27.再会

文字数 3,543文字

 勝ち誇っているようで、更には攻撃的な瞳は相変わらずの女性は、私を憎しみの感情でしか見ていない。
 高校生に促されドアの中に入ったものの、帰れと言われる気がして構えていたところへ、どうぞと簡潔に言われて驚いた。
「入会希望なんでしょ」
 さっきの男子高校生の言葉を、真に受けているわけじゃないだろう。不満そうな声から、そんなことでも言わなければ私たちを又罵倒し兼ねないのかもしれない。
 女性の後について、中に踏み込んだ。パーテーションの向こう側へ行き最初に目に付いたのは、ギターを抱えている生徒だった。
 十代だろうか、女の子だ。自分の体よりも大きなギターを抱えて、弦を覗き込むようにして必死に弾いている。そのすぐそばにはピアノがあって、他に人はいない。
 征爾は……。
 姿を探して首を巡らせた瞬間、左奥にあるパーテーションのドアが開き、懐かしい声と共に征爾が現れた。
「入会希望ですか?」
 何の疑問もなく訊ねながらこちらに向かっていた征爾の足は、私のことをマジマジと見て確認した直ぐあとにゆっくりと止まり、視線を泳がせてわずかに俯いた。
 拒絶……。
 瞬時に浮かんだのは、探し出してまで訪ねてきてしまったことへの後悔だった。
 さっき震えた手が、又小刻みに動き出す。
 後退りそうになった瞬間。
「こんにちは」
 成瀬が震える私の手を握り、征爾へ屈託無く挨拶をした。止まっていた彼と私の時間が、成瀬の声で動き出す。
「えっと……、入会希望じゃ、なさそうだね……」
 征爾の応えた声が震えている。視線が合わない。
「ナミちゃん、コーヒーいいかな」
 私たちの後ろにいた女性が、大きく溜息を零した。客扱いしたくないのだろう。
「二つ、毒入りにしておきますね」
 冗談とも取れない返しをして、給湯室があるのか、彼の出てきたドアとは逆の方へ向かっていった。
「こちらへ」
 ナミちゃんと呼ばれた女性が給湯室へ向かうのを確認してから、征爾は今でてきたドアの向こうへ私と成瀬を促した。
 彼の後に続いて中に入れば、人口だろう革張りのソファがあり、勧められるままに成瀬と並んで腰掛けた。木目のテーブルを間に挟んだ向かい側に同じ作りのソファがあり、征爾も座る。
 座ったときにソファからため息をつくような圧が漏れて、お互いの感情を肩代わりでもしているみたいだった。
 案内されて座ったけれど、いざ征爾を目の前にすると、ジリジリと攻め立ててくるような無言の時間に、どう言葉を切り出せばいいのか考えようとしても頭が真っになっていた。
 さっき視線を逸らされてしまってから、怖くて目の前の征爾を見ることができず、俯き加減で今日一日中歩いてきた靴を見ていると、ノックがしてナミちゃんと呼ばれていた女性がコーヒーを持って入ってきた。
 彼女は、私たちの前にそれぞれコーヒーを置いただけで、特に何か言うわけでもなく立ち去ろうとする。彼女が部屋を出てドアを閉める寸前に、征爾のことを呼ぶ声がかかった。
「せんせー! ここできないっ!」
 ギターを弾いていたさっきの女の子だろうか。癇癪を起こしたように、征爾のことを先生といって呼んでいる。
「ちょっと、すみません」
 先生と呼ぶ生徒の声に征爾が席を立つ事で、気持ちを落ち着けられると安堵した。席を外しながら、征爾がドアに手をかける。
「コーヒーどうぞ。……あ、毒なんて入ってませんから」
 わずかに冗談が混じり、やっと少しだけ肩から力が抜ける。ドアの閉まる音を聞いてから、成瀬がコーヒーに手を伸ばした。
「毒味」
 笑いながら口にしている。
「大丈夫」
 顔を見て笑うから、私も笑えてきた。
 成瀬のおかげで、征爾の座っていた場所から漸く部屋の中を少しずつ見る余裕が出てきた。
 窓際にあるデスクにはパソコン。右の壁一面には、昔よく見た彼のギター達がいくつか並んでいる。よく愛用していたアコースティックギターもあって、少しの間眺めていた。あの頃と変わらず、ボディもネックも綺麗なままで、とても丁寧にあつかわれている。
 棚には譜面らしきものが整然と並んでいて、背表紙を見れば初心者向けのものもあるから、生徒用なのだろう。
 パーテーションの向こうからは、生徒に呼ばれていった征爾との会話が聞こえてくる。指の位置や運び具合を、穏やかな声音で生徒へ丁寧に教えている。それでもうまくできなくてすねている生徒を、笑いながら鼓舞している。
 変わらないな。順を追って丁寧に話すところ。
 あの頃、私にも同じようにジャズの説明をしてくれた。
 クラシックとジャズの違い。拘りながら、崩していく作業。それから、楽しむ事。
 思い出に自然と目尻が下がる。
 コーヒーが半分ほどになった頃、征爾が戻ってきた。どうやら生徒は、帰ったようだ。
「お待たせしてしまって、申し訳ありません」
 他人行儀な言葉と共に、征爾がもう一度ソファに腰掛ける。
 自分の経営している教室なのに、やたらと恐縮している征爾に、成瀬がくだけた調子で話しかけた。
「コーヒー、大丈夫でしたよ」
 カップを持ち上げて冗談を言ったことで、征爾が笑った。
「よかった」
 にこりとした表情には、以前になかったシワが少しだけ伺えたけれど、それ以外は何も変わらない。声も仕草も話し方も、全部があの頃の征爾のままだった。
「久しぶりだね。涼音」
 一度席をはずしたことと、成瀬の冗談が効いたのか、征爾もやっと私のことを見てくれた。
 征爾が私の名前を口にする。あの頃何度も呼ばれていた名前を、やっと又聞くことができた。それだけで胸がいっぱいで、涙腺が緩んでしまう。
 涙の量が増す前に、一度拳を強く握り眉間の辺りにコツンと軽くぶつけ気持ちを落ち着かせようとした。
「席、はずそっか?」
 私の様子に成瀬が気を遣って立ち上がろうとしたから、一人で征爾と話すことが不安になり急いでその手を掴む。
「いて」
 すがるような目をしてしまったのだろう。成瀬が切ない顔をしながらも、隣に留まってくれる。その様子を確認してから、征爾が口を開いた。
「いつか、訪ねてくるだろう。そう思っていたよ」
 息を整えるようにしてから、征爾が話し出した。
「ナミちゃんに、何か聞いてるかな」
 聞いているというよりも恨み言をいくつか、とも言えず黙ってしまう。
「あの頃の事を思い出せば、楽しい事の方が多い。涼音に出会ってからの僕は、本当に生き生きとしていたと、今でも思うよ」
 バーでセッションしていた頃の事を思い出しているのか、征爾が頬を緩めた。
「おじさんは、元気にしていますか? あと、彼も。俊くん」
「二人とも元気。俊ちゃんは、また料理の腕をあげたよ。叔父のビールは相変わらず評判」
「うん。美味しかった。おじさんのビールは、いつも楽しみだったな。涼音と音を奏であったあとには、いつもあのビールが最高だった」
 征爾はすっかり冷めてしまったコーヒーをビールの代わりみたいに口にすると、また少しの間口を閉ざしてしまった。
 沈黙は、さっきまで思い出に浸っていた心の余裕を徐々に奪っていく。
 私は征爾がいつ話し出してもいいようにと、唇の動きに注目していた。
 キュッと結ばれた口元は、頑なに何かを拒むような堪えているような、説明のつかないかすかな動きをするだけで、なかなか次の言葉を発しない。
 見つめていた唇から、ひざの近くで組まれた手に視線を移すと、シャツから見える手には特に傷跡は確認できなかった。
 時間の経過で、傷跡は綺麗に消えたのかもしれない。
「ギター、弾けるようになっていて良かった」
 傷がなかった事に安堵して、ついポロリと言葉がこぼれると征爾の手がピクリと動いた。
「うん……」
 征爾が小さく頷く。
 必死に何かを考えるようにしてから、やっとというように声を絞り出した。
「涼音は、……その。僕がジャズをやめた事を、なんて聞いているのかな」
 なんて?
 どうして彼がそんな事を訊ねるのか、理由がわからなかった。事故のせいで右手が使えなくなったと聞いていたけれど、ほかに何かあるの?
「どうして?」
 訊かれる理由が単純にわからず問い返すと、征爾は小さく息をつき顔を上げ私の目を見つめる。
「いや……うん……」
 言葉を濁すと、又キュッと口を結んでしまう。
 何かを言おうとしているはずなのに、征爾の口は重くなかなか言葉になって出てこない。根気強く待ち続けていると、声を震わせた征爾が言葉を零した。
「涼音。ごめん……。本当にごめん」
 頭を下げる征爾に、私は何をどう言えばいいのか全く分からなくなっていた。
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