11.もう要らないなら

文字数 5,313文字

 離れた駐車場に止められた車内は、新しい匂いがしていた。
 芳香剤が置かれているわけでも、ガチャガチャと何か飾りがぶら下がってもいないシンプルな車内の助手席に、私は腹話術師から離れた人形のようにダラリと力なく座っていた。
 ドリンクホルダーには、あったかい缶コーヒーが置かれている。
「通りかかったら人だかりになってて、見たら物騒なこと言って泣いてる君がいたから驚いたよ」
 運転席に座った成瀬は傷ついた私の手をとり、いつの間に買って来たのか消毒液で黒くなり始めている血を丁寧に拭いてくれる。その後、不器用ながらも包帯を巻いてくれた。
 ホルダーに手を伸ばした成瀬はプルトップを引き、あたたかな缶コーヒーを私の手に握らせる。
「痛くないか?」
 包帯の巻かれた手を見たあと、エアコンに指を伸ばした。
 寒いなんて感じてもいなかったのに、握らされた缶コーヒーの温かさがじんわりと手を通して、何か心の奥まで温もりを伝えている気がした。
「荷物、あれだけで大丈夫だった?」
 後部座席には、叔父に頼まれた食材たちの入ったスーパーの袋が置かれていた。
「ありがと……」
 握らされた缶コーヒーに向かってお礼を呟く。
「なんていうか……。スンゲーやりとりすぎて、言葉が無いっていうか」
 どう話を持っていけばいいのかわからないのだろう。当然の反応だと思う。
 どこから聞いて見ていたのかは知らないけれど、殺せと叫んでコンクリートに拳を叩きつける女など、路上にいたら見て見ぬふりでその場からいなくなってもいいくらいだ。
 なのに、わざわざ声をかけてその場から連れ出してくれるのだから、かなりのお人好しなのだろう。
「あなたには関係のない事だし。忘れて」
 ひねくれた子供みたいな発言だと思うけれど、そうしていないと今まで生きてこられなかったのだから、急に素直になんてなりようもない。
「荷物、結構な量だし。取り敢えず送ってくよ。家、どこ?」
「ありがと。でも、バーでいい」
「あ、警戒してる?」
 勘違いした成瀬が、ふざけた調子でおどけている。
「別に。荷物はバーに届けるものだから」
「ああ、そういう事」
 私の返答に少し残念そうな苦笑いを浮かべ、成瀬がゆっくりとアクセルを踏みこんだ。
 車でこの雑多な街を抜けるのはなかなか面倒なようで、一方通行を掻い潜り、時間をかけて車は大通りへ抜け出す。
 こんな場所にワザワザ車で来るなんて、家でもあるのだろうか?
 僅かな疑問は浮かんでも、相変わらず興味のかけらも無い相手の事など、訊く気にはならない。
 一旦大通りに出ると、バーまではすぐだった。路駐する車内で、手伝う必要など無いという私の言葉を無視して、成瀬が荷物を持ちバーまで付いてくる。
「ただいま」
 声をかけて店内へ踏み込むと、中は無音で叔父は静かにタバコを燻らせていた。
 それは珍しい光景だった。こんな仕事をしている叔父だけれど、あの事件以来タバコを吸う姿を見ていない。
 あの事件にタバコが何の関係も無いのはわかっているけれど、叔父の中でタバコを吸わないことは、何か意味のある事なのかもしれない 。
「おかえり、涼音……」
 私以外の存在に気がついた叔父が、言葉を止める。
 後ろに控える成瀬が、こんにちはと会釈をすると気持ちを切り替えるように、叔父もいつもの笑みを浮かべて挨拶をした。
「偶然見かけて。荷物、大変そうだったんで」
 何があったのかも話さず、成瀬はいつものヘラヘラ顔をする。叔父の笑みに歓迎されたとでも思ったのかもしれない。
 調子のいい顔で、持っている荷物をカウンターテーブルの上にドサリと置いた。
「それは、ありがとうございました。まだ、開店前なのですが。よかったら一杯奢らせてください」
 叔父がビールの準備をしようとすると、成瀬が止めた。
「あ、大丈夫です。今日は車なので」
 ヘラヘラとした顔で辞退しながらも、ビールを飲めないことに少し残念そうだ。では、またいらした時にご馳走させて下さい、という叔父に満面の笑みでこくりと頷いている。
 なんて、わかりやすい。
「俊ちゃんの様子、見に行こうかな」
 成瀬の存在を無視して叔父へ訊くと、逆に気を遣って落ち着かないだろうからと止められた。
 確かに、人のことばかり考える俊ちゃんならそうなっちゃうか。お見舞いに行ったのに、お茶なんて準備されても申し訳ないよね。茶菓子さえ用意してくれそうだもん。
 元気になることを願って、無理しないようメッセージだけを送っておいた。
「当日、何か手伝うことはない?」
 そばに行って訊ねると、叔父は私の顔を切なそうな目で見たあと、僅かに首を横に振り口を開いた。
「涼音……」
 叔父は、少しの間戸惑いながら何かを言おうとしている。けれど、結局言おうとしたその何かを口にはしなかった。ただ、私の肩から腕の辺りに触れ、包帯の理由も訊かず、労わるようにゆっくり休みなさいと気を遣う。まるで、買い物中に何があったのかを、お見通しのような叔父の態度に敵わないなと思う。
 全てを理解してくれているその目を見てしまえば、子供のように声を上げて泣き出してしまいそうで目をそらした。そんな私の肩を、叔父は優しくさすり続けた。

 バーを出ると、存在を置き去りにしていた成瀬が横に並んできた。
「家まで送ってくよ」
「大丈夫。歩いて行けるから」
 私の言葉に小さく息を吐くと、路駐したままの車に戻っていった。
 諦めたのだろうと背中を一瞥してから家に向かって歩いていたら、車の通りが少ないのをいいことに、成瀬の車は私の歩調に合わせてゆっくりと徐行運転で隣を並走してきた。
 ウインドウを開いけた成瀬のヘラヘラした顔を見て、何? と眉間にしわを寄せる。
「帰れば?」
「冷たいなー。そんな顔してんの見て、黙って帰れると思う?」
 そんな顔って何よ。
 不満を露に、少し歩いたところで足を止める。
 成瀬の話を聞くためじゃない。自宅前に着いたからだ。
 バッグから鍵を取り出すと、成瀬がキョロキョロしてから車を近くのパーキングへまわしにいった。待つ理由などないはずなのに、どうしてか足を止めて成瀬がやってくるのを門の前で待ってしまう。
 ヘラヘラとした笑い顔には苛立つ筈なのに、おせっかいな今日の行動にどこか少し救われたと感じていたのかもしれない。
「お待たせ」
 弾むような足取りは、初めから約束でもしていたみたいであまりに自然だった。
「デカイ家だな」
 門を開けてアプローチを行く直ぐ後ろで、成瀬はキョロキョロとしながらついてくる。
 鍵を開けて玄関に入るなり、ひょえー。なんて、ふざけた声を上げるから、思わず睨みつけると黙った。
「家族は?」
 人の気配も、何の音も聞こえてこない家の中を眺め訊ねた。
「今は一人」
 短く説明したあとは、廊下を抜けてリビングへ入るまで二人とも口を開かなかった。リビングのドアを開けると、ひんやりとした空気があたりを埋め尽くしていた。
「寒いな」
 成瀬は小さく零して、どうしていいのか分からずリビングの途中で立ち止まっている。
「座れば」
 革張りのソファに視線だけをやり促すと、恐る恐るというようにソファに座ったあと、座り心地よすぎたろ、と言いながら上着を脱いでいる私を振り仰いだ。
「君って、お嬢なの?」
 ぐるりとリビングを見回し、高そうなものばっかだな、と興味津々だ。
「別に」
 自分が稼いできたお金で買った家に、家族で住んでいただけのこと。お嬢と言うより、成金に近いかもね。
 嘆息しながら床暖のスイッチを入れた。
「家族は?」
「海外」
 短い質問に短く答え、冷蔵庫にあるビールに手を伸ばしてから、考えてペットボトルの水を手にした。
「泊めてくれんなら、アルコールでもいいよ」
 いつの間にかキッチンに来ていた成瀬は、冷蔵庫の中を一緒に覗きながらにんまりと笑みを作っている。
「お好きに」
 冷蔵庫のドアを開けたまま水は元に戻し、自分の為に缶ビールを手にしてソファに座った。
 同じように缶ビールを手にした成瀬が、素っ気無い態度など気にも留めていない様子で、少し距離を開けて隣に腰けた。
 成瀬は缶ビールのプルトップを開けると、相当喉が渇いていたのか音を立ててグビグヒと体内に流し込んでいる。
 一息に半分ほども飲んだだろうか。缶から口を離すと、ふぅと息を吐き背もたれに寄りかかった。
 それから、隣にいる私を窺がうように話し出す。
「今日の女の人。知り合い……じゃあないよな」
 独り言みたいに呟いて、またビールをゴクリと一口飲む。
 あれだけの騒ぎを起こしたんだ、何があったのか訊きたいのは解る。けれど、話す気なんてさらさらない。
 過去の話を一から話したところで、もうどうにもならない。話してどうにかなるのなら、とっくにべらべらと周囲に吹聴してまわっている。
「向こうは、よく知っているみたいだけどね」
 皮肉な顔で嘲笑を浮かべビールを喉に流し込むと、炭酸のひりつく痛みに顔が歪んだ。
 コチコチと規則的に時を刻む時計は、昼時をとうに過ぎていた。買い物に時間をかけたつもりはないから、路上でのやりとりが思いの外長かったのかもしれない。それとも、車内に居た時間が長かったのだろうか。
 過去の出来事に気持ちを弄ばれて、知らぬ間に時間は過ぎていく。
 あの女は、私の存在をどうしたいのだろう。あんなことをしたのだから、憎いのは当然だろう。なのに、私を殺してはくれなかった。
 私が彼と同じようになれば、満足するのだろうか。
 ほら、みろ。当然の報いだと、そうなった私を見て満足するのだろうか。
 知らず溜息を零しそうになったところで、隣から空腹を訴える間の抜けた音が聞こえてきた。
「なんつーか、朝からなんも食ってなくて」
 成瀬は、やはりヘラヘラと笑う。
 別の種類の溜息を零して立ち上がり、無言でキッチンへ行くと成瀬もあとをついてきた。
「なんか作ってくれんの?」
 期待した表情は子供みたいで、とにかく鬱陶しい。
「残念だけど」
 振舞えるようなものなんか、作れやしない。
「あー、確かに。この中身じゃなんもできないか」
 冷蔵庫を勝手に開けた成瀬は、缶ビールや加工品くらいしか収まっていない冷蔵庫の中を見て苦笑いしている。
 そうじゃない。冷蔵庫にある中身の問題じゃなく、元々料理なんかできやしないんだ。
 幼い頃から指をいたわり続けていたせいで、親から包丁なんて持たせてもらえるわけもなかった。
 おかげで、今ではせいぜいがカップ麺にお湯を注ぐか、買ってきたお弁当や惣菜をレンジで温めるのがいいところだ。
「あ、チーズあるじゃん」
 缶ビールの陰に押しやられていたチーズの塊は、少し前に叔父から貰ったものだった。
 嬉しそうに手にして渡されるものだから、仕方なくスライスでもすることにした。
 お皿を出し、殆ど使われた形跡のないまな板と包丁を手にしたところで手が止まる。
 艶やかに光る鋭い刃は、切れ味がいいことを物語っていた。それを見つめているうちに、気がついたんだ。
 キッチンで料理などしないから今まで考えつきもしなかったけれど、なんだ、簡単なことじゃない。このまま、指を切り落とせばいいんだ。きっと、指のなくなった私を見て、今日のあの女も喜ぶだろう。
 二度と弾けないと嘲笑い、手を叩き歓喜の声をあげるんじゃないだろうか。
 ライトに光る刃先を見つめ、チーズの代わりにまな板へ置かれた自分の指を見つめる。
 長く細い指がピアノには最適だと、いつだったか母が知人へ自慢げに話していたことを思い出す。そう、彼も羨ましいと言っていた。
 僕の指は少しゴツゴツとし過ぎだからと私の手を取り、大切なものを扱うみたいに優しく包み込んでくれた。
 けど、もう誰もこの指の事など自慢にもしないし、包み込んでもくれない。寧ろ、こんな指などなくなることを望む人の方がずっと多い。
 だったら……。
 刃先の輝きに目を奪われながら、必要のない指へと近づける。
 もう、こんな指、要らない。
「何やってんだよっ!」
 烈火の如く近くで怒鳴られ、握っていた包丁を奪い取られた。
「やっぱ、ついてきてよかった」
 奪われて手元からなくなった包丁の行方を目で追うと、成瀬の哀しげな視線が私を見ていた。
「バーに戻った時は、少し元気になったと思ったけど。外に出たらまた死にそうな顔してっから、このままほっといたら死ぬんじゃないかって。そんな奴、一人になんかできねーし」
 呆れたように不貞腐れたように、成瀬が包丁をキッチン戸の内側に戻してしまった。
「あんたほっといたら、明日のニュースにでも載りそうで。マジ、洒落になんないって」
 君なんて言っていた呼び方があんたになっていて。必死に私のことを叱る成瀬の瞳が、哀しげにゆれていた。
 あんたなんて呼ばれることが、今の私には合っている気がした。
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