第24話

文字数 2,132文字

 里巳と枝都子は揃って、進路指導室の前に置かれた椅子に座った。廊下には教室から漏れ出る僅かな声だけがしばらく流れ、やがて進路指導室から別の生徒と保護者が出てくる。軽い会釈を交わした後に、乙部が代わるように顔を出した。
「お入りください、天立さん」
 枝都子が会釈しながら誘われて行く。それに倣うように里巳もファンシーな絵飾りが広がる進路指導室の中に入って行った。
「お久し振りです、乙部先生。本日は里巳のことをよろしくお願い致します」
 枝都子は里巳と違って人の名前や顔を覚えるのが大の得意だ。習慣と言って差し支えないかもしれない。だから夏休み前にあった面談で一度会ったきりの乙部のこともしっかりと把握していた。里巳は祖母の記憶力と人間関係の構築力にいつも感心させられた。
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
「以前から気になっていたのですけれど……この教室のイラストは全て乙部先生が装飾なさったのですか?」
 枝都子は世間話のように進路指導室の内装に触れた。ゾウやウサギなどの動物を模した殆ど架空の生き物たちのイラスト。幼稚園に寄贈したら大喜びされそうな作品の数々が教室の壁や天井で踊っている。
 筧が言っていた元デザイナー志望の実力が遺憾無く発揮された教室は、ここが学校であることを忘れさせてくれるようで、里巳は少しだけ心が楽になった。
「そうなんです。ここは進路指導室ですが、保健室みたいに、進路以外にも生徒たちが相談できる場所にしたいんです。この前は学内新聞が取り上げてくれたから、生徒たちがたくさん来てくれたんですよ。『この教室の金庫にはテストの過去問と解答が眠ってる』って噂で……本当は本棚に並べきれなかった赤本しか無くって、鍵もかけてないんですけどね」
 乙部はとても嬉しがりながら、金庫の扉を開けて見せた。中身は本当に赤い背表紙が並ぶだけだ。
 エックス新聞の本質はエンターテインメント。こんな笑顔を作ることが本来の目的だったはずだ。里巳は道を違えた錦野のことを思い出し、前髪の下を再び暗くする。
 反対ににこにこと話を聞いていた恵都子が言う。
「ご立派な考えですね」
「生徒が行きたいと言った道を少しでも手伝うのが私の役目ですから。それでは、里巳さんの三者面談を始めましょう」
「……はい」
 各々が席につき、用意された一学期の通知表とテストの結果に目を通していく。
 話はすぐに文理選択の話題になった。国語と生物、どちらに比重を置くか。それさえ解決すれば良い問題なのだが、里巳が選べないのは「どちらに対しても意欲があるから」ではなく「どっちを選んでも大して興味がないから」だった。
「里巳さんには、将来の夢みたいなものはないの?」
 乙部の質問に、里巳はとつとつと答える。
「……普通が良いです。大学はできたら行って、一般企業に就職して、結婚はどっちでも良いけど、とにかく普通に暮らせたら、それで」
 元の姓から変わり、住む場所を変えても「不倫芸能人の娘」という嘘から完全に逃れられることはない。噂を聞きつける人間も少なからず居るし、何よりも里巳本人が自分とは何なのか、という問答を繰り返していた。
 そしていつも行き着く答えは、特別製の劣悪品。与えられたレッテルのせいで辛い思いをするのなら、彼女は“記者”も“探偵”の称号も何も要らない。
「大学は地元が良い、とかある?」
「そうですね。できればこの辺りで」
 里巳の返答を聞いた枝都子が心配そうな顔で言う。
「さとちゃん。別におばあちゃんに気を遣う必要は無いからね」
「ううん。私が、ここが良いの。それだけだよ」
 他に居場所がない、という答えは隠したが嘘はついていない。里巳はわざわざ安心できる場所を離れてまで成したい何かは持っていなかった。
 生徒の答えを聞いた乙部は僅かに悲しそうな顔をしながらも、里巳の要望に沿う提案をする。
「それなら……電車通学にはなっちゃうだろうけど、一番近くの国立大学を目指してみるのはどうかしら? ここを見据えて勉強しておけば、少なくとも地元の大学ならどこでも選べるし。まだ一年生だから、本格的な志望校選びは来年からでも遅くはないわ」
「どう? さとちゃん」
「じゃあ今は、その方向で」
 里巳は話をすぐに決めてしまった。興味云々の話もそうだが、神経を擦り減らす三者面談を早く終わらせたかったという気持ちもあった。
「そうなると文系クラスの方が有利かな。学部ごとの募集人数を見ると、文系科目を使う受験方法が多いから……里巳さんの学力があればプールの大きい場所の方が有利だと思います」
 多くの問答をしたが、結局里巳は文系クラスを選ぶことした。全ては「普通である」ため。単純明快で最も難しい場所に行き着くには、こうしてお手本のレールの上に居る人の言うことを聞くのが良い。いつかには自分の意思も無くなってありふれた玩具屋の人形に成れるのだから。
「本日はこれでおしまいです。お疲れ様でした」
「ご丁寧にありがとうございました。今後とも里巳をよろしくお願い致します。乙部先生」
 里巳たちはお辞儀をして進路指導室を出た。浮かない顔を隠すことに必死な彼女に比べ、枝都子は柔らかなにこにこ笑顔だ。
「親切な先生で良かったね」
「そうだね」
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み