの時の借りを返すことになるのなら安いものだろう。彼らは滝田から見ても、イマイチ何をしでかすかわからない生徒たちだからだ。

 最終下校一時間前にガラガラと視聴覚室の扉が開いた。待ち人がようやく訪れたことに滝田は安堵する。教師を蔑ろにする学生は多いから、もし待ち合わせをドタキャンされてもおかしくないと思っていたのだ。
 訪れたのは学校指定のセーラー服を着た女子生徒だ。山猫のような吊り目で、ショートカットの黒髪は陸上部のようなスポーティーな印象を与える。目立たないがそばかすがあり、滝田から言わせれば少し芋っぽい感じだった。
 そんな失礼は喉奥に封じ込め、滝田は作り笑顔をした。
「よ、芦間。いきなり呼び出して悪かったな」
「どしたん、先生。ウチなんか悪いことした? 家でおとなしゅうしとったのに。それに今、三者面談の期間やろ。先生、担任持っとるよね?」
 少し低めの声から紡がれる関西弁は鯉ヶ谷高校では珍しい。毎年入れ替わる生徒たちを覚え切れていない滝田の中でも印象の強い生徒だった。
「うちのクラスは放任主義でな。一人当たり五分で面談は終わりなんだ。あと悪いことしたか聞く生徒ってのは、大概にして何か思い当たる節があるもんだ」
「何の根拠があるん?」
「実体験ってやつだな」
 滝田の言いぶりに対して、芦間は「やれやれ」と首を振った。彼のだらしなさは教師らしからぬほどに流布してしまっていた。タバコの疑いの時、まともに擁護してくれる人が居なかったのがその証拠である。
「安心してくれ。今日呼んだのは説教とかそういうんじゃない。ただお前に会いたがっている生徒が居てな」
「会いたがってる生徒……ウチに?」
「そろそろくるはずだ。よく知らんが、何か準備があるんだとさ」
 台詞の半分は本当で、半分は嘘だった。滝田はどうして芦間を呼び出す必要があるのかを聞いている。しかし
 芦間も黙り、一分くらい気まずい空気が流れるものだから、滝田はタバコでも吸いに一度外へ出てやろうかと思った。しかし、コンコンコン、とお手本のようなノックの後、内側の合図も待たずに扉が開く。
「失礼します」
 透き通るほど澱みないブロンズの瞳にあらゆる人間が吸い込まれそうになる。すらっとした体格と糸を通したような鼻筋が芸術作品のような印象を与え、ただの一つ結びが気品溢れるシャム猫の尻尾のようだ。
 芦間も、錦野から話を聞いていた滝田すらも唖然と少女を眺めてしまった。ここに彼の同級生が居たなら、きっとこんな話をしていたはずだ。昔活躍していたあの女優にそっくりだ、と。
「うわあ、ごっつ美人さんやん」
 思わず漏れ出た芦間の呟きで、滝田の思考は現代へと帰ってくる。好きだった女優の面影を感じる顔に睨みを向けられており、近づいてくる女子生徒を慌てて紹介しようとした。
「こいつはあま……」
 里巳は滝田の向こう脛を蹴った。威力は弱かったが、当たりどころのせいで衝撃が骨を突き抜ける。悶絶する男性教師を無視して里巳は挨拶した。
「オオエヤマ・リミと言います。初めまして、芦間先輩」
 弁慶の泣き所を抑えながら跳ね回る滝田を見て、芦間は短い髪をケラケラと揺らした。
「これはこれはご丁寧に。よろしくね、オオエヤマさん」
 お辞儀する芦間を里巳はじっと見つめる。彼女は『バツ新聞』の発行者として最も怪しい人物だ。警戒心を露わにしないほどの演技の練習なんてしたことがなかったが、どうにか無害な人間であると繕ってみる。
「芦間先輩を呼び出したのは私です。どうしても聞きたいことがありまして」
「聞きたいこと?」
 芦間はオウム返しで聞いた。本題に入りそうな雰囲気を感じ、仕事を終えていた滝田が外に出ようとする。
「俺は行くぞ。これ以上ここに居たら、今度はどこを蹴られるかわかったもんじゃない」
「滝田先生、ありがとうございました」
 里巳は端麗な顔を下げ、背筋の伸びたお辞儀をした。自分に向けて礼節ある感謝だなんて珍しく、滝田は面食らって頭をぽりぽりと掻く。
「わざわざ改まるな。今のお前に言われても演技臭くて敵わん……ま、借り一個分だ。頑張れよ」
 いつかのお礼として里巳、ひいては錦野から提示されたのが芦間恋奈の呼び出しであった。最初こそ滝田も渋ったものの、真剣な生徒の頼みとあらば応えたくなるのがダメな大人にも残っている教師の│(さが)であった。
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