16.笑顔をくれる人

文字数 3,522文字

 夕方前に成瀬のスマホが鳴った。微睡むように布団に包まれていた私の隣で、成瀬が半身を起こして真剣な声で応対している。
 仕事の電話だろうか。若干砕けた成瀬の、です。ます。口調を、目を閉じたまま聞いていた。
「この後に、はい。では、のちほど」
 通話を終えると、すぐに布団から出て着替え始める。
「呼出し?」
 誰からなのか訊きたい衝動に駆られたけれど、やめておいた。虚勢なんて必要ないと思いながらも、繋がってしまった後に感じるのは怖さだった。
 結局、初めに逢った時の興味本位に見えた態度が頭に浮かんで、これが目当てだったんじゃないかと信用し切れていないマイナス思考に縛られる。一夜の情事に、その感情は必要ないと。
「うん。ちょっと頼んでたことがあって」
 それだけ言うと、成瀬は背を向けバタバタと慌ただしく帰り支度を始める。
 着替え終える成瀬を見ながら、まんまと思い通りになっちゃったんだなと情けなさに気持ちが塞ぎ始めていた。
 次を期待するのはおかしな話。夢の時間は、おしまいだ。
 楽しい時間というのは、あっという間に過ぎていく。それは、子供でも大人でも同じ。それだけにしがみ付いているわけにはいかない。
 面倒な女の相手など、そう何日も続かないよね。相手をしてもらえただけでも感謝かな。
 バイバイ、成瀬。
 さよなら。
 心でした別れの言葉へ反応したみたいに、成瀬がこちらを振り返った。
「じゃあ、またな」
 ……また?
 思いもしない言葉に、一拍程思考が停止した。それから、ふっと小さく息が漏れる。
 また、なんて言われたら次を期待してしまうじゃない。能天気な成瀬のことだから、きっと何も考えず口にしたのだろう。
 自嘲気味の笑いがこぼれそうになったところで、成瀬は私に近づき口づけをした。
 顔を離すと見守るような瞳と目があった。
「バーにまた顔出すよ。今度からは、つれない態度しないでくれよ。あ、それから、包丁だけは勘弁して」
 冗談とも取れる言い方に、自嘲気味の笑いは消えてクスクスと可笑しさに声が漏れた。
「うん。そうやって笑うのがいいと思う。怒ってる顔も魅力的だけど、笑い顔のほうが涼音には合ってるよ」
 魅力的って言っても、俺 M じゃないからなと笑いながらそんなセリフを残していった成瀬の背中を、言われた通りの笑顔で見送った。
 成瀬がいなくなったあとリビングへ行くと、夢の国で買ったマスコットのくっついた青色のマジックがテーブルに転がっていた。ソファの上に雑に置かれたショッピングバッグには、でかでかとスマホの番号が書かれている。
「豪快すぎ」
 成瀬のやること全てに、今の私は笑みを洩らしてばかりだった。

 貸し切りパーティーが終わった頃を見計らって、バーに顔を出した。後片付けもほぼ終わったようで、中はいつもの雰囲気に戻っている。
「お疲れ様」
 カウンターの中でグラスを磨く叔父に声をかけると、ふわりとした笑みを向ける。
「飲むかい?」
 一つ頷き、いつもの席に腰掛けた。叔父が用意した琥珀を一口喉に流し込んでから、持って来たお土産のチョコレート缶を差し出した。
 首を傾げてチョコレート缶を受け取ると、渡される理由を訊ねる顔に、お土産と笑みを浮かべる。
 缶に描かれた誰にでも知られているキャラクターに、叔父が驚いた顔をしたあとに満足した顔をした。
「俊ちゃんは?」
「病み上がりだからな、さっき帰らせた」
「そう」
 じゃあ、もう一つの缶は、またにしよう。
「一緒にどうだ?」
 チョコが収まる缶の蓋を開けて、私にも中身を勧める。
 せっかくだから、一ついただこう。
 口に入れると、甘いチョコの中にはナッツが入っていて、味はその辺のチョコよりも美味しかった。
「チョコも美味しいじゃない」
 小さく漏らすと、叔父が、ん? という顔をするから慌てて首を振った。
「彼は?」
 何の躊躇いもなく訊ねる叔父に、私も戸惑うことなく即答する。
「帰った」
「そうか」
 叔父からの短い会話の中には、たくさんの気づかいが詰まっている。
 私が誰かのことを訊ねられてすぐに応えられることも、誰かと共に過ごしたことも、叔父の笑みをみてしまえば何を思ってくれているのかすぐにわかる。
 彼がいなくなってから、私の周りには、そんな人など一度も現れたことがなかったから。
「俊に似て少し騒がしいかもしれないが、いいやつだと思うぞ」
「そうかな……」
 わずかな照れ臭さに、つい目線を下げてしまう。
「あれくらいの方が、涼音には丁度いいんじゃないか」
 からかい気味に笑ってから、叔父もグラスにアルコールを注いだ。お客に付き合うことはよくあるけれど、店じまいの後に飲むのは珍しい。何年かぶりに俊ちゃん以外の人の話をしたから、祝い酒なのかもしれない。
 そんな風に考えてしまう自分の軽さに、成瀬のが移ったかななんて口角がわずかに上がった。
「そうかもね」
 上がった口角を誤魔化すように少しおどけて笑い、背後にあるピアノを振り返る。あの場所に座る私と、楽しそうにギターを弾いていた彼の姿が蘇る。
 ピアノのそばに椅子を引っ張り出し、よくセッションをしていた。時々意地悪にアレンジを加えてくるものだから、負けないように必死になったりもしたっけ。
 あれ以来、何の噂も聞かないまま、たくさんの時間が過ぎていった。私は、変わらずピアノに触れることはない。
 彼は、ギターに触れているだろうか。ジャズを嫌いになっていないだろうか。
 私のことをいくら嫌ってもいいから、大好きだったジャズを嫌いにだけはなっていて欲しくない。
「弾いてみるか?」
 ピアノを見続ける私に、叔父がさらりと訊ねる。重くならないように、なんでもないことのように勧めてくれる。
 僅かに躊躇ったあとに意を決して席を立ち、ゆっくりとピアノに近づいた。手入れの行き届いたピアノは、埃一つかぶらず綺麗な光沢を放っている。
 成瀬が家でしたように、そっと慎重に蓋を持ち上げて赤いキーカバーを丁寧にたたんだ。
 椅子にかけることなく、ソの音を人差し指で押してみる。やっぱり調律はされていて、家のピアノのように音はずれていない。
 椅子に腰掛けて、一つ深呼吸をする。
 あの事故以来、近づくことも座ることもなかった鍵盤を前にもう一度息を吸った。
 頭の中ではたくさんの音符が巡っていて、それはたくさんの時間が流れた今でも同じだ。どんな状況でも、音が流れれば音符が瞬時に浮かび上がる。
 暗く沈んだままでいても仕方ない。明るい曲調にしよう。
 Yours In My Heart Aloneなんて、どうだろう。
 目を瞑り、指が軽やかに動くイメージを膨らませる。
 深く呼吸したあと、両手を鍵盤の上に置き、そこで一旦動きを止めた。
 もっとイメージを膨らませる。
 音も踊る指も、自分が弾いて叔父が聴いている表情や姿もイメージする。
 大丈夫。
 できる。
 鍵盤の上に指を置き、呼吸を整えて指を滑らせる。
 初めの音がいくつか流れるように鳴り出したすぐあとに、目の前にある自分の手が……震えだした。
 音が……ぶれる。
 リズムなんて取れない。それより何より、鍵盤を押さえられない。
 カタカタと小刻みに震える手に、じんわりと汗が滲んだ。
 成瀬と夢の国で過ごし、彼の優しさに包まれたあとの今なら弾ける気がしていた。
 あんな風に楽しいと感じる一日を過ごせたことは、今までの私にしてみたら奇跡のようなことだったから。以前のように軽やかに指が動くとは思わなかったけれど、それでもそれなりには弾けるんじゃないかと思っていた。
 叔父に勧められるままピアノの前に座ってからも、手の震えなんてもう起こらないって。たどたどしくも、鍵盤の上で指を躍らせているイメージができていたのに。
 なのに、やっぱり無理なんだね。あんなことをした私に、ピアノを弾く資格なんてないんだ。震え続けるこの手が証拠だ。
 これが私に与えられた罰なんだ。
 二度とピアノを弾くことなんて、許されない。私の指は、使い物にならない。
 震え続ける手を、ゆっくりと膝の上に置いた。未だ震えは止まらなくて、カタカタと膝に振動を伝えている。
「涼音……」
 膝の上で別の生き物みたいに震える手を見ていれば、心は空洞を広げていく。真っ暗な洞に飲み込まれるみたいに、視界も虚空を彷徨うだけだ。
 生気の抜けたような私の体を、叔父が優しく抱きしめる。
すまないと謝る叔父に、涙を堪えながらただ首を振ることしかできなかった。
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