第1話
文字数 2,890文字
高校生である彼女が教室の机で考え事をするのはごく自然なことだと思えるが、里巳の悩みの種は勉学とは関係のないところにある。書き込みの無いノートと睨めっこしながら唸る里巳に対し、椅子にも座らず教室の中をふらふらと動き回る学ランを着た生徒の姿があった。
「どう? 良いアイデアは出たかな?」
他は後ろへ片付けられており、二つしか出していない机を挟んだ向こう岸で男子生徒が尋ねる。スクエアの太いフレームが存在感を放つ塩っぽい顔、一重で黒髪の短髪。外見を語ろうとすればその程度しか特徴のない男子生徒である。そのために人畜無害な雰囲気を放つが、実態は利害でしか人間関係を構築しない薄情者であると里巳は知っていた。
急かすような、それでいてあからさまに期待を伝えてくる眼差しが里巳の思考を余計に鈍らせる。
「五分ごとに聞かないで。気が散る」
「友達の居ないキミに、数学の教科書とあまつさえ授業の内容までメモしたノートを貸して上げたのはどこの誰だっけ?」
「はいはい。錦野サマでございます」
「うむ。立場を弁えているようで何より」
錦野は当然、持ち上げる態度だけでは満足至らなかった。閉めきったカーテンの先をちら、とずらし覗き、広がる駐車場を睨みながら言う。
「だったら、放課後までにはボクの提示した交換条件を用意しておいてくれても良かったと思うんだけど?」
「今日は体育の授業があったのよ。疲れて寝てたんだから仕方ないでしょ」
「なら尚のことだね。キミのクラスの体育は数学の前にあったはずだ。つまりキミは、ボクのノートがあることにかまけて授業をサボタージュしたってことになる」
う、と里巳は喉を詰まらせる。日頃ならこの男との舌戦に退くような醜態は晒さない。しかし今回ばかりは文字通りの「借り」があるせいで、反論に用いる言葉に毒を持たせることもできないでいるのだ。
里巳に錦野の人差し指が突きつけられる。
「数学の教科書とノートの貸し出し。交換条件は『エックス新聞』の“ネタ一つ”。ちゃんと言質は取らせてもらっているからね」
錦野が言う“ネタ”とは、彼が書いている学内新聞に掲載する記事のことだ。しかし彼の学内新聞――『エックス新聞』は、いわゆる情報の伝達を主とする新聞とは異なっている。里巳は鬱陶しい手を目の前から払った。
「たかだかエンタメのために、よく同級生に集れるよね」
「ただのエンタメじゃない。ボクの新聞の矜恃は『誰も傷つかないフェイク・エンターテインメント』なんだから」
エックス新聞の記事の内容は『嘘』。ありもしない噂話である。内容は錦野が考え、執筆から下駄箱前の掲示板への貼り付けまで彼一人で行っている。里巳はヘルパーとして、時々ネタを出していた。
里巳からすれば、わざわざ不特定多数に対して何かを提供しようとする錦野にまったく共感できない。ましてや彼は正体すら明かさないので、直接褒められもしない行為に意味があるのかと思わざるを得ないのだ。
「マジでよくやるよ。新聞部でもない癖に」
「お褒めに預かり光栄です」
呆れた溜め息を披露しても、物好きな新聞記者の姿勢は崩れない。見出しを考えたら後は錦野が好きに解釈しリアリティを持たせるので、里巳はとりあえず頭に浮かんだことを言ってみた。
「じゃあこういうのは? ……『校舎裏にてタバコの吸い殻発見! 外から投げ込まれたか?』」
「ありそうなラインだけど、仮に本当に起きたら問題だから却下かな」
デタラメ新聞記者の評価に下品な舌打ちが響く。エンタメを求めるなら噂話になる程度の絶妙な「本当っぽさ」が必要だ。しかし仮に『嘘から出たまこと』を書いてしまうと、エックス新聞は途端に週刊誌と化してしまう。
そうなった時に始まるのは、犯人探しと情報をリークした者に対する報復行為である。だから完全に面白おかしく終わる話でないと記事としての採用は厳しい。それが錦野の矜恃だったし、里巳としても望まぬことだった。
「さすがの天立嬢も体育の日は頭が回らないか」
体力面のことを除いて、錦野は天立里巳を高く評価していた。それを知っている当人は本日何度目かの溜め息を吐く。
「あんたが私のことを過大評価するのは勝手だけど、アイデアがポンポン出てくる宝の山だと思うのはやめて」
「わかっているよ。でも約束だからね」
里巳はむぅ、と小さな口を不服げに歪ませる。月末には期末テストが始まるので、塾にも通わない里巳としては早めに対策をしておきたく、無駄なことに時間を割くのは不合理だ。定期テストのことを思い出した里巳は、ふと新しい記事のアイデアが浮かんだ。
「じゃあこれは? 『進路指導室には過去テストの答案が眠る金庫がある。立ち寄った者にはヒントが与えられるかも?』」
「良いね。あの教室にはちょうど赤本があったはずだ。あながち間違いじゃないし、あそこの先生も退屈な時間が多いって言ってた」
錦野は眼鏡を押さえながら少し悩んだ後、指をパチンと鳴らしてから気障ったらしく言う。
「採用で」
「よっし」
里巳は惜しげも無くガッツポーズを作ると、空のままのノートをバサバサと仕舞い始めた。
「それじゃ、本日はこの辺でお暇させていただこうか。『開かずの間』の制限時間もそろそろだ」
彼らが『開かずの間』と呼ぶこの教室には、他の教室とは明らかに異なる特徴があった。それは教室と廊下の間の扉とは別に、かつては非常口として使われていた、駐車場へと繋がる扉があることだ。
厳重に閉められている鉄製扉には学校のマスターキーが必要だが、錦野はとある理由でこの部屋の合鍵を所持していた。
錦野が言った制限時間とは、放課後から最終下校時刻の三十分前までの時間を指す。彼らは無断かつ無許可でここに立ち入っており、誰かにバレたら二度と自由に出入りすることは叶わなくなるからだ。
錦野がさっきのようにカーテンの端に指を入れて外の駐車場を覗く。部活の顧問をしている教師たちがこの時間に帰らないのはリサーチ済みだ。
「さ。出てしまおうか」
扉を慎重に開けると、二人は下駄箱から持って来ておいた靴を履いて外に出る。
彼らが通う私立
誰に見られることなく正門に回ることができた二人は、別れの挨拶もせずに帰路を歩む。里巳は右、錦野は左へ。お互いの関係は何の変哲もないただの同級生であり、それ以上でもそれ以下でもない。