4.弾けない

文字数 2,669文字

 今日は、とても疲れていた。会社でのくだらない噂話が、いつもよりもエスカレートしていたからだ。
 今までコソコソと遠巻きに噂を楽しんでいただけの彼女たちが、自分たちの妄想から出た噂の真相を確かめるために接触してきた。
 本当にヒマなのかと呆れてしまう。
 彼女たちが確かめようとした噂は、相変わらず別の方向に傾いていたから内容的にはどうでもよかったのだけれど、干渉の仕方が余りにもしつこかったので、つい苛立ちをあらわにしてしまった。
「それっを知って、どうしたいんですか? ホント、ヒマですね」
 嘲笑つきでつい言葉にしてしまったことに、彼女たちの怒りが爆発した。怒りをあらわにすると、どうでもいいような御託を延々とぶつけられる。終いには、お嬢様だからってつけ上がるなっ、という腕組姿勢での罵声まで飛んできた。
 どうやら、お嬢様という人種だった場合、つけ上がってはいけないらしい。くだらなすぎて溜息しか出ない。
 右から左に聞き流していた私も、いつまでも続くくだらない罵倒の数々に面倒になってきて、そうですね、すみませんでした。とあっさり頭を下げてその場を去ってきた。
 余りにもあっさり引き下がったものだから、彼女たちは、なにかモゴモゴと口の中で言葉を濁していたけれど、それ以上の何かは特になく。やっぱり、ただの暇つぶしでしかないんだ、と呆れてしまう。
 人は、自分よりも下の人間を見つけて攻撃することで安心を得ようとする。それは、単にほかに夢中になれることがないからだ。そう考えれば、なんだか可哀そうな気もしていた。
 そんな私も、今では何か夢中になるなんてこともなくなってしまったけれど。
 帰り際、会議室に呼ばれ、上司に小言を言われた。真面目に仕事をこなしてくれるのはありがたいが、周囲との協調性も大事にするようにということらしい。彼女たちがどんな風に告げ口をしたか知らないけれど、くだらないことに関しての協調性を求められても困る。
 仕事もせずにおしゃべりに夢中なあの女子社員と同調して仕事が滞ってもいいのなら、話は別だけれど。叔父の紹介じゃなかったら、とうに辞めている職場だ。

 いつもほとんど同じ時刻にバーへ来ているのに、上司の小言のせいで今日はずっと遅くなってしまった。
 閉店時間にはまだあるけれど、いつものサイクルが変わると、なんとなくバーへ顔を出しにくい気持ちになるのが不思議だ。
 溜息交じりに階段を下り、木戸を開けると今日もジャズが――――。
 インクレディブル・ジャズギター……。
 聴こえてきた、ウエス・モンゴメリーのギターに足が竦んだ。心臓が握りつぶされていくような感覚に陥り、木戸に手を置いたまま片方の手で胸元を押さえる。あの時の彼の顔が、脳内を埋め尽くしていく。
 ごめんなさい。
 ごめんなさい……。
 呼吸が巧くできない。
 木戸を半開きにしたまま中に踏み込めずにいると、そのドアを中からゆっくりと開ける叔父がいた。

「すまなかったね」
 曲は、ビリー・ホリデイの奇妙な果実に変わっていた。低く語りかけるような歌声に、大丈夫と言われている気がして深く息を吐く。
「この時間になっても、姿を見なかったのでね……」
 カウンターに入った叔父が、未だ顔色の優れない私へいつもの琥珀ではない、度数の低いアルコールを用意する。そのグラスを受け取りながら、首を横に振った。
「いいの。私にあわせる必要なんて、ないでしょ」
 笑みを浮かべて安心させようとしたけれど、巧く笑えていない気がした。
「まだ……気にしているのかい?」
 躊躇いがちに訊ねる叔父に、無言で僅かに頬を緩めた。
 気にしていないなんて、とても言えない。気にしているから、今も私はこんなに無気力なのだから。
 彼がよく弾いていたジャズギターの音色にさえ、穏やかに耳を傾けられない自分が情けない。
「弾いてみることも……?」
 力なく首を横に振り、叔父の入れてくれたグラスの中にある、ジュースみたいな液体を飲み干してからいつもの琥珀を頼んだ。
「少しずつ触れてみるのもいいと、私は思うんだが」
 カウンター席の背後にあるピアノへと、叔父が視線をやる。この前、サラリーマンが触れようとしたピアノは、何も語ることなく今も静かにそこに佇んでいる。
 叔父がサラリーマンの行動を制したとき、調律していないと彼に話していたけれど、私は知っていた。定期的に、調律師にピアノを視てもらっていることを。それが、私のためだということも。
 いつか、再び私があの場所に座ることを叔父が望んでいる事を知っていても、未だ触れることも近寄ることもせず、遠巻きに視線を送るだけ。
 心配してくれる叔父の気持ちに応えたいとは思っても、心も身体もそれを拒絶したままだった。
 カウンターへ向き直り、叔父が入れた琥珀を喉に流し込む。
 気がつけば、曲はキースジャレットトリオのグリーンドルフィンストリートに変わっていた。その曲調の明るさに救われる。
 キースの音楽に身体も気持ちも落ち着きを取り戻したところへ、俊ちゃんが勢いよくドアを開けて顔をのぞかせた。
「あっ、涼音(すずね)さん。いらっしゃい。今日はもう逢えないのかと思ってたよぉ~」
 今日も俊ちゃんの甘え方は天下一品だ。パタパタとそばに来ると、猫のように擦り寄ってくる。
「俊、他のお客様が居ますよ」
 叔父から静かに窘められて、ごめんなさいとばかりに肩を竦めたあとヘコヘコと頭を下げている。
「お遣い?」
「うん。パスタとトマト缶の補充。あとにんにくね」
 どうやら、近所にある輸入スーパーへ行っていたらしい。
 甘え上手な俊ちゃんは、これでも調理師と栄養士の資格を持つつわものなのだ。俊ちゃんの作るパスタは、酒のアテなんて安易なものじゃない。イタリア料理店顔負けの美味しさだ。
 パスタの入った袋と、別の手にはコンビニの袋を下げている。きっと中には新作のデザートが入っているんだろうな、と笑みを零した。
 俊ちゃんは甘い物好きだから、お客の中にいる俊ちゃん贔屓のお姉さまたちも、ここへ来る時には必ずデザートを片手にやってくるくらいだ。
「一緒に食べない?」
 買ってきたデザートたちをカウンターテーブルに並べようとした俊ちゃんを、叔父が「んんっ」と咳払いで窘める。
 だから、他のお客さんが居るからね。
 クスクスと笑いを零していれば、今日あったことも、モンゴメリーのギターを聴いたことさえ忘却できる気がた。
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