21.憎しみ

文字数 2,598文字

 後片づけの邪魔になりそうなので、閉店後に私と成瀬はバーを後にした。
「俊ちゃん、本当に驚いてたね」
 クスクス笑っていると、成瀬が膨れた顔をしながらバーの階段を上る私の後をついてくる。
「まさか、なにも話してくれてなかったなんてな」
 後ろを振り返ると、わざとらしくため息まじりに言って肩を竦ませている。
「カウンターの彼。ベイビーフェイスとは言え、あんな風に食ってかかられたら焦るし」
「ゴメン、ゴメン」
 軽いやり取りをしながら外に出ると、途端に夜の静寂には全くそぐわない棘のある言葉を掛けられた。
「いい気なものね。そんなに楽しい? ピアノ。自分だけ表舞台に戻る気でいるなら、私が許さないっ」
 バーの壁に寄りかかったまま腕を組み、憎しみのこもる言い方と表情で、女性が私のことを睨みつけてきた。
「手の震えなんて、初めらなかったんじゃないの? 悲劇のヒロインぶってただけなんでしょ。可哀想って思ってくれる人が見つかったから弾き始めたのよね。ホント、最低で嫌な女」
 組んでいた腕を解き対峙する彼女は、叔父に買物を頼まれた町で私を罵倒した征爾のファンだった。
 この人、さっきの演奏を聴いていたんだ……。
「あんた、何言って……」
 突然のことに戸惑っていると、成瀬が間に入ってかばおうとしてくれた。
 事故で征爾の世界を壊してしまったった私が、楽しそうにピアノを弾いていたら怒りもわくよね。
 彼女の前に立ちはだかる成瀬を、静かに右手を上げてとめる。
 あの日、路上で包まれた黒い影がまた私を支配していく。黒い感情が、心の中で少しずつ広がり嵩を増していく。
 全て終わらせてしまえば楽になる。
 殺してと彼女に向かった叫んだこと。包丁を手にして、この指が全てなくなってしまえば全て終わりにできると思ったこと。
 全てがまた繰り返し、私の中で蠢きだす。胸の中で黒を濃くして、渦巻き始める。
「だから、あの日殺してくれって言ったのに」
 返した言葉に、彼女がはじかれたように言い返してきた。
「バッカじゃないの! なんで私があんたみたいな女のために、殺人者にならなきゃいけないのよっ。どれだけ自分本位なの? 死にたきゃ自分で死になさいよっ。そんなこともできないくせに、何をのうのうと生きて笑ってるの? ピアノなんか弾いてんじゃないわよっ。あの人が今どんな生活してるか、知りもしないくせにっ!」
 捲くし立てるように吐き捨てる彼女の言葉に打ちひしがれながらも、最後の言葉にはっとした。
「征爾のこと……、知ってるの……?」
 縋るように彼女へ手を伸ばすと、その手を乱暴に払いのけられた。
「あの日からずっと、自分で探しもしなかったくせに、それを私に訊くの? ただ自分が可哀想だって悲劇のヒロインになり続けて、彼のことを探さなかったくせに。怖かったんでしょう? 彼のことを知るのが。彼がどんな姿になってしまったのか知るのが、自分がしてしまった罪を受け入れるのが、ただ怖かったんでしょうっ!」
 言い返せない。一言だって、言い返したりできない。
 彼女の言うとおりだ。私は怖かったんだ。
 征爾がどんな姿になっているのか、知ることが怖くて怖くてたまらなかった。
 ただ元気でいて欲しい。ジャズを好きなままでいて欲しいなんて、偽善者ぶったことを思って自分を庇ってきただけ。
 だからピアノに触れられなかったし、ピアノの前に行けば手が震えた。
 征爾の最悪な状態を想像して、怖くて逃げ続けてきたんだ。
 手が動かなくなっていたとしたら。寝たきりのままだとしたら。
 想像しただけで今も体中が震えだし、叫び声を上げてしまいそうになるくらい。
 同時に、目の前のこの女性が征爾のことを知っているなら、訊ねるのは今しかないとも思った。
 怖くて踏み出せなかった気持ちを奮い立たせる。
「お願い……します」
 憎しみと怒りに満ちた彼女に、深く頭を下げた。そばにいる成瀬の、息を呑む気配が伝わってくる。
「彼がどこにいるのか、教えてください」
 頭を下げたまま、彼女の言葉を待った。
「お願いします」
 頭を下げ続ける私に、彼女は何も言ってこない。
 それはとても長く、恐怖と後悔とが渦巻く苦しい時間だった。
 一分、二分。いや、もっと……。
 体感時間は、果てしないほど長く感じる。
 動き出さない時間の長さに息が詰まりそうになった頃、カツカツとヒールが鳴り、彼女が遠ざかっていくのがわかった。彼女が踵を返してしまったんだ。
 許されない。
 一生征爾に会う事も叶わず、許される事もない。
 突きつけられた現実の重みは、あの日の苦悩とは別の苦しみを宿していく。
 下げた頭を上げられないまま、ゆっくりと遠ざかるヒールの音が、何度も心臓を刺すナイフのように痛みをもたらす。
 ここで崩れ、声を上げて泣くのはたやすい。けど、それは違う。
 私は決めたのだから。向き合う事に、決めたから。
 カツカツと鳴っていたヒールが、少し先で止まった。
「あんたが殺せって叫んだあの町」
 吐き捨てるようにそれだけ言った彼女は、ヒールの音を早めて夜の向こうへと消えた。

「大丈夫か?」
 マンションまで送ってくれた成瀬が、心配してなかなか帰ろうとしない。
「大丈夫」
 頭が混乱しているけれど、おかげでさっき聞いた話にしか脳は反応していない。
 征爾があの町にいる。もしかしたら、気づかないうちにすれ違っていたかもしれない。
 元気にしているのだろうか。
 怪我の具合は、どうなったのだろう。
 今は、何をして暮らしているのだろう。
「涼音」
 声をかけられ、考え込んでいた思考が遮断される。すくそばに立ったままの成瀬を見て、スーツ姿に現実を知る。
「明日も仕事でしょ。またね」
 深夜もとうに過ぎて、電車など動いていない時間だということにも気がまわらない。
 わずかな躊躇いを残してから、成瀬にそっと抱き寄せられた。
「考えすぎんなよ」
 体を離して私を見る顔が、とても辛そうだ。
 成瀬が駅とは反対にある大通りに足を向け、踵を返す背中を見ながらやっと気がついた。
「成瀬っ」
 慌てた呼びかけに、足を止めて振り返る。
「ごめん。電車ないよね。泊ってく?」
「助かる」
 ふわりと笑みを浮かべた成瀬と共に、自宅へと帰った。
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