8.逃げる
文字数 1,847文字
深夜のカフェに置き去りにして、大人しく引き下がるとは思っていなかったけれど、昨日の今日って……。
翌日、いつものカウンターで琥珀の味を噛み締めていたら、声ひとつかけることなく隣の席が埋まった。しかも、真隣。
「よっかった、また逢えて」
ニコニコとしていれば大抵のことは許されると思っているのだろうその顔を、彼が私に向けてくる。
本気でそう思っているのなら、そんなものなど通用しないという世界を教えてやろうか。
話をしたいというからカフェで昨夜遅くまで付き合ったのに、まだ何かあるっていうの。
ピアノは弾かないし、連絡先も教えない。これだけ言われたら、相手がどんな感情を抱いているかくらい解りそうなものでしょうが。
やっぱり手首をつかまれた路上で警察を呼べばよかった。
瞬時に苛立ちに支配されて、容赦なく睨みつける。
「まだ君の名前も訊いてないしさ。あ、ビール」
私の苛立ちなどたいしたことでもないというように、カウンターの中に控える俊ちゃんに、これまたニコニコと注文をする。
「俺も名前言ってなかったし。俺ね、成瀬。成瀬裕嗣 」
君は? そういうように、成瀬と名乗った男が顔を覗き込んできた。
呆れた溜息を零しても、動じることもない。
「悪いけど。私あなたと」
「成瀬裕嗣」
かぶせるように話を遮り、名前を促されれば諦めの溜息しかでてこない。
「成瀬さん。あなたと親しくなるつもりはないので」
「そんな、つんけんしなくても。美人が台無しじゃん。ねぇ」
突然、同意を求められたカウンター内の俊ちゃんは、成瀬のビールを用意していた手を止めて、思わず、うん。なんて頷いている。
俊ちゃんっ。
「ほら。彼だってそう言ってるんだし」
困り顔の俊ちゃんが、ゴメンなさいと口だけで謝っている。
この男のノリに流されないでよ、俊ちゃん。
眉根を下げると、俊ちゃんも同じように眉根を下げている。
とにかく。
「私は、一人で静かに飲んでいたいの」
邪魔しないでと釘を刺し、暗に出て行けと話をふった。
「女の子と親しくなりたいなら、もっと他に行くところがあるでしょう」
さっき俊ちゃんが見ていた雑誌を引っ張ってきて、中に掲載されているいかがわしい広告のページを開いて差し出した。
すると、それを見てゲラゲラと笑いだす。
「面白いね~。だけど、俺。これでも女の子には、不自由してないんだよねぇ」
得意げに顎を突き出している顔が小憎らしい。
あー、そうですか。だったらなんなのよ。何が目的なの?
睨みつけるようにして相手を見てから、自分の考えた“目的”というワードにドクリと心臓が鳴り、ある結論へ導こうとしている気がして息が止まった。
この成瀬という男、まさか私の事を知ってる? 本当は、何もかも知っていて近づいてきたの?
一度疑念を抱いてしまうとそこにしか思考がまわらず、成瀬の目が全て見透かしているような気がして体は正直に反応しだす。
過去に触れられるかもしれないと、怯えた心臓が早鐘を打ち始めた。警戒心が警告音を鳴らし始める。
冷やかし? 暇潰しで近づいてきた? それともフリーの記者?
最後のなら性質が悪い。きっと真実のしの字も関係ない、読者を煽り立てるだけの記事を書くのだろうから。
何も話す事なんてない。これ以上、私をどうしようっていうのよ。
やっと静かに暮らせるようになったのに。これ以上、私を貶めてどうしたいっていうの?
ピアノになんて触れてもいない。触れることなど許されないと生きてきたのに、まだどうにか苦しめたいの。
それとも、彼のことを……。
悪い妄想は、どんどん膨らんでいく。嫌な予感が現実に変わるのを防ぐために、これ以上関わるのは得策じゃないと判断して素早く席を立った。
「俊ちゃん、ご馳走様」
早口で言って、バッグを手にして椅子から立ってから成瀬を睨みつける。
「これ以上、付きまとわないで」
突き放すような冷たい一言に、成瀬という男がどんな顔をしているかと一瞬気になったけれど、それを確認することなくバーを出た。
階段をまるで逃げるように駆け上がりながら、締め付けられる胸の苦しさに呼吸を詰まらせた。
もう、放っておいてよっ。どうしてそっとしておいてくれないのよ。
私はもう……。
這い出た地上には、今日も月が凛とした姿を見せつけていて、その月からさえも逃げるように足早でバーのそばを離れた。
翌日、いつものカウンターで琥珀の味を噛み締めていたら、声ひとつかけることなく隣の席が埋まった。しかも、真隣。
「よっかった、また逢えて」
ニコニコとしていれば大抵のことは許されると思っているのだろうその顔を、彼が私に向けてくる。
本気でそう思っているのなら、そんなものなど通用しないという世界を教えてやろうか。
話をしたいというからカフェで昨夜遅くまで付き合ったのに、まだ何かあるっていうの。
ピアノは弾かないし、連絡先も教えない。これだけ言われたら、相手がどんな感情を抱いているかくらい解りそうなものでしょうが。
やっぱり手首をつかまれた路上で警察を呼べばよかった。
瞬時に苛立ちに支配されて、容赦なく睨みつける。
「まだ君の名前も訊いてないしさ。あ、ビール」
私の苛立ちなどたいしたことでもないというように、カウンターの中に控える俊ちゃんに、これまたニコニコと注文をする。
「俺も名前言ってなかったし。俺ね、成瀬。
君は? そういうように、成瀬と名乗った男が顔を覗き込んできた。
呆れた溜息を零しても、動じることもない。
「悪いけど。私あなたと」
「成瀬裕嗣」
かぶせるように話を遮り、名前を促されれば諦めの溜息しかでてこない。
「成瀬さん。あなたと親しくなるつもりはないので」
「そんな、つんけんしなくても。美人が台無しじゃん。ねぇ」
突然、同意を求められたカウンター内の俊ちゃんは、成瀬のビールを用意していた手を止めて、思わず、うん。なんて頷いている。
俊ちゃんっ。
「ほら。彼だってそう言ってるんだし」
困り顔の俊ちゃんが、ゴメンなさいと口だけで謝っている。
この男のノリに流されないでよ、俊ちゃん。
眉根を下げると、俊ちゃんも同じように眉根を下げている。
とにかく。
「私は、一人で静かに飲んでいたいの」
邪魔しないでと釘を刺し、暗に出て行けと話をふった。
「女の子と親しくなりたいなら、もっと他に行くところがあるでしょう」
さっき俊ちゃんが見ていた雑誌を引っ張ってきて、中に掲載されているいかがわしい広告のページを開いて差し出した。
すると、それを見てゲラゲラと笑いだす。
「面白いね~。だけど、俺。これでも女の子には、不自由してないんだよねぇ」
得意げに顎を突き出している顔が小憎らしい。
あー、そうですか。だったらなんなのよ。何が目的なの?
睨みつけるようにして相手を見てから、自分の考えた“目的”というワードにドクリと心臓が鳴り、ある結論へ導こうとしている気がして息が止まった。
この成瀬という男、まさか私の事を知ってる? 本当は、何もかも知っていて近づいてきたの?
一度疑念を抱いてしまうとそこにしか思考がまわらず、成瀬の目が全て見透かしているような気がして体は正直に反応しだす。
過去に触れられるかもしれないと、怯えた心臓が早鐘を打ち始めた。警戒心が警告音を鳴らし始める。
冷やかし? 暇潰しで近づいてきた? それともフリーの記者?
最後のなら性質が悪い。きっと真実のしの字も関係ない、読者を煽り立てるだけの記事を書くのだろうから。
何も話す事なんてない。これ以上、私をどうしようっていうのよ。
やっと静かに暮らせるようになったのに。これ以上、私を貶めてどうしたいっていうの?
ピアノになんて触れてもいない。触れることなど許されないと生きてきたのに、まだどうにか苦しめたいの。
それとも、彼のことを……。
悪い妄想は、どんどん膨らんでいく。嫌な予感が現実に変わるのを防ぐために、これ以上関わるのは得策じゃないと判断して素早く席を立った。
「俊ちゃん、ご馳走様」
早口で言って、バッグを手にして椅子から立ってから成瀬を睨みつける。
「これ以上、付きまとわないで」
突き放すような冷たい一言に、成瀬という男がどんな顔をしているかと一瞬気になったけれど、それを確認することなくバーを出た。
階段をまるで逃げるように駆け上がりながら、締め付けられる胸の苦しさに呼吸を詰まらせた。
もう、放っておいてよっ。どうしてそっとしておいてくれないのよ。
私はもう……。
這い出た地上には、今日も月が凛とした姿を見せつけていて、その月からさえも逃げるように足早でバーのそばを離れた。