第4話

文字数 2,028文字

 吸い殻は駐車場の裏門側の隅に放置されていたという錦野の情報を信じ、里巳はその場所へ向かった。特別教室棟の最奥にある『開かずの間』とは真反対で、位置関係的に最も近いのは保健室である。里巳は人気のない校舎裏できょろきょろと辺りを見回した。あるのは教師たちの車と、鉄線で囲われたゴミ捨て場くらいだ。
「裏門を通る人間は目にしてもおかしくない、か……タバコがポイ捨てされるにしては、先生たちの視線が怖い場所ね」
 裏門を利用するのは基本的に車を使っている教師だけである。加えて生徒は正門の利用が普通だ。
 錦野によると、タバコの発見は金曜日の朝とのことだった。つまり吸い殻が置かれたタイミングとしては木曜日の放課後から金曜日の早朝の時間帯。生徒たちが駐車場に立ち入る必要のない時間である。そうなると教師の誰かが捨て去って行ったという流れが自然だ。
「滝田先生の容疑が一層深まるなぁ」
 しかしただ置き去るだけならば、その場に落とすだけではなく、上の階から放ることも可能である。里巳はそう思って特別教室棟の真上の階を確認した。
 三階は家庭科室で、二階は美術室。隣くらいの教室までは風で飛びそうなので怪しいが、里巳は一旦この二箇所に的を絞る。

 まずは家庭科室を覗いた。火を使うのに不自然ではないという理由からだった。ガスコンロや水道が取り付けられた調理台が並び、正面には黒板ではなくてホワイトボードが置かれている。里巳が家庭科の授業で使っている時と特に変わりはない。
 窓からタバコのあった駐車場を見下ろすと、ちょうど女性教師が車に乗って帰宅しようとしていた。
「……窓から車の中、ちょっと見えるんだ」
 中にある物までは詳しくわからないが、人のシルエットから動きくらいは認識できる。鍵を回しエンジンをかけた女性教師を見送ってから、次に特別教室棟の二階に降りた。

 美術室は芸術の選択科目が書道である里巳がまったくと言って良いほど立ち入ることのない場所だ。
 家庭科室に対して美術室は紙や燃えやすい物も多い。もしここで吸うのなら細心の注意を払う必要があるだろう。そこまでのリスクを負ってまで摂取したい物なのか、里巳には些か疑問でしかなかった。
 そして眺めた美術室には生徒たちの作品があった。教室の一角にはロープが張っており『こちら側、美術部』とわかりやすい注意書きがしてある。殆どが描きかけの絵画であり、教室を利用する生徒たちがキャンバスに近づかないようにするための処置だろう。
 絵の内容はまちまちだが、日常の様子を切り取っているように見える。小さな子どもの誕生日を祝っている家族団欒の様子や、カフェでコーヒーを飲んでいる男性。中には裸で抱き合うセクシャルな男女の絵画もあった。特にその絵の肌感は画材でできているのが信じられないほどだ。

 里巳は大人っぽいな、と感心していた。同年代の人たちには既にこういった行為を経験している者も居るだろうが、俯瞰的かつリアルに描くのは難しいと思ったからだ。生々しさと幻想がうまく調和する構図は、素人目の里巳ですら惹き付けたのである。
「何してる」
 男性の鋭い声が里巳の心臓を突き刺した。厳しい声を飛ばしたのは、彼女とは殆ど面識のない教員だった。エラが目立ち、台形の顔をした強面。それが険しい顔を作るものだから、里巳は僅かに萎縮した。
「すみません。作品が気になって、つい見てしまいました」
「ここに並んでいる作品は生徒たちがコンクールに応募するものだ。場所が無くて美術室に置かざるを得ない状況なんだよ。キツい言い方で申し訳ないが、万が一にでも汚されたら困る」
 叱る言葉が湧き水のごとく出てきて、里巳は面倒事を悟った。すぐに表情を悟られないように、俯いて前髪を一層下に落とす。視線の先にあった教師の左手の薬指に、プラチナの指輪が見えた。
「わかりました。そうとは知らずに立ち入ってしまってごめんなさい」
 先手を打つように丁寧に謝ったことで、男性教師は虚をつかれたように言葉を止める。今にもうぐぐ、と唸りそうな雰囲気だったが、昂る感情の矛先は別の方へ向かった。
「まったく。この学校はもう少し規則を厳しくさせてくれても良いだろうに。生徒の髪色を縛るだけでは、備品や作品は守れない」
 やっぱり面倒だなぁ、と里巳は内省の無さを隠し通すことに尽力した。やがて一頻り文句を言い終えた男性教師は、目の前の生徒の俯き具合が酷くなっているのを見て慌てて言った。
「とにかく今度からは気をつけてくれ」
「わかりました」
 男性教師がくるりと背を向けて見えなくなった後、里巳は堪えていた溜め息を吐いた。
「まさかあんな番兵みたいな先生が居るとはね」
 仮に『開かずの間』への出入りがあの男性教師に見つかったら、錦野の持つ鍵は奪われてしまうだろう。間違いなく警戒対象である。
「……戻ろう」
 溜め息を吐くように独りごちると、里巳はバッグを置きっぱなしにしてある『開かずの間』に一度戻ることに決めた。
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