20.稼動

文字数 4,007文字

 二人の大切な観客に、今までどんなコンサートを開いても味わった事のないほどの嬉しい拍手を貰い、私は深く深く頭を下げた。
 その日から、私はまたたくさんピアノに触れている。ステージに立ったり、観客のいる公の場所で弾くわけじゃない。
 以前契約していた事務所に連絡もしなければ、海外に行ったままの家族に知らせるわけでもない。当然、レコード会社にだって話してはいない。
 自分からピアノを弾くことに疑問を持って形を潜めた上に、あんな事件を犯したんだ。今更、どの面下げてと思われるのが関の山だろう。
 今は、ただ弾きたい。それだけ。
 家のピアノと毎日向き合い、閉店後のバーで叔父や成瀬相手に披露する。
 趣味で弾いているのとなんら変わらないのに、それでよかった。それが、今の私には良かったんだ。

「涼音さん。最近、ご機嫌じゃないですか。何かいい事ありました?」
 今日も丹念にグラスを磨いている俊ちゃんが、笑みを浮かべて訊ねる。
 仕事帰りのこの時間。会社の女の子たちは、相変わらず他人の内情に興味津々で鬱陶しい。それを咎めることを面倒に思い、見て見ぬ振りする上の者たちも同じだ。
 飽きもせずに構ってくるのがバカらしくて、スルーの日々は変わりもしない。だだ違うのは、以前ほどイライラしないということ。
 同じようなことを同じように嫌みったらしく詮索してくるというのに、前よりも苛立ちが起こらないのだ。
 私が大人になったのか。いや、違うかな。
 私が穏やかでいられる理由は彼だ。
 その人物の顔を想像して、なかなかやるじゃん。と本人が居ないから褒めてみたりする。まだまだ捻くれた性格は直らない。
 ここへ寄り道して琥珀を飲むのが好きなのも相変わらずで、俊ちゃんが丁寧に磨いたグラスに注がれた琥珀を眺めてから口にする。
 最初の一口で喉が熱を持つ、その瞬間はやっぱりたまらない。
 流れるジャズに耳をかたむけながら、座る椅子を三分の一ほど回転させてカウンターから身体を斜めにした。
 背後でライトの光を受け神々しい存在を放ちながらも、嫌味っぽさもなく鎮座しているピアノをわずかに伺い見た。
 今日も彼は、素敵だ。
 勝手に彼などと言ってしまっているけれど、ピアノに性別なんて無意味かな。
 あ、そうだ。私ってば、まだ俊ちゃんにピアノを弾けるようになった事、話してなかった。
 閉店後に弾いていたとはいえ、特段コソコソしていたわけじゃなかったのだけれど。たまたま今まで俊ちゃんのいる時に弾いていなかったことに、今更ながらに気がついた。
 そもそも、成瀬との事も俊ちゃんだけ知らないのよね。
 今話したら、驚くかな。早く言って下さいよー。なんて、ブーイングかも。
「ニヤニヤしてますね。何か企んでません?」
 俊ちゃんの驚く顔や、ぶーたれた顔を想像していた私は、どうやら悪巧みをしているように見られたようだ。全く違うとも言い切れないけれど。
 ニヤつく表情を見て、俊ちゃんがわざとらしく武闘家のように両手を前に出し、腰を少しだけおとして身構える。武術なんて習ってないから、構える姿が様になっていなくておかしい。
 カウンター越しの俊ちゃんに、ウルトラマンの気ぐるみを着せたらもっと楽しめそうだ。いや、ダダの方がいいかな。
 クスクス笑いをこぼしてから、ざっと店内を見回す。あと数十分で閉店のせいか、平日ど真ん中のせいか、今日はお客の数も少ない。テーブル席で、静かにアルコールを味わう人がチラホラ。
 静かに流れるジャズをBGMに、閉店まで残り僅かな時間を堪能している。
 それを横目に椅子から立ち上がり、立ったまま残りの琥珀を一気に飲み干した。少し行儀が悪いけれど、叔父と成瀬以外の前で弾くのだから気合が必要だ。
 空のグラスをテーブルへ置き、ツカツカとヒールを鳴らしてピアノの前へ行く。
 ストンと椅子に腰掛けると、カウンターで磨いているグラスを持ったままの俊ちゃんが、私の行動に驚いている。
 不安げな表情の俊ちゃんへ、こくりと頷いた。
頷きが何を意味するのかすぐに察っした俊ちゃんは、磨いていたグラスを置くと慌ててカウンターから飛びしてきた。
「涼音さんっ、……あ、あのっ……」
 何をどういったらいいのか、とにかく心配してくれているようでオロオロしている。
 酔った勢いでこんな行動に出ていると思っているかな?
 また弾けなくなって、潰れてしまうんじゃないかと心配してくれているみたいだ。情けない姿を、幾度となく見てきているのだから当然か。
 ありがとね、俊ちゃん。
 けど。
「大丈夫」
 少し離れた場所で立ち尽くす俊ちゃんに、笑顔でしっかりと頷いた。
 真っ直ぐ俊ちゃんを見つめ返すと理解してくれたようで、不安そうな表情を少し和らげた後、両の拳を力強くにぎって、頑張ってと応援してくれる。
 ほんの数名しかいないお客たちが、何が始まるのか? とこちらに注目し始めた。
 数少ない酔客へ、深く頭を下げて一礼。ピアノの蓋を開け、ゆっくりと呼吸をする。
 目を閉じて、成瀬のヘラヘラ顏を想像すれば一気に肩の力が抜けていく。フッと笑みを漏らして両手を持ち上げ、俊ちゃんを一度見たあと鍵盤に触れた。
 同時に、店内で流れていたジャズがボリュームを下げていく。店を閉めるために叔父が来たのだろう。至れり尽くせり。
 スタンバイは、オッケー。
 じゃあ、いくよ。
 ほんのわずかな楽しいひと時を、今ここにいる人たちへ。
 キースジャレットで賑やかに。
 戯けたように指を弾ませ、軽やかにけれど丁寧に。彼の無邪気な弾きざまを体全体で、この楽しい気持ちを観客へ。
 気がつけば、叔父がギターを持ち出していた。
 直ぐ近くから椅子を引っ張り出し、いつの間にやらアンプに繋いでいる。
 一瞬で重なった音色が厚みを増した。
 お互いの音を探るように、邪魔をしないように、アレンジは飛び込みでお洒落に。
 トリオにはならないけれど、それでも楽しい叔父とのセッションに、観客が笑顔になっているのがうかがえた。
 お客が楽しんでくれているのがわかっただけで嬉しくなる。
 弾む指先。
 叔父と視線を交わし合いながら、締めくくるラストの盛り上がり。
 最後の音を鳴らして余韻を残し、ふぅっと静かに呼吸をしてから一礼すると、放心するように立ち尽くしていた俊ちゃんが弾かれたように力強い拍手をくれた。
 俊ちゃんの拍手につられ、お客も拍手をし始める。
 ほんの少しの観客からの拍手なのに、まるで何十人何百人といる人たちからもらったくらいの重みがあった。
 嬉しい。
 ううん。嬉しいだけじゃない。
 これは、感謝だ。
 ありがとう。
 私のピアノを聴いてくれて、ありがとうございます。
 もう一度深々と頭を下げて、今宵のステージを締めくくった。

 閉店後、興奮冷めやらぬ俊ちゃんからのおめでとうございます、と、よかったです、の連発に嬉しくて頬がずっと緩みっぱなしだ。
「マスターも最高です」
「も。か」
 ついでみたいに褒められて、叔父が苦笑いをしている。
「また涼音さんのピアノが聴けるなんて、マジ最高です。今なら、死んでもいいくらい幸せですよ」
「死んじゃダメでしょ」
 肩をすくませ笑っていると、閉店間際に現れていた成瀬も私の隣で笑っている。
 一緒になって今のこの状況を楽しんでいる成瀬に向かって、俊ちゃんの目が訝しく変わった。
 さっきまでのはしゃぎようはどこへやら、成瀬のことをじっと見据えて黙ってしまう。
 まー、言いたいことはよくわかるけど。でも、少し様子を見たいと口を開かず黙ってしまう私は、ちょっと意地悪かな。
「もう閉店ですけど」
 カウンターに座る私の隣で、さっき叔父が入れてくれたビールを飲んでいる成瀬を、俊ちゃんが追い出そうとする。あからさまに不機嫌な顔に、成瀬がたじろいだ。
 俊ちゃん、だからお客相手にその顔はダメでしょ。
 気づかれないように俯き、おかしさをかみ殺す。
 俊ちゃんの攻撃的な視線や言葉に、当の成瀬は、えーっとぉ……。なんて戸惑うばかり。
 叔父も、少し離れた先から傍観するだけで口を出さない。
 さすが血が繋がっているだけある。なかなかのとぼけ具合だ。
「ですから。もう閉店なんですよっ。また、明日にでも来て下さい」
 カウンター越しに、更に追い出そうと強気の発言だ。
「え? あ、えっと、俺はその……」
 助けを求めるように成瀬が私を見る。それを敢えてスルーすると、今度は少し離れた先にいる叔父を見る。
「何なんですか」
 挙動不振な成瀬の態度に、俊ちゃんは威嚇でもするみたいに腕を組み始めた。
 成瀬ってば、相当嫌われてる。俊ちゃんがここまで嫌うって、なかなかのことだよ。
 私は、また笑いを噛み殺す。そこで、とうとう叔父か救いの手を差し伸べた。
「俊。いいんだよ」
「マスター、何言ってるんですか。もう閉店なんですよ。涼音さんだって、迷惑ですよね?」
 私のために怒ってくれている俊ちゃんをさすがにこのままにしておけず、噛み殺していた笑い顔を上げた。
 おかしさに顔を歪めている表情を見て、今度は俊ちゃんが、えーっとぉ。なんて顔をする。
「ご、ごめん俊ちゃん」
 クスクスと止まらない笑い声のまま、成瀬のことを説明した。
 すると、当然。
「えーっ! なんですか、それッ! 僕だけずっと知らなかったんですかっ?」
「ゴメンね」
 両手を合わせて謝ると、悔しそうに頬を膨らませているけれど、最後には笑顔になってくれた。根はいい子だからね。
そのあと、ここへ至るまでの経緯も掻い摘んで話すと、年下のはずの俊ちゃんは良かったね。と私の頭に優しく手を置き、お兄さんみたいに穏やかな表情をした。
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