10.過去に追われる
文字数 3,025文字
「休みの日に悪いな」
昼間のバーは、不思議な雰囲気だ。お酒の匂いが抑えられていて、店内には叔父しかいない。お客が来る事もないから、ジャズも流れていない。
半地下にあるこのバーは、窓があっても光が差し込む時間に営業する事はほぼないのに、ピアノのある奥の窓辺からは、今は陽の光さえ差し込んでいる。
「これを買ってくればいいのね」
切り取ったメモ用紙に必要な材料と個数が、叔父の角ばった文字で書かれている。
「で、一緒に行く俊ちゃんは?」
「さっきから何度も連絡してるんだが……」
今日は貸しきりパーティー用の食材を、俊ちゃんと二人で仕入れに行く予定だったのだけれど、どうやら連絡が取れないらしい。
俊ちゃんのノリはとても軽いけれど、根は真面目ないい子だから遅刻なんてまずしない子なのに。
どうしたのだろう?
叔父が何度目かになる電話を掛けると、どうやらやっと繋がったらしい。
「あ、俊。どうした?」
訊ねる叔父に、どんなことを話しているのかわからないけれど、叔父はただ何度も電話の向こうにいる俊ちゃんへと頷いている。
「そうか。わかった。ゆっくり休みなさい」
俊ちゃんとの電話を終えた叔父の顔を窺い見る。
「俊ちゃん。なんだって?」
「熱が出たらしい。携帯を家に忘れたまま、さっきまで病院に行っていたみたいだ」
「そう。大丈夫なのかな?」
「パーティーに影響しないようにしっかり治したいから、今日は休ませて欲しいそうだ」
「わかった。じゃあ、仕入れは一人で行ってくるよ」
「大丈夫か? 荷物、結構あるぞ」
「なんとかなるでしょ。意外と逞しいのよ」
叔父に手を振り、メモと費用を持って街に繰り出す。
俊ちゃんの食材に対する拘りと、叔父の経費削減の混ざった買い物は、全てショップとメーカーが指定されていた。
会社とバー以外あまり外出することのなくなっていたから、ついでにウインドウショッピングも一緒に楽しむことにした。頼まれた食材の入った買い物袋を手に提げて、あちこちフラフラ見てまわる。
美味しそうなスイーツショップを覗き見たり、POPな雑貨屋の中を見て回ったり。カフェのいい香りに鼻腔をくすぐられ、古着屋の前では足を止め、飾ってあるハットに手を伸ばした。
その時だった。
「あなた、涼音でしょ?」
こっそりというように近づいてきた女の声に、一瞬で鳥肌が立ち表情が強張った。こんな風に声をかけてくる人物が、好意を抱いているはずなどないからだ。
ゆっくり振り返れば、私よりも年上の女性が睨みつけるように腕を組み、舐めるようにしてこちらを見ていた。
ゴクリと喉が鳴った。
この手の顔は、過去に何度も見ている。何を言いたいのか。何を思っているのか。口にしなくても、その嫌な顔つきでわかってしまう。
一瞬で、警戒心が全身の神経を強張らせていった。
咄嗟に踵を返し、足早に去ろうとする背中へ大きな声かかかった。
「あんた、こんなところで何やってんのよっ。随分とお気楽ねっ。まさか自分が何をしたのか忘れたなんて、言わないでしょうねっ!」
背中に向かって叫ぶような言葉には、悪意しか感じられない。振り返れば、片方の口角を上げて挑みかかるような視線と目が合った。
「自分だけ何もなかったみたいに、楽しくショッピング? 本当、悪魔みたいな女ねっ」
吐き捨てるような声に、血の気が引いていき、買い物袋を握っている手がカタカタと震えだした。
「返す言葉なんて、ないわよね。当然よ。あんたが生きてること自体、私は許せないんだから。私だけじゃないはずよ。ファンだったみんなだって、同じように感じてるはずよっ。あんたが未だにのうのうと生きてることを、許せるはずなんか絶対にないっ」
ドクドクと心臓が大きな音で早く脈を打つ。呼吸が上手くできなくて息苦しい。
言葉なんて一つも出ない。言い返せるはずがない。
生きているなんて、どうかしている。
どうして、今も生きていられるのか。
あんな事件を起こしておいて、ここに存在しているなんて、どうかしている。
解っていた。
そうだよね。その通りだよ。
この女性の言う通り。
あんな事件を犯しておいて、何もなかったみたいに笑っているなんていいわけない。
私、何で生きてるの……。
今も、何で生きてるんだろう。
走馬灯のように、あの事件の瞬間が脳内を駆け巡る。
助けてっ。
助けて……。
彼を、助けてっ。
誰か、彼を……。
「……して」
苦痛に歪む、彼の顔が忘れられない。
「……して」
全てを奪ってしまった事は、取り返しようもない。
「……して」
「えっ?」
私の願いがよく聞こえないのか、女性は戸惑いながらも眉間にしわを寄せて訊き返してくる。
以前も同じ事を望んでいた。
ここに存在している自分を消し去りたくて、何度も願ったはずだった。
なのに、どうして。
「今すぐ、……ろして」
女性の目に縋るような視線を向けて、彼女に一歩近づき懇願する。
「殺してよ……」
生きていることが、この存在が許されないなら。消えてしまった方がいいんだ。
「今すぐ、殺して」
「あんた……。な、何言ってんのよ」
「殺してよっ」
懇願するように女性にまた一歩近づくと、逆に後退りされた。この世のものではないものでも見たような顔をして、離れていこうとする。
あんなに敵意を剥き出しにしていたはずなのに、私の願いはこの女性の願いのはずなのに。
「頭イカれてんのっ!」
生きてることがおかしいって言ったのに、どうして聞き入れてくれないのだろう。
私もそうして欲しいのに。
「だから、もういいよ。殺してよ……」
また一歩近づくと、女性は恐怖映画の出演者のように尻込みして離れていき、しばらくしたのちに逃げ出した。
「……なによ。殺してくれたらいいのに……。こんな私、殺してくれたら」
涙が頬を濡らし、地面にくず折れる。たくさんの野次馬が、おかしな女同士のやりとりに興味深々で集まっていた。
この中にも、私を恨んでいる人がいるんじゃないの?
なら、殺してくれたらいい。こんな存在、無いものにしてよ。私を消してしまってよ。
消えてなくなりたいと願っているのに、どうしてか涙が止まらない。
涙の理由は何? 今も生きていることへの後悔? それとも殺してもらえなかったことへの苦しさ?
路上に取り残されたまま、拭っても拭っても零れ落ちる涙の理由もよくわからず、ただひたすら呪文のように殺して欲しいと願う。
なんで泣くのよ。なんで涙か出るのよ。
何が悔しいのか、何が悲しいのか。
止まらない涙が濡らすコンクリートの路上を睨みつけ拳を叩きつけた。
「殺してよ……。殺して……」
コンクリートに擦れ拳に赤が滲む。
叩きつけた手の痛みなんか感じない。こんなもの、少しも痛くなんかない。
痛いのは……。
何度も何度も叩きつけていた手が、不意に力強い手に掴まれとめられた。
「そろそろ、止めておけば」
頭の上から降ってきた声の後に、ふわりとジャケットが身体を包み込んだ。
「立てるか?」
そう訊いたわりに、すっと私の身体は軽く持ち上げられ、自然と立ち上がることができた。
そのまま支えられ抱えられるようにして、興味の視線をぶつけ続ける野次馬の中から連れ出された。
昼間のバーは、不思議な雰囲気だ。お酒の匂いが抑えられていて、店内には叔父しかいない。お客が来る事もないから、ジャズも流れていない。
半地下にあるこのバーは、窓があっても光が差し込む時間に営業する事はほぼないのに、ピアノのある奥の窓辺からは、今は陽の光さえ差し込んでいる。
「これを買ってくればいいのね」
切り取ったメモ用紙に必要な材料と個数が、叔父の角ばった文字で書かれている。
「で、一緒に行く俊ちゃんは?」
「さっきから何度も連絡してるんだが……」
今日は貸しきりパーティー用の食材を、俊ちゃんと二人で仕入れに行く予定だったのだけれど、どうやら連絡が取れないらしい。
俊ちゃんのノリはとても軽いけれど、根は真面目ないい子だから遅刻なんてまずしない子なのに。
どうしたのだろう?
叔父が何度目かになる電話を掛けると、どうやらやっと繋がったらしい。
「あ、俊。どうした?」
訊ねる叔父に、どんなことを話しているのかわからないけれど、叔父はただ何度も電話の向こうにいる俊ちゃんへと頷いている。
「そうか。わかった。ゆっくり休みなさい」
俊ちゃんとの電話を終えた叔父の顔を窺い見る。
「俊ちゃん。なんだって?」
「熱が出たらしい。携帯を家に忘れたまま、さっきまで病院に行っていたみたいだ」
「そう。大丈夫なのかな?」
「パーティーに影響しないようにしっかり治したいから、今日は休ませて欲しいそうだ」
「わかった。じゃあ、仕入れは一人で行ってくるよ」
「大丈夫か? 荷物、結構あるぞ」
「なんとかなるでしょ。意外と逞しいのよ」
叔父に手を振り、メモと費用を持って街に繰り出す。
俊ちゃんの食材に対する拘りと、叔父の経費削減の混ざった買い物は、全てショップとメーカーが指定されていた。
会社とバー以外あまり外出することのなくなっていたから、ついでにウインドウショッピングも一緒に楽しむことにした。頼まれた食材の入った買い物袋を手に提げて、あちこちフラフラ見てまわる。
美味しそうなスイーツショップを覗き見たり、POPな雑貨屋の中を見て回ったり。カフェのいい香りに鼻腔をくすぐられ、古着屋の前では足を止め、飾ってあるハットに手を伸ばした。
その時だった。
「あなた、涼音でしょ?」
こっそりというように近づいてきた女の声に、一瞬で鳥肌が立ち表情が強張った。こんな風に声をかけてくる人物が、好意を抱いているはずなどないからだ。
ゆっくり振り返れば、私よりも年上の女性が睨みつけるように腕を組み、舐めるようにしてこちらを見ていた。
ゴクリと喉が鳴った。
この手の顔は、過去に何度も見ている。何を言いたいのか。何を思っているのか。口にしなくても、その嫌な顔つきでわかってしまう。
一瞬で、警戒心が全身の神経を強張らせていった。
咄嗟に踵を返し、足早に去ろうとする背中へ大きな声かかかった。
「あんた、こんなところで何やってんのよっ。随分とお気楽ねっ。まさか自分が何をしたのか忘れたなんて、言わないでしょうねっ!」
背中に向かって叫ぶような言葉には、悪意しか感じられない。振り返れば、片方の口角を上げて挑みかかるような視線と目が合った。
「自分だけ何もなかったみたいに、楽しくショッピング? 本当、悪魔みたいな女ねっ」
吐き捨てるような声に、血の気が引いていき、買い物袋を握っている手がカタカタと震えだした。
「返す言葉なんて、ないわよね。当然よ。あんたが生きてること自体、私は許せないんだから。私だけじゃないはずよ。ファンだったみんなだって、同じように感じてるはずよっ。あんたが未だにのうのうと生きてることを、許せるはずなんか絶対にないっ」
ドクドクと心臓が大きな音で早く脈を打つ。呼吸が上手くできなくて息苦しい。
言葉なんて一つも出ない。言い返せるはずがない。
生きているなんて、どうかしている。
どうして、今も生きていられるのか。
あんな事件を起こしておいて、ここに存在しているなんて、どうかしている。
解っていた。
そうだよね。その通りだよ。
この女性の言う通り。
あんな事件を犯しておいて、何もなかったみたいに笑っているなんていいわけない。
私、何で生きてるの……。
今も、何で生きてるんだろう。
走馬灯のように、あの事件の瞬間が脳内を駆け巡る。
助けてっ。
助けて……。
彼を、助けてっ。
誰か、彼を……。
「……して」
苦痛に歪む、彼の顔が忘れられない。
「……して」
全てを奪ってしまった事は、取り返しようもない。
「……して」
「えっ?」
私の願いがよく聞こえないのか、女性は戸惑いながらも眉間にしわを寄せて訊き返してくる。
以前も同じ事を望んでいた。
ここに存在している自分を消し去りたくて、何度も願ったはずだった。
なのに、どうして。
「今すぐ、……ろして」
女性の目に縋るような視線を向けて、彼女に一歩近づき懇願する。
「殺してよ……」
生きていることが、この存在が許されないなら。消えてしまった方がいいんだ。
「今すぐ、殺して」
「あんた……。な、何言ってんのよ」
「殺してよっ」
懇願するように女性にまた一歩近づくと、逆に後退りされた。この世のものではないものでも見たような顔をして、離れていこうとする。
あんなに敵意を剥き出しにしていたはずなのに、私の願いはこの女性の願いのはずなのに。
「頭イカれてんのっ!」
生きてることがおかしいって言ったのに、どうして聞き入れてくれないのだろう。
私もそうして欲しいのに。
「だから、もういいよ。殺してよ……」
また一歩近づくと、女性は恐怖映画の出演者のように尻込みして離れていき、しばらくしたのちに逃げ出した。
「……なによ。殺してくれたらいいのに……。こんな私、殺してくれたら」
涙が頬を濡らし、地面にくず折れる。たくさんの野次馬が、おかしな女同士のやりとりに興味深々で集まっていた。
この中にも、私を恨んでいる人がいるんじゃないの?
なら、殺してくれたらいい。こんな存在、無いものにしてよ。私を消してしまってよ。
消えてなくなりたいと願っているのに、どうしてか涙が止まらない。
涙の理由は何? 今も生きていることへの後悔? それとも殺してもらえなかったことへの苦しさ?
路上に取り残されたまま、拭っても拭っても零れ落ちる涙の理由もよくわからず、ただひたすら呪文のように殺して欲しいと願う。
なんで泣くのよ。なんで涙か出るのよ。
何が悔しいのか、何が悲しいのか。
止まらない涙が濡らすコンクリートの路上を睨みつけ拳を叩きつけた。
「殺してよ……。殺して……」
コンクリートに擦れ拳に赤が滲む。
叩きつけた手の痛みなんか感じない。こんなもの、少しも痛くなんかない。
痛いのは……。
何度も何度も叩きつけていた手が、不意に力強い手に掴まれとめられた。
「そろそろ、止めておけば」
頭の上から降ってきた声の後に、ふわりとジャケットが身体を包み込んだ。
「立てるか?」
そう訊いたわりに、すっと私の身体は軽く持ち上げられ、自然と立ち上がることができた。
そのまま支えられ抱えられるようにして、興味の視線をぶつけ続ける野次馬の中から連れ出された。