18.猫踏んじゃった

文字数 4,554文字

 ライブハウスで蓮実の音を聴いてから、以前よりも少し前向きな感情が自分の中に芽生えていることに気がついていた。バーの奥にあるピアノへ視線を送る回数が増え。放置していた家にあるピアノも、調律師を呼んで調律してもらった。
 かと言って、ピアノに触れるかといえばそこまでにはまだ至らない。叔父に勧められ、バーのピアノを弾こうとして震えたあの感覚に縛られて怖かったからだ。
 それでも以前よりずっと、ジャズに対して素直に耳を傾けられてもいる。
 時々苦しくなることもあるけれど、そんな時は蓮実の楽しそうに弾いていた姿を思い出してみたり、隣で子供みたいに無垢な顔して眠る成瀬のヘラヘラ顏を想像すれば苦しみは少し和らいだ。
「んーっ」
 ベッドの中で大きな身体を目一杯伸ばし、ふぃ~と気の抜けた息を吐き出した成瀬が起き出した。
「腹減ったな」
 ぼそりとこぼしながらベッドを抜け出す背中を眺め、日常になってきているこの環境に頬が緩む。
「あれ? 今笑った?」
 緩んだ頬にやたらと敏感に反応されて、ふるふると首を振る。
 背中に目でもついてるの?
 訝しい顔をしてみても、やっぱりまた頬が緩む。
 寝室を出た後、慣れた感じでコーヒーの準備をしている音がキッチンから聞こえてくる。
その音を聞いてから、ベッドを出てバスルームへ向かった。
 熱いシャワーを浴びてさっぱりしてからリビングへ行くと、すっとコーヒーの入ったカップを手渡される。至れり尽くせり。意外と気が利く。
「成瀬って、兄弟いるの?」
 ソファに腰掛け、成瀬が淹れてくれたコーヒーに口をつければ、苦味の効いた好みの味にほっと息が漏れた。
「初めてだな」
 何が?
 隣に腰掛けた成瀬がニヤニヤしている。
 なんか企んでる?
 カップを口元へ持っていったまま、眉間に皺が寄った。
「涼音が、やっと俺に興味を持ってくれたらしい」
 嬉しいねぇ~、くぅ~っ。とわざとらしく言って笑っている。
 そうか。興味か。
 当たり前のことだけれど、敵視していた頃なら、興味どころじゃなかったよね。本人に言われるまで、気がつかなかった。
「俺はね、姉貴がいる」
「お姉さん」
 言われて、成瀬をそのまんま女性にした絵を想像し、申し訳なくなって直ぐに打ち消した。逢ってもいないお姉さんのことを、ヘラヘラした軽い女で想像してしまったからだ。
 勝手な想像など知らない成瀬は、気恥ずかしくも嬉しそうに、この姉貴がめっちゃ気が強くてさー、なんて苦笑いしながらお姉さんのことを話している。
「怒らせると、マジ怖いし」
 ケタケタと声をあげる成瀬は、いつもそうやって楽しそうに笑う。
 きっと、家の中ではいつも誰かが笑っているような明るい家族に囲まれて育ったのだろうな。うちとは大違いだ。
 口を開けばピアノ、ピアノ。それしか言葉を知らないのかと、ウンザリするくらい。
 過去を思い出せばため息がこぼれそうで、考えるのをやめた。
 成瀬の笑顔と気遣いに感謝しつつコーヒーを飲み、隣に座る顔を見て納得。
「お姉さんの指導のおかげか」
「ん? 何が」
 気が利くところだよ。という気持ちを込めて含み笑い。
 首をかしげる成瀬を、カップ越しに見やり冗談を言ってみる。
「小さい頃から、そうやっていつもヘラヘラしてたの?」
 言われた言葉を瞬時に理解できなかったようで、僅かに間を空けてからオイオイちょっと待て。と敢えて姿勢を正す。
「なんかそれって、毒吐かれてる?」
 片方の口角を上げる表情は、抵抗の証?
「そうかも」
 クスクス笑ったら、このやろ~、なんてふざけて攻撃してきた。散々くすぐったり、髪の毛をくしゃくしゃしたあとは、不意に冷静になり優しく背中に腕が回る。
「涼音に、俺の昔。見せたいな」
「昔?」
 抱きついたまま、成瀬が耳元に熱い息を落として頷いた。

 お腹が空いたという成瀬の情けない空腹音に、目的地へ向かう途中にあったカフェでブランチを摂った。
 育ち盛りの子供みたいに、ホットサンドへかぶりつく姿に笑みを零した後に案内されたのは。
「へぇ~。ここに通ってたんだ」
 日曜日の校舎は、長閑な雰囲気と共に静かに佇んでいた。平日にある騒がしさを体の奥に潜め、また来る月曜日のために力を貯めているような雰囲気だ。
 校門付近を警備していたおじさんに声をかけ、難なく小学校の校舎に入ることができた。
「いやー、警備のオッチャンが変わってなくてよったよ」
 気のいい警備員のオジさんは職員室へすぐさま連絡を入れると、成瀬の担任を受け持ったことのある教師から、校舎内を自由に観て回っていいと許可も貰ってくれた。
「年とってたなー。俺が年なんだから当たり前だけど。なんか、複雑。オッチャン長生きして欲しいなぁ」
 独り言みたいに話しながら、成瀬が初めに私を連れて行ったのは教室だった。カラカラと引き戸を開けて入った途端、ちっせー。と声をあげ笑っている。
「こんなちっさい机と椅子に座ってたなんてな」
 特に肯定も否定も求めていない言葉を聞いていると、真ん中辺りの椅子を引き腰掛けてみて、さらにそのサイズに懐かしさ混じりの笑いをこぼし机の傷を撫でている。
「こういういたずら書きって、何十年経ってもかわんないもんだな」
 成瀬の座る机を覗き込むと、アホやハゲなんて殴り書きされていた。
「成瀬が、書いたやつ?」
「まさか。さすがに俺のは残ってないだろう。しかも、俺は、アホやハゲなんて書かない」
 誇らしげに言うからなんて書いたのかを訊ねたら、しょうもない下ネタで呆れてしまった。
 小学生からそんなだから、こんな風に成長したのか。
 嘆息している私に気がつかないまま成瀬が話しだす。
「勉強は可もなく不可もなくだったけど。学校は好きだったな。友達に会いに行く感覚でさ。勉強ヤダなーなんて言っても、友達に会えるのが毎日楽しみで。何かと楽しかったしな。先生にも恵まれてたし。高学年の時の担任の先生が、ちょー美人の先生で」
 ニヘラッと頬を緩めた後懐かしさに目を細めて、成瀬は黒板をまっすぐ見て話す。
 給食のお代わり競争や、キャラクターカード収集の自慢話。興味ないふりをして美人の担任に絡んでみたり、遠足でお弁当のおにぎりを落っことしてしまったこと。
 幼い日の成瀬のことをとても楽しそうに聞かせてくれるから、まるで私もそのクラスに一緒に居たみたいにスッと心に馴染んでいった。
 しばらく思い出にふけったあとは椅子から立ち上がり、次行くか。なんて、二カッと笑い私の手をとり教室を出る。
 続く教室を横目に歩いていき階段をのぼると、工作室、理科室、特別教室の幾つかを過ぎて、また現れた階段を一階まで下りれば体育館へと続く渡り廊下があった。
「開くかな」
 渡り廊下の先にある、体育館のドアに手をかけながら成瀬が独り言を洩らしている。
 鍵は掛かっていなかった。
 よっしゃと小さく呟いた成瀬が、ドアの向こうにスッと体を滑らせる。その姿が、悪い事でもしているような感じにコソコソしていて笑ってしまった。
 警備のおじさんに断って入っているのだから、もう少し堂々とすればいいのに。小学校時代に、内緒でもぐりこんだことでもあるのかな。それで、見つかり叱られていたりして。
 想像してみたら、余りにもありそうな光景だった。
 体育館の中はたくさんある窓ガラスから陽の光が入り込み、陽だまりの温もりがあった。
「床も壁も、補修してるんだな。俺たちの頃よりずっと綺麗になってる」
 確かめるように眺め、舞台の方へと向かっていく。三段ほどの舞台に上がる木の階段を、弾むように駆け上がると中央に立った。
「生徒会長でもやってたの?」
 演説でも始まりそうな佇まいを少しからかうと、手招きされて壇上した。
「舞台って、そうそう上がる機会なんかないから、緊張したなー」
「ていうことは、上がったことはあるんでしょう?」
「おお。卒業式の日と、皆勤賞をもらった時」
 得意げに言ってケラケラ笑う。
「身体が丈夫でなにより」
 クスクス笑う私の手を引き、端に畳まれた緞帳のそばにあるピアノの近くへ連れて行く。
「担任だった美人の先生。音楽の先生だったんだ」
 話しながらピアノの蓋を持ち上げると、うちでしたように成瀬はソの音をポンと鳴らした。
「合ってる?」
「え?」
「ほら。ピアノって、音を調整しなくちゃいけないんだろう」
 どこで知識を得たのか、この前は気にもしなかったことだった。幸い、このピアノは最近調律でもしたのか音に狂いはない。
「大丈夫。ズレてない」
「よしっ」
 成瀬が気合の一言を放った。
 どうするのかと見ていたら、ゾウさんを弾き始めた。しかも、かなりたどたどしい上に、弾き間違えるから可笑しくてしかたない。
「楽器苦手なの?」
 笑い混じりに訊ねると、焦りながらも必死に「おぅっ」と返事をしながら真剣に辿々しいゾウさんを弾き続けている。
「そこ違う。ラだよ」
 成瀬の横から手を出し鳴らす。
「ああ。なるほど」
 その後も度々間違うから、横から何度も正しい音を鳴らした。
「本当はさ、どっかの芸人が結婚式で弾いたみたいにスンゴイの披露できたらいいんだけど。猫ふんじゃったも断念したくらいで」
 話しながらケタケタ笑う成瀬の隣に私も腰掛ける。
「じゃあ、私がお応えしましょう」
 わざと恭しく言い置いて、猫ふんじゃったを披露する。
 踏んづけられた猫が慌てて、踏んだ自分も慌てて。踊るように楽しく。戯けたように笑顔で。
 小さい子供たちへ聴かせるみたいに、アレンジはわかりやすく軽やかに。
 隣では、鍵盤を行き来する指の動きを、成瀬が驚いたように感心し笑顔で追っている。
 最後にジャンと弾き終わったところで、大袈裟な拍手を貰った。
「マジすげ~。楽譜とか要らないのな」
「音を知っていれば、これくらい普通に弾ける」
「そうなんだ。やっぱ楽器弾けると、かっこいいよな。俺もキャラカード集めてないで、なんか習っとけばよかったよ」
「カードはカードで、いい思い出でしょ」
「まーね。それより――――」
 ん? と言う顔をすると、成瀬が優しい瞳で見つめ、私を抱き寄せた。
「よかったよ」
「な、なによ。急に……」
 なんだか子供みたいな抱きつき方をするから、嬉しいような恥ずかしいようなくすぐったさだ。
「弾けたな」
 頭を優しく撫でられ、はっとする。
 そうだ。私、今ピアノを弾いた。
 あんなに手の震えに悩まされ、怯えていたのに。私弾けていた。
 驚きに体を離して、マジマジと成瀬の顔をみる。
 成瀬は、魔法使いなの? 私はまだ、夢の国から目覚めていないの?
 成瀬のそばにいると、私は過去を乗り越えられる。片意を地張るようにしてきた今までを、気がつかないうちに乗り越えている。
 やっと弾けた曲が猫ふんじゃったって言うのは、成瀬の影響を受けすぎていて笑ってしまうけれど。でも、ここで弾いた猫踏んじゃったは、きっと一生忘れない。
 やっと弾けたピアノを、こんなに楽しめたのは成瀬のおかげだから。
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