3.見ない顔
文字数 3,651文字
何もしなくても暮らしていける生活費はあった。伊達に天才なんて呼ばれてもてはやされてきたわけじゃない。未だに何かしらの収入があって、口座には桁を数えるのも面倒な額が入ったままだ。
だけど、それに手をつける事なく暮らしているのは、いつか盛大にぶちまけてやろうという、つまらない野望を抱えているからだった。
その時が来たら、きっと両親は目を丸くして驚くだろう。天才ピアニストから落ちぶれてしまった時よりも、ずっとずっと驚くに違いない。
そのいつかがやってくるような気は、少しもしないけれど。
いつもの階段を下りて木戸に手を掛けドア開ければ、聴き慣れたジャズが耳に届く。今日は、マイルスデイビス。
ビル・エヴァンスじゃなくて、ほっと息を漏らした。
「いらっしゃい」
カウンターの向こうには俊ちゃんがいて、グラス磨きに余念がない。輝きを確かめてから静かにグラスを置いて、又次のグラスを手にしている。少しの曇りも許さない、というように、真剣な表情でグラスを磨く姿はなかなかに男前だ。
いつものカウンター席にカツカツとヒールを鳴らして足を向けると、先客ありに立ち止まる。座っていたのは、見慣れない顔だった。
常連なら、そのカウンター席に座るなんてことはまずない。私がいつも座るのを知っているからだ。予約席でもないから譲ってくれと言うわけにもいかず、今宵はいつもと違う端の席に腰掛けた。
何も言わなくてもいつもの琥珀を手にした俊ちゃんが、ゴメンね、というような顔をして私の前にグラスを置いた。
いいよ。と首を振り、疲れと一緒にグラスを傾け、一口喉に流し込む。
初めの、焼けるように喉を通る瞬間が好きだった。このまま焼けただれて、声さえ出なくなればいいのにと思うときもある。話す事さえ無意味に感じる時があるからだ。
何を言っても、もう私の言葉は誰にも届かないだろうし。寧ろ、悪意に捉えられ、もっとたくさんの人を傷つけることになる。そんなのはもう御免だし、静かに平穏に日々を超えていきたい。
息を吐き琥珀のグラスを再び口元へもっていくと、俊ちゃんがいつもは私に出さないナッツの皿をグラスの前に置くから思わず首をかしげた。
「あのお客さん。最近よく来るんだよ」
どうやら、ナッツをカモフラージュに噂話をしたいらしい。私にだけ聞こえるように、いつもの席に座るお客の事を話しだす。
へぇ、よく来てるんだ。気がつかなかった。
俊ちゃんの方に耳を傾けながら、自然なしぐさで噂のお客を観察してみた。
恰好はスーツ姿だから、サラリーマンだろう。皮の靴がよく磨かれていて、ダウンライトに光っている。書類が詰まっているだろう鞄は、座っている隣の席に置いていた。
「いつも一人?」
「うん。一人だね。今までは奥のテーブル席に座ってたんだけど、今日は、ここいいかな? って」
俊ちゃんは、肩を竦めている。
背後にあるテーブル席には常連が座っているだろうと、今まで然程気にもとめていなかった。
新しいお客が増えたなら、それはそれで喜ばしいことだし、私がいちいち気にする必要もない。
俊ちゃんへ、ふ~んと返して、チラリと四つ席を空けた先に座るお客をもう一度見る。
年齢は、同じくらいだろうか? スーツ姿が少し様になってきた位の年齢に見える。二十五、六歳かな。さらりとした髪質に、ダウンライトの光が映っている。
目の前のグラスには、ビールが残り少し。お代わりせずに帰らないかな。
あの席に特別な感情を抱いている私は、そんな気持ちで彼を窺い見ていた。
あそこは、彼と並んでよく座っていた席だった。演奏を終えたあと、二人でグラスを合わせるのが習慣になっていて、彼がここへ来なくなった今も、彼の幻影でも追いかけるみたいに、決まってあの席に座り琥珀を傾けている。
いつもの席に座るサラリーマンが、ビールを飲み干しようやくグラスを空けた。
帰る?
期待してみたけれど。
「同じの」
カウンターに控えている俊ちゃんに向かって、空になったグラスを押したのを見て肩を竦めた。
残念、まだ帰らないか。
小さく息を吐き出し琥珀に手を伸ばすと、横からなんとなく視線を感じた。多分、サラリーマンがこっちを見ているのだろう。
さきほど、こっそり窺うように観察していたことを気づかれただろうか。
視線を感じつつも、サラリーマンを見ないようにした。静かな時間を壊される気がしたからだ。
マイルスデイビスの曲に氷の音をぶつけてグラスを頬に寄せれば、冷たさに脳内が刺激されていき、過去に戻る思考が彼の事を想起させていった。
どうしているだろ?
時間の止まったあの瞬間の彼の表情が、今も私の胸を苦しくさせる。その苦しさから逃れるなんて傲慢なことなどできやしないのに、それでも一気にグラスを傾けて煽り、深く息を吐いて現実の世界へと目を向けた。
それが合図だったみたいに、サラリーマンが俊ちゃんに話しかけた。
「奥のピアノ。誰かが弾いたりというのはないんですか?」
素朴な疑問だろう。あんなに立派なピアノが置かれているのに、誰もそれに触れないのだから。
「昔は、弾く人が居まして……」
多くを語らない俊ちゃんに、サラリーマンはまた疑問を投げかける。
「今は、居ないの?」
頷く俊ちゃんに背を向けると、サラリーマンが徐にカウンター席から立ち上がり、ツカツカとピアノに向かっていった。
嫌な予感に、ドクリと心臓が鳴る。テーブル席を縫うように歩き、サラリーマンがどんどんピアノへと近づいていく。
常連の客たちは表情を曇らせたり、引き攣らせながらも、サラリーマンの行動を誰も止められない。
サラリーマンがピアノへ近づいたところで、躊躇いなく伸ばされる手に息が止まる。
触らないでっ!
咄嗟に言葉が出ず、焦りに椅子から立ち上がったところで、その手をやんわりと遮る人物か現れた。
「お客様、申し訳ありません。しばらく調律していないものですから」
サラリーマンが伸ばした手を遮ったのは、最近白髪が目立つと銀髪に染めてしまった、ここの経営者でもある私の叔父だった。銀髪も素敵で、私は結構気に入っている。
このバーに来る常連は、誰一人としてピアノに触れようとはしない。それがどういう理由なのか詳しく知っている人など今はほとんど居ないだろうけれど、それが暗黙の了解となっていた。
おかげでサラリーマンのしようとした行為に、周囲から僅かだけれどざわつきが起こり、何か酷く悪いことでもしたような雰囲気が店内に漂ってしまった。
けれど、その雰囲気をしっかりと和らげ、巧く対応するのが叔父だった。
「何かサービスさせて下さい」
少しの嫌味もなく無理やり強制した感じも窺がわせない声音と表情で、サラリーマンを元のカウンター席へと誘導する。スマートなやり方は、流石だ。
叔父が現れたことと、穏やかな物言いに、ざわついていた他のお客たちも徐々に落ち着きを取り戻していった。
サラリーマンがカウンター席に戻ると、ピアノへ抱いた興味を打ち消したお詫びと言うように、叔父がグラスにビールを注いでコトリと目の前に置いた。
「ピアノ、弾かれるのですか?」
カウンター越しに、サラリーマンの前に控える叔父が質問を投げかける。
「いえ、全く」
あんな風にピアノへ近づいていったにもかかわらず、全く弾けないという答えに恥ずかしそうにしてからサービスのビールを口にした。すると、飲んだ途端にその目を大きくし、驚きを隠せずにいる。
「旨い」
噛みしめるように呟き、ビールを注いだ叔父を驚いた顔のまま凝視した。
当然だ。叔父が入れるビールは、泡のキメも細かいし、その泡との配分が絶妙なのだから。叔父の入れるビールが飲みたいと、わざわざ足を運ぶ客だっているくらいだ。
「ありがとうございます」
叔父は、話運びも流石だった。そこからはビール談議に花が咲き、ピアノに触れようとして気まずくなったことなど忘れ去られていく。
俊ちゃんは私の前に陣取り、ちょっと肩を落としている。
「やっぱり、マスターには敵わないっすよね」
手持ち無沙汰なのか、さっき磨いたはずのグラスを手にして又磨きだした。
「俊ちゃんも、美味しいの淹れられるようになるって」
慰めの言葉が届いたのか、元々の性格なのか。私の言葉を聞いて、直ぐに笑顔を見せた。
「俊ちゃん目当てのお客さんも、随分いるじゃない」
ベイビーフェイスな俊ちゃんはとても甘え上手で、ここへ来るお姉さま方を虜にしていた。
「そうなんですよねぇ。僕、最近もててるみたいでぇ」
でへっと、幼い顔を崩して笑うと、機嫌がすっかりよくなったのか、私にお代わりを勧め始める。
まだ残る琥珀を一気に煽り、俊ちゃんに勧められるままにもう一杯注文した。それを今度はゆっくりと味わってから、帰路に着いた。
だけど、それに手をつける事なく暮らしているのは、いつか盛大にぶちまけてやろうという、つまらない野望を抱えているからだった。
その時が来たら、きっと両親は目を丸くして驚くだろう。天才ピアニストから落ちぶれてしまった時よりも、ずっとずっと驚くに違いない。
そのいつかがやってくるような気は、少しもしないけれど。
いつもの階段を下りて木戸に手を掛けドア開ければ、聴き慣れたジャズが耳に届く。今日は、マイルスデイビス。
ビル・エヴァンスじゃなくて、ほっと息を漏らした。
「いらっしゃい」
カウンターの向こうには俊ちゃんがいて、グラス磨きに余念がない。輝きを確かめてから静かにグラスを置いて、又次のグラスを手にしている。少しの曇りも許さない、というように、真剣な表情でグラスを磨く姿はなかなかに男前だ。
いつものカウンター席にカツカツとヒールを鳴らして足を向けると、先客ありに立ち止まる。座っていたのは、見慣れない顔だった。
常連なら、そのカウンター席に座るなんてことはまずない。私がいつも座るのを知っているからだ。予約席でもないから譲ってくれと言うわけにもいかず、今宵はいつもと違う端の席に腰掛けた。
何も言わなくてもいつもの琥珀を手にした俊ちゃんが、ゴメンね、というような顔をして私の前にグラスを置いた。
いいよ。と首を振り、疲れと一緒にグラスを傾け、一口喉に流し込む。
初めの、焼けるように喉を通る瞬間が好きだった。このまま焼けただれて、声さえ出なくなればいいのにと思うときもある。話す事さえ無意味に感じる時があるからだ。
何を言っても、もう私の言葉は誰にも届かないだろうし。寧ろ、悪意に捉えられ、もっとたくさんの人を傷つけることになる。そんなのはもう御免だし、静かに平穏に日々を超えていきたい。
息を吐き琥珀のグラスを再び口元へもっていくと、俊ちゃんがいつもは私に出さないナッツの皿をグラスの前に置くから思わず首をかしげた。
「あのお客さん。最近よく来るんだよ」
どうやら、ナッツをカモフラージュに噂話をしたいらしい。私にだけ聞こえるように、いつもの席に座るお客の事を話しだす。
へぇ、よく来てるんだ。気がつかなかった。
俊ちゃんの方に耳を傾けながら、自然なしぐさで噂のお客を観察してみた。
恰好はスーツ姿だから、サラリーマンだろう。皮の靴がよく磨かれていて、ダウンライトに光っている。書類が詰まっているだろう鞄は、座っている隣の席に置いていた。
「いつも一人?」
「うん。一人だね。今までは奥のテーブル席に座ってたんだけど、今日は、ここいいかな? って」
俊ちゃんは、肩を竦めている。
背後にあるテーブル席には常連が座っているだろうと、今まで然程気にもとめていなかった。
新しいお客が増えたなら、それはそれで喜ばしいことだし、私がいちいち気にする必要もない。
俊ちゃんへ、ふ~んと返して、チラリと四つ席を空けた先に座るお客をもう一度見る。
年齢は、同じくらいだろうか? スーツ姿が少し様になってきた位の年齢に見える。二十五、六歳かな。さらりとした髪質に、ダウンライトの光が映っている。
目の前のグラスには、ビールが残り少し。お代わりせずに帰らないかな。
あの席に特別な感情を抱いている私は、そんな気持ちで彼を窺い見ていた。
あそこは、彼と並んでよく座っていた席だった。演奏を終えたあと、二人でグラスを合わせるのが習慣になっていて、彼がここへ来なくなった今も、彼の幻影でも追いかけるみたいに、決まってあの席に座り琥珀を傾けている。
いつもの席に座るサラリーマンが、ビールを飲み干しようやくグラスを空けた。
帰る?
期待してみたけれど。
「同じの」
カウンターに控えている俊ちゃんに向かって、空になったグラスを押したのを見て肩を竦めた。
残念、まだ帰らないか。
小さく息を吐き出し琥珀に手を伸ばすと、横からなんとなく視線を感じた。多分、サラリーマンがこっちを見ているのだろう。
さきほど、こっそり窺うように観察していたことを気づかれただろうか。
視線を感じつつも、サラリーマンを見ないようにした。静かな時間を壊される気がしたからだ。
マイルスデイビスの曲に氷の音をぶつけてグラスを頬に寄せれば、冷たさに脳内が刺激されていき、過去に戻る思考が彼の事を想起させていった。
どうしているだろ?
時間の止まったあの瞬間の彼の表情が、今も私の胸を苦しくさせる。その苦しさから逃れるなんて傲慢なことなどできやしないのに、それでも一気にグラスを傾けて煽り、深く息を吐いて現実の世界へと目を向けた。
それが合図だったみたいに、サラリーマンが俊ちゃんに話しかけた。
「奥のピアノ。誰かが弾いたりというのはないんですか?」
素朴な疑問だろう。あんなに立派なピアノが置かれているのに、誰もそれに触れないのだから。
「昔は、弾く人が居まして……」
多くを語らない俊ちゃんに、サラリーマンはまた疑問を投げかける。
「今は、居ないの?」
頷く俊ちゃんに背を向けると、サラリーマンが徐にカウンター席から立ち上がり、ツカツカとピアノに向かっていった。
嫌な予感に、ドクリと心臓が鳴る。テーブル席を縫うように歩き、サラリーマンがどんどんピアノへと近づいていく。
常連の客たちは表情を曇らせたり、引き攣らせながらも、サラリーマンの行動を誰も止められない。
サラリーマンがピアノへ近づいたところで、躊躇いなく伸ばされる手に息が止まる。
触らないでっ!
咄嗟に言葉が出ず、焦りに椅子から立ち上がったところで、その手をやんわりと遮る人物か現れた。
「お客様、申し訳ありません。しばらく調律していないものですから」
サラリーマンが伸ばした手を遮ったのは、最近白髪が目立つと銀髪に染めてしまった、ここの経営者でもある私の叔父だった。銀髪も素敵で、私は結構気に入っている。
このバーに来る常連は、誰一人としてピアノに触れようとはしない。それがどういう理由なのか詳しく知っている人など今はほとんど居ないだろうけれど、それが暗黙の了解となっていた。
おかげでサラリーマンのしようとした行為に、周囲から僅かだけれどざわつきが起こり、何か酷く悪いことでもしたような雰囲気が店内に漂ってしまった。
けれど、その雰囲気をしっかりと和らげ、巧く対応するのが叔父だった。
「何かサービスさせて下さい」
少しの嫌味もなく無理やり強制した感じも窺がわせない声音と表情で、サラリーマンを元のカウンター席へと誘導する。スマートなやり方は、流石だ。
叔父が現れたことと、穏やかな物言いに、ざわついていた他のお客たちも徐々に落ち着きを取り戻していった。
サラリーマンがカウンター席に戻ると、ピアノへ抱いた興味を打ち消したお詫びと言うように、叔父がグラスにビールを注いでコトリと目の前に置いた。
「ピアノ、弾かれるのですか?」
カウンター越しに、サラリーマンの前に控える叔父が質問を投げかける。
「いえ、全く」
あんな風にピアノへ近づいていったにもかかわらず、全く弾けないという答えに恥ずかしそうにしてからサービスのビールを口にした。すると、飲んだ途端にその目を大きくし、驚きを隠せずにいる。
「旨い」
噛みしめるように呟き、ビールを注いだ叔父を驚いた顔のまま凝視した。
当然だ。叔父が入れるビールは、泡のキメも細かいし、その泡との配分が絶妙なのだから。叔父の入れるビールが飲みたいと、わざわざ足を運ぶ客だっているくらいだ。
「ありがとうございます」
叔父は、話運びも流石だった。そこからはビール談議に花が咲き、ピアノに触れようとして気まずくなったことなど忘れ去られていく。
俊ちゃんは私の前に陣取り、ちょっと肩を落としている。
「やっぱり、マスターには敵わないっすよね」
手持ち無沙汰なのか、さっき磨いたはずのグラスを手にして又磨きだした。
「俊ちゃんも、美味しいの淹れられるようになるって」
慰めの言葉が届いたのか、元々の性格なのか。私の言葉を聞いて、直ぐに笑顔を見せた。
「俊ちゃん目当てのお客さんも、随分いるじゃない」
ベイビーフェイスな俊ちゃんはとても甘え上手で、ここへ来るお姉さま方を虜にしていた。
「そうなんですよねぇ。僕、最近もててるみたいでぇ」
でへっと、幼い顔を崩して笑うと、機嫌がすっかりよくなったのか、私にお代わりを勧め始める。
まだ残る琥珀を一気に煽り、俊ちゃんに勧められるままにもう一杯注文した。それを今度はゆっくりと味わってから、帰路に着いた。