15.そばにある優しさ

文字数 3,098文字

「涼音」
 優しい声が私を呼んでいる。肩に触れた手は暖かい。 あの頃呼ばれていた自分の名前には、いつだって優しさが溢れていた。
こんな風に呼ばれたいと幼い頃に願い続けた優しさをまとった声は、とても愛しくて手放すなんて考えられなかったのに。
 なのに私は……。
「涼音」
 再び耳に届いた自らの名前に、瞼を持ち上げる。フロント硝子から見える視界は静止していて、ネオンはもうない。
「着いたよ」
 エンジンの止まった車内は寂しさがゆっくりと押し寄せてくるようで、もう一度目を閉じてしまいたくなる。
 隣からかけられた声に視線を向けると、成瀬の顔があった。
 ああ、そうか。夢の国は、もうおしまいなのね。
 さっきよりも、また少し寂しさの嵩(かさ)が増す。

 たくさんの荷物を手に、成瀬と一緒に家に戻った。
 成瀬によってソファに置かれた沢山のキャラクター達に、夢から覚めてしまった私は苦笑いをこぼす。
 こんなにどうするんだろう。
 山のようにあるキャラクターグッズのおかげで、リビングはあっという間に女子高生のような部屋になってしまった。
 お酒のアテにチョコを食べる甘党な叔父と、甘いものが大好きな俊ちゃんにはクッキーを持っていってあげよう。俊ちゃんには、マスコットのカチューシャも似合いそうだよね。
 大きな耳をつけた俊ちゃんの、おどける可愛らしい姿を想像したら笑みが漏れた。そんなのをつけてカウンターにいたら、別の種類の俊ちゃんファンが増えるかもしれないな。
 コートを脱いでソファの背もたれにかけてからキッチンへ向かうと、さっきまでキャラクターと共にソファでにこやかにしていた成瀬が慌ててそばに来た。
 ピタリと近くまで寄って来るから、つい怪訝な顔を向けてしまう。
「なに?」
「あ、いや、その。ほら、また……、あれだ」
 視線を泳がせた先には包丁がしまわれている場所があり、ああ、なんて溜息が漏れ出る。
 少なくとも、夢の国から戻ったばかりの私にその気は全くない。キッチンへ行くだけでそんな風に焦らせてしまうなんて、昨日の私はかなりひどかったみたいだ。
 私が成瀬の立場なら、死にたければ死ねばいい、とこんな面倒臭い女は放置だろう。面倒見がいいのだろうな。
 夢の国から戻ったばかりの余韻は、まだ気持ちをくすぐり昂らせたままで、昨日一日で起きた事がとても遠い過去のように思えてしまう。
 あんなに嫌な事があったのに、過去だなんて思えるのは夢の国の力なのかな。だとしたら、あそこは本当に凄い場所だ。
「コーヒー淹れるだけ」
 棚にあるカップに手を伸ばすと、判りやすいほどほっとした顔をしている。そんな表情を見てしまえば、申し訳ない気持ちになってしまうけれど、素直にごめんとは言えない。
 さすがにこの捻くれた性格は、夢の国でも直ぐには治らないらしい。なかなかに強情だ。
 コポコポと音を立て、香ばしいコーヒーの香りがリビングに広がり始めた。
 成瀬はソファにあるキャラクター達を袋の中から取り出して、テーブルに並べ始めていた。あれだけあるとショップでも始められそうな気がする。
「やっぱり買い過ぎたな」
 テーブルに置ききれなくて、まだ袋の中に収まるもの達を見た成瀬は、とても楽しそうに笑っている。そのグッズたちを少し掻き分けてから、テーブルにコーヒーのカップを置いた。
「成瀬も持って帰ってよ」
「え? 俺はいいよ。これは、全部涼音の為に買ったんだし」
 こんなにどうしたらいいのかと肩をすくめていると、成瀬が一番大きくてかさばっていた特大のぬいぐるみを手にした。
「メインはこれだ」
 まさか、それだけは持って帰るの?
 大の大人が大きなぬいぐるみを抱えて帰る姿を想像すると、面白すぎてコーヒーを口にできなくなった。笑いを噛み殺していると、成瀬は得意げな顔で特大のぬいぐるみを持ち寝室へ足を向ける。
「え、ちょっと待ってよ」
 持ち帰るのかと思いきや、寝室に向かって行くものだから、カップを置いて追いかけた。
 一度入られているとはいえ、当たり前のように出入りされるのはなんだか癪に障る……。
 慌てる私にかまうことなく、なんの遠慮もせずにドアを開けると、ベッドに近づき枕の隣にそのぬいぐるみを寝かせる。
「これで寂しくないだろ?」
 満面の笑みで腰に手を当てられてもね。
「子供じゃないんだけど」
「俺がいない時用」
 何を言ってるんだ、と呆れて嘆息し、置かれたぬいぐるみをどけようと手を伸ばしたら、あの時のように手を取られた。
「寂しいなら、寂しいって言えばいいのに。こんなデカイ家に独りでいるんだ。寂しくないわけないだろ。虚勢なんて必要ないんだよ」
 真っ直ぐ目を見つめられて放たれた言葉に驚いたものの、反論なんて少しも浮かんでこなかった。
 家族のいない大きな家に、ずっと一人きりでいることも。叔父のバーに足繁く通うことも。俊ちゃんに愛想良くするのも。会社で寡黙でいるのも。
 全部、全部虚勢。
 寂しくないなんて。平気だなんて、言えない。
 こんなヘラヘラした男、相手にするはずじゃなかったのに、どうしてこんなことになっているのかな。
 気がつけば、心配されて叱られて、温もりさえ与えられている。
 私の事を何も知らないからこそ、こんな風になれたのかな。つまらない壁を作り続けている事が、バカみたいに思えてしまう。
 成瀬は、どうして私なんかのそばにいてくれるのだろう。あんな過去を聞かされたら、こんな危なっかしい女なんて面倒なだけなのに。
「どうして?」
 掴まれている手をあの時のように振り解こうとすることなく、気がつけば縋るような顔で成瀬を見ていた。
 そんな私を哀れむでもなく、成瀬は穏やかな瞳をする。
 叔父にも俊ちゃんにもずっと平気だといい続けてきたくせに、成瀬に弱い自分を曝け出してしまえるのはどうしてなのか。これも、夢の国の力?
 少しだけ首を傾げて微笑む成瀬は、質問の意味がわからないのか。それとも、わかっていて応えないのか、ただ私を見つめ続ける。その表情に自然と安心感を覚えた。
 過去を話してもなお、会った時となんら変わらない態度でいてくれることが、こんなにもありがたいなんて気がつきもしなかった。
 そもそも、そんな風にしてくれる人など、今まで誰一人いなかったのだから気づきようもない。
 あの事故から、周りにいた人たちは壊れ物でも扱うように接してくるばかりだった。そんな風に扱われることがイヤだと感じる一方で、かわいそうだと思われたい自分も消せずに、ジレンマの中いた。
 どっちつかずの感情に、自分自身でもどうしたいのかわからなくて、お酒を飲んでごまかしてきた。
 だけど、成瀬といる時の私は違う。
 ヘラヘラした顔にイラついても、変わらぬ態度でいてくれることに安堵しているし。辛いなら弱音を吐けばいい、そんな風に言われている気がして、無闇に塞ぎこむ感情を払い除けられる。
 掴まれた手は、あの日路上で強引に足止めされた時とはちがってとてもあったかい。
 成瀬の前では、虚勢なんてものは必要ないのだろう。
 夢の国が続いているみたいに、この温もりを望んでいることに気づいていた。
 開けたままのカーテンから、欠けた月が雲をまとって微かに光を放っている。
 ひき寄せられ重なる唇には、すべての答えがある気がした。成瀬の胸は、私がもつ暗闇を取り除いてくれる気がしたんだ。
 凛と輝く月が、いつか私の中に現れる。そんな気持ちにさせてくれる人だと思った。
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