7.話くらいなら

文字数 3,277文字

 目の前に置かれたカップから、ゆるく湯気が上がっていた。周囲に座る何組かの客にはカップルが多く、顔を必要以上に近づけて幸せそうに語り合っている。
 窓辺のカウンター席では、イヤホンで外界の音を遮断した何人かがタブレットを開いたり読書をしていた。
 そんな中、名前さえも知らない赤の他人のこの男と、向かい合って座る不自然さに溜息が止まらない。
 だいたい、店に入り席に着き。コーヒーのカップが目の前に現れてから、この男は何も言葉を発しないのだ。
 話があるからここに来たんじゃなかったの?
 ストーカー並みに人のことつけ回しておきながら、いざ目の前に来たら無言て、一体何を考えてんのよ。
 不満も露わにどういうつもりなのかと訊ねようとしたけれど、またあのヘラっとしたイラつく顔を向けられたら、目の前にあるまだ熱いコーヒーをぶっかけてしまいかねないのでやめた。
 男はカップのコーヒーをゆっくりと口へ運ぶと、コトっとテーブルに置いてまた黙る。まるで拘りのコーヒー専門店で、一杯千円ほどでもしそうなコーヒーを堪能してでもいるみたいだ。
 せめてここが純喫茶なら男のこの行動にも納得できたかもしれないが、このカフェには申し訳ないけれど、けして唸らせるほどのコーヒーではない。
 周囲のざわつきと店内に流れているクラシックがあるから、全く静かなわけじゃない。だけど、無言でいられると居心地の悪さも手伝って、私達の席の周りだけが酸素の薄い箱の中にでも閉じ込められたような錯覚に陥る。
 息苦しいったらない。
  コーヒーが半分くらいになったところで、さすがにしびれを切らせた。
「話がないなら帰る」
ガタッと音を立てて椅子から立ち上がると、慌てたようにまた手を掴まれ止められた。
「ごめんっ、ごめんっ。待って、ちゃんと話すから」
 慌てた彼も同時に席を立ち、帰らせないようにと必死だ。
 全くなんなのよ。
 また溜息を零して再び席につくと、今度は直ぐに手を放してくれた。
 席について、苛立ちを押さえ込むためにコーヒーを口に含む。
 こんなにマズイコーヒーを飲んだのは初めてだ。そう感じるのは、絶対に目の前にいるこの男のせいだ。
 苛立ちを抱えながら、話しがあるならさっさとしてよ、とばかりに彼を見た。
「想像してたんだ」
 噛みしめるような口調で、それでいて遠く何かを思い出すような瞳で話し出した。さっきまで見せていた感じの悪いヘラヘラした顔はなりをひそめ、今までと違いすぎる穏やかで優しい顔に少しばかり驚いて、思わず視線をカップへと落とした。
 何を想像してるっていうのよ。
 どうせ碌でもない事だろう、と睨みつけてやればいいのに、どうして今目を逸らしてしまったのだろう。
 今まで抱いていたイメージが悪すぎて、同じ人物に思えないから? それってなんだか悔しい気がする。
 空のカップに手を添えたまま、さっき見た穏やかな表情が脳内を巡る。
 今目の前に座っているのは、実はバーに居たあのサラリーマンじゃないとか?
 ふっ。何を言ってるのか。
 つまらない冗談に自分自身を嘲笑う。
「君が、あのバーにあるピアノを弾いたら、どんな感じなんだろうって想像していたんだ」
 男の表情は、夢見心地とでも言うのだろうか。相手がこのヘラッとした男ではなく可愛らしい女性だったなら、その夢心地の顔にも納得がいくのだけれど、相手が相手だけにそんな事を想像していたのかと訝しみ顔が歪む。
 勝手にあの凛としたピアノの前に座らせて妄想していたなんて、今の私にしてみれば趣味が悪過ぎる冗談だ。
 それでもヘラッとしたふざけた感じが微塵もない語りに、自然と視線をあげて話を聞いてしまう。
 目が合うと声と同じで、目の前の男はさっきのまま穏やかな表情で私を見ていた。その瞳が心の奥にある何かにそっと触れた気がしたけれど、気のせいだとその感情に目を逸らす。
「クラシックなんて少しもわからないけど。ほら、今流れてるこの曲。えっとこれは誰だっけ?」
 本当に解らないのか、思い出せないだけなのか。必死に思い出そうとする姿に、思わず口を開いてしまった。
「ショパン」
「そっか。これがかの有名なショパンか」
 かの有名ななんてふざけた言い方だったけれど、本人はいたって真面目なようで茶化している風には見えない。寧ろ穏やかなその表情で、ショパンの名前を口にされると嫌な気はしなかった。
「ショパンのノクターン。とても綺麗なメロディーライン。私は、嫌いじゃない」
 自分の事を話す気なんて少しもなかったはずなのに、気がつけば自然と感情を口にしていた。
「俺も」
 目じりを垂らし穏やかに微笑みながら、目の前の彼がノクターンへ耳を傾ける。それに倣うように、私もノクターンを聴き入った。
 そうやって少しの間、流れるノクターンが終わるまで耳を傾け、彼は残り少ないコーヒーを味わっていく。
 ショパンが静かになり他の曲にかわると、男がそれを機に口を開いた。
「切っ掛けが欲しかったんだ」
 男の言葉に視線を上げて顔を見た。
「何度か通ううちに、いつも同じ席に座る女性に気が付いた。席を立って近くを通るたびに、高校生みたいにチラチラ横眼で見て気にして」
 クシャリと恥ずかしそうに笑うと、上目遣いに伺い見ている。その仕草が本当に学生みたいで、自分までなんだかその頃の青い感情に引き戻されていく気がした。
「髪の毛かなぁ。いい匂いするとか」
今度は、開き直ったように笑っている。
「グラスを握る指が、すっと長いのがとても目についていて。絶対何か楽器が弾けるはず。ピアノかな。バイオリンかな。なんて勝手に想像してた」
 カップに手を伸ばし、空になっているのに気が付いて引っ込める。
「俺はさ、 ロックやポップスは聴くけど、クラシックなんて遙か遠い世界のことで。楽器だってなんも弾けないし」
 肩をすくめてから、楽器弾けるって憧れだよなぁなんて笑った。
「だから余計に興味が湧いた。あのバー、ピアノがあるのに誰かが弾いてんの見たことないなって思ってたし。あのカウンターの彼。前は弾いて居たなんて言ってたしさ。それって、もしかしたら君なんじゃないかっていう想像もした。だから、次にまた会えたらなんでもいいから話しかけて、ピアノ弾いてもらいたいって。あ、バイオリンだったらどうすっかなぁなんてのもチラッと考えたけど。まー、そん時はそん時でみたいな」
 性格なのだろう、最初の時のようにヘラヘラとはしないものの、いい加減なところは否めない。けれど、楽しそうに話す表情には、憎めないものもあった。
 言いたいことを言い終えたのか、ふぅーと息を吐き出すと、やっと話せたとばかりにスッキリとした顔をしている。
 お互い、カップのコーヒーはとっくに空だ。時刻は深夜を過ぎている。男の話は聞いたし、充分だろう。
「じゃあ、私はこれで」
 空のカップを下げるために手に持ち、バッグも持って立ち上がると、目の前では唖然とした顔が私を見上げて固まっている。
 そのまま歩き出すと、あわてた声がかかった。
「えっ、ちょ、ちょっと待って」
 ガタガタと派手に音を鳴らして椅子から立ち上がると、追いかけるようにして声をかけてきた。
「俺の話、聞いてた?」
 それに頷きを返す。
「だったら」
「だったら?」
「なんつーか、ショパンでお互いいい感じになったし。普通は、ここで意気投合ていうか。じゃあ、今度はピアノを弾くよとか。連絡先交換とか、食事なんてどうとか」
 慌てて付け足す姿は、やっぱり学生のようで面白すぎる。
「悪いけど。ピアノを披露する気もないし、連絡先を教える気もない」
 きっぱり言い切ると、彼の口は半開きになる。
 なんて、間の抜けた顔だろう。
 それから、本気で? という意思ありありで呟きを洩らした。
「マジで?」と。
 驚きを隠そうともしないその顔を一瞥しただけで、一人可笑しさをかみ殺しながら深夜のカフェを後にした。
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