29.軽やかに

文字数 1,370文字

「あーっ。スッキリしたー」
 教室を出てからビルの前に降り立ってすぐ、両手を空高く突き上げ、うっと伸びをする。喫茶店で見た青はいつの間にか霞はじめ、ビルや建物の間に僅かなオレンジ色を灯し出していた。
「お腹空かない?」
 隣に並ぶ成瀬を見れば、とても不満そうだ。きっと色々と言いたいことがあるのだろう。止めなければ、殴りかかってさえいたかもしれない勢いだったもんね。
 優しいよね、やっぱり。嬉しくて、頬が緩むよ。
「さっきのおばちゃんの所のお弁当買おっか」
 成瀬の腕にぎゅっとしがみついて顔を見上げれば、少しだけ拗ねた顔で応えてくれる。
「座るところがないぞ」
 不満ながらも、ちゃんと考えてるのが可笑しい。
「じゃあ、カレー。成瀬の、具がおっきなカレーが食べたいから作ってよ」
 駅に向かいながら、足取りは軽やかだった。
 真相がわかり、征爾が怪我をしていなかったことに心底安堵したからだろうか。
 けど、全てが丸く収まったわけじゃない。
 ナミちゃんと呼ばれていた女性は、未だに征爾の置かれている状況に納得などしていないだろうし。征爾の持つ才能を諦めるのは難しいだろう。なんとかして、彼をもう一度表舞台に立たせようとするかもしれない。
 ただ、私が歩んできた過去を知ってしまった今となっては、教室を続けていくこと事態を征爾は悩むかもしれない。裏舞台さえ退いてしまうこともあり得る。
 私があの頃の彼に感謝しているのは事実で、救われたのも事実。
 ただ、傷ついたのも……事実。
 心の傷が癒えるのに時間がかかるのは経験済みだけれど、今は隣の温もりがあるから歩いていける。だから、征爾には自分を貶めず生きていってほしい。
 なんて、偉そうかな。
 ふっと息を漏らす。
「傲慢だなぁ」
 唐突に口にした言葉に、成瀬がよくわからないけど、俺なんかやらかした? というような不安げな顔を向けるから、また可笑しくなった。
 もう、この存在、ありがたすぎるでしょ。
 成瀬の腕に更にぎゅっと腕を絡めて、弾む足取りそのままに歩いていく。
 駅構内にパラパラと吸い込まれていく人たちに紛れて改札をくぐれば、いつもの日常がやって来る。
 先のことなんて、今は何もわからないし考えてもしていない。取り敢えずは、叔父のバーでジャズを弾きたい。
 あの神々しいピアノの前に座り、叔父や俊ちゃん。そして、成瀬に私のピアノを楽しみながら聴いてもらいたい。
 考えるのは、それからにしよう。
 いつもの街に降り立つと、成瀬がスーパー寄ってく? と訊ねるから予定変更を告げた。
「ゴメン。お腹も空いてるんだけど、ピアノが弾きたいの。みんなの前で、今の私が弾くピアノを聴いてもらいたい」
 いいかな? と成瀬を見れば、いつの間にか眩しいオレンジ色で染まっている夕暮れをバックに、成瀬が頷いた。
 逆光で表情は読み取れないけど、きっと私の好きなヘラヘラ顏をしているはず。だって、ほら繋いだ手があったかくて、バーに向かう二人の足取りはやっぱり軽やかだから。
 階段を下りて扉を開ければ、今日もジャズが聴こえてくる。
 エヴァンスだってもう平気。むしろ歓迎しちゃう。
 彼に負けない音を弾いてあげる。今の私には、きっと誰も敵わない。
 いつかアンダーカレントを弾くために。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み