13.奪ってしまった過去

文字数 8,833文字

 休日に、特に何かするなんてことはほとんどない。家に篭って父の書棚にある本を読み漁るか、ケーブルテレビで映画を観るくらいだ。
 出かけるにしてもバーの開く時間を待って、琥珀を飲みに行く。それだけ。
 だからと言って、二日酔いから回復し未だソファに座り寛いでいる成瀬と、いつまでも一緒というのも……。
 そもそも、この男とこんなに近しくなる予定など全くなかったのだ。寧ろ、過去を知っているかもしれないと警戒すらしていたくらいだというのに、私は一体何をしているのだろう。
 昨日路上で繰り広げた諍いごとに対して、成瀬はよく分からないと言っていた。その顔は、強ち(あながち)ウソをついているようには見えなかった。だとしたら、私の過去を本当に知らないのだろうと思う。
 自意識過剰なだけで、私の過去になんて端から興味などなかったのかもしれないけれど。
「涼音さん」
 名前を呼ばれて反射的に振り返ってから顔を顰めた。
「あれ? 名前、涼音さんだよね?」
 確かにそうだけれど。勝手に下の名前で呼ばれたことにムッとなり、一夜明けてヘラヘラ顏の復活した成瀬を睨みつけた。
「あ、さん付けじゃないほうが良かったかな? 涼音ちゃんとか? 涼音とか?」
 そうじゃないと訂正するのも億劫で、好きにしてくれとばかりに深いため息をこぼす。
「どっか出掛けない?」
 ため息に気づいているのかいないのか、成瀬はどう? と私の様子を窺っている。
 ソファに座って根まで生えていそうな私の落ち着き具合に諦めてくれることもなく、返事を待っている姿は飼い主からの餌を待つ犬のようだ。
 ペットなど飼ったことなどないのたから、満面の笑顔を向けられても困る。
 一瞥しただけで、黙ったまま応えないでいると、今度は別の提案をしてきた。
「じゃあ、いつものバーなんてどう?」
 得意げな顔をしているけれど、何が彼をそうさせているのか少しも理解できない。
「こんな昼間からやってるわけないでしょ。それに、今日は貸しきりのパーティーがあるから無理」
 そう成瀬に説明すると、俊ちゃんの具合がどうなったかが気になった。
 じゃあどうしようかな? と、真剣な顔をして考えこんでいる成瀬を置き去りにして、スマホを片手にリビングを出た。
 呼び出し音を聞きながら、近くのドアに手を伸ばして中へ滑り込みドアを閉める。入ってすぐに目につく、大きなグランドピアノから視線をそらして足元を見ていると、電話は三コールで繋がり、元気な声が聞こえてきた。
「涼音さーん。昨日は、ごめんなさいっ」
 開口一番、買い物に行けなかったことを謝られて、そんなつもりで掛けたわけじゃないから、と慌ててしまう。
「私は良いけど、俊ちゃんは? 体調どう?」
「心配してくれるんですか~。嬉しいなぁ。やっぱ、涼音さんは優しいなぁ~」
 ふふなんて笑みを漏らす俊ちゃんに、こちらまで頬が緩む。
「もうね、元気元気。早めに病院行って正解でした。明日大事な仕事なんですっ。て先生に無理言って点滴打ってもらったら、あっという間ですよ」
 はしゃぐようにして話す声の感じからは、確かにいつもの俊ちゃんで少しほっとした。
「今日のパーティー、何か手伝えることはない?」
「大丈夫ですよぉ~。涼音さんは、せっかくの休日ですから、ゆっくり体を休めてください」
 俊ちゃんの気遣いは、やっぱり鉄壁だ。
でも、今日はゆっくりと休むより、できればバーで手伝いをしていた方が成瀬から離れられるから助かるのだ。けれど、俊ちゃんの元気なテンションが手伝いは無用だと言っているので、諦めることにした。
 無理しないでね、と言って俊ちゃんとの会話が終わると、それを待っていたみたいに成瀬が背後に現れる。
「探したじゃん」
 防音になっているこの部屋のドアは閉めたはずなのに、たどり着いたという事は、ここへくるまでに他のドアも開けたということか。
 見られて困るようなものなどないからいいけれど、遠慮がなさ過ぎやしないか。
「彼氏?」
 訊ねられて、バカじゃないのと返したらケラケラ笑っている。それから、真っ直ぐ足を向けたのは、グランドピアノだった。
「凄いね、このピアノ。本格的」
 おもちゃを与えられた子供みたいに目をキラキラさせると、近くに寄って薄らとかぶる埃に何を思ったのか知らないが振り返る。
「誰も弾かないの?」
「弾かない」
「涼音が弾けばいいのに。こんな凄いの、勿体無いじゃん」
 どうやら名前は呼び捨てにすることにしたらしい。躊躇いなく人の名前を呼び捨てて、触ってもいいかと伺うようにしている。バーでの事を、少しは反省しているみたいだ。
「どうぞ」
 許可が下りると、慎重な手つきでそっと鍵盤の蓋をあけ、ウールのキーカバーを丁寧に取ってから椅子に腰掛けた。
 艶やかに光り並ぶ白と黒に、小さな子がするみたいに人差し指一本で鍵盤を押すと、ソの音が小さく鳴った。正確には調律をしていないから僅かにずれているのだけれど、成瀬は気がつかない。
 次ぎにラの音を押してから、キラキラした目で入り口付近に立ったままの私を振り返る。
「なんか弾いてよ」
 幼稚園児が、先生におねだりでもしているみたいな顔だ。
 こういうのを無邪気っていうのだろう。そんな彼に嘆息しながら腕を組む。
「弾かないって言ってるでしょ」
「なんで?」
 素朴な疑問なのかもしれない。家にグランドピアノまであるのに、弾かない理由はなんなのか? そのくせジャズバーに夜毎通う女が、どうして弾きたがらないのか。
「弾けばいいのに」
 しつこいと、一蹴すればいいのかもしれない。けど、あんな場面まで見られ、町では助けられもして、このまま黙っているのも納得しないだろう。
 この先何度も弾けとせがまれるよりは、話して諦めてもらった方がいい。理由を聞いたら、イヤでも納得するだろう。
 表情で成瀬を促し、無言で部屋を出て隣の部屋へと移動した。
 成瀬も後を追ってついてくる。
 移動した隣室には、たくさんの楽譜とレコードやCD・オーディオセットが置いてある。
「何この部屋。凄いな」
 本当に驚いているのだろう。うわぁ、というように並ぶたくさんのそれらを見回している。
 その中から一枚のCDを成瀬に手渡すと、ジャケット写真に写る人物を見てから彼が目を見開いた。
「えっ! あ、これって?」
 ジャケットに写る人物と私の顔を何度も見比べる成瀬は、面白いほどにいい反応をするから思わず笑ってしまった。
「うちは、よくいる音楽一家なのよ。気が付いた時には、ピアノの前にいて鍵盤を叩いていた。そして、気がつけば幼き天才ピアニストと呼ばれていた。幼さから卒業する頃には、天才美人ピアニストになってた」
「あ、美人ての自覚してるんだ」
 からかう成瀬に小さく息を吐く。
「違うよ。こういうのには、必ず“美人”ていうのがつくことになってるの。週刊誌や何かでよく目にするでしょ。客寄せパンダ的な、ただの枕詞よ」
 笑って肩をすくめ、置かれている二人がけのソファを勧めた。私は、棚に寄りかかるようにして立つ。
「どうしてピアノを弾くのかなんて、考えるのは無意味とばかりに、とにかく毎日がピアノ漬けだった。そしたらさ、なんのために弾いてるのか急に解んなくなっちゃてね。長年やってるとよくぶつかる壁ってやつよね。ずっと聴き続けてきたクラシックも、好きなのか嫌いなのかもわからなくなるし。実はピアノだって好きじゃないのかもってね。だって、気がついたら目の前にあって、好きか嫌いかを考えることもなく、ずっと与え続けられてきたのよ。ピアノに関係するもの以外全て切り捨てられた中にいたら、疑問を感じてもおかしくないでしょ」
 その頃の感情が甦り、少しだけ語気が粗くなったことに気がついて、一旦息をついてから又話す。
「しばらく引き篭もりになって、長いお休みをもらったの。両親が取り乱してもお構いなしに、ピアノもクラシックも拒絶した。業界やメディアからは、いいように言われたわ。スランプだとか、お金が入っておかしくなったとか、薬に手を出しているだとか、家族の間には以前から確執があったとか。何も知らないのに、然も全てみて来ましたとばかりに言いたい放題よ。父や母も関係者から叩かれて嫌な思いをしたんでしょうけど、そんなことはどうでもよかったの。今思えば、ピアノや音楽を与えられることの意味を、両親の口からちゃんと説明して欲しかったんだと思う。ただそれが当たり前だからと、強引にピアノの前に座らされるんじゃなくて、ピアノの素晴らしさや楽しさを、両親から教えて欲しかったんだと思う」
 成瀬に話していく事で、今まで気がつかなかった自分の気持ちに少しずつ気がつき初めていく。自分が求めていた答を両親から貰えなかったことに、私は不満を抱えていたんだと。
「当然のように、両親は呆れてしまったわ。そりゃそうよね。有名なピアニストにするために今日まで育ててきたのに、突然逃げ出しちゃうんだもん。怒って当然よね」
 過去のことを思い出し、嘲笑交じりの溜息が漏れ出る。
 きっと、私たち家族には、会話がなかったんだ。ピアノを弾かせるための言葉はあっても、どうして弾くのかの会話がなかった。そして、ピアノやクラシック以外の会話も。
「契約している事務所に連絡して、強引にお休みを貰ったまではよかったけど。引き篭もって家にいるって事は、結局ピアノもクラシックもすぐそばにあるってことなのよ。家族自体が音楽一家なんだもの。耳を手で塞いだくらいじゃ、ピアノの音からもクラシックの音楽からも逃れられなかった。おかげで家に居ることすら苦痛になって、叔父のいるバーに通うようになったの。初めは身内って事で、いる場所を貰いながら無償で手伝いをしてみたり、カウンターに座って覚えたてのお酒を飲んだりしてた。バーで当たり前に流れていたジャズをなんとなく聴き流して、常連さんと仲良くなったりしてね。今では好きなジャズだけれど、クラシックしか聴いてこなかった当時は、店内に流れていたジャズは右から左に流れていくだけだったの。ほんと、聴き流してたんだ。もったいないよね。叔父は、少しはみ出し者のところがあって、うちはみんながみんなクラシックにとりつかれていたのに、一人だけジャズにのめり込んだ人なの。だからといって私にジャズを無理強いなんてしてこなかった。だから余計に居心地がよくて、毎日のようにバーへ通い、右から左へジャズを聴き流し。よくやってくる常連さんたちと仲良く話しをしたり、俊ちゃんとも仲良くなって、クラシックから少しずつ離れていったの。毎日は、ただ何事もなく、穏やかに過ぎて行ったわ。びっくりするくらい、本当に何もなくね。でも、不思議なもので。しばらくピアノに触らずにいたら、中毒症状みたいなものに襲われてきたの。あんなに弾く意味なんか少しもわからないって言って逃げてきたのに、バーにあるピアノへつい目が行っちゃうの。けど、なんて言うのかな。意地? みたいなのもあったんだと思う。盛大に啖呵切ってピアノから逃げてきた手前みたいなのがあって、そうそう簡単にもう一度触れられないっていう、つまらないプライドね。私はピアノなんか嫌いなんだって。クラシックなんか、二度と聴かないって。両親の思い通りになんて、絶対にならないってね。今更事務所に頭も下げられないし。そんな葛藤に苛まれていた時、彼がバーに現れた」
 寄りかかっていた棚から離れて奥の棚へ行き、今度は別のCDを手に取り成瀬に渡した。
 成瀬は、ジャケットに映る人物を見て首を傾げている。
「ジャズギタリストの川端征爾(かわばたせいじ)よ」
 名前を出すと、僅かに間を空けてから、へぇ~……。と零している。
 CDのジャケットに映る征爾をマジマジと眺め続ける成瀬は、何か気難しい表情だ。名前を聞いても分からないのか、次の言葉を待っている。
「その人、結構有名なのに」
 笑って教えると、ヘラヘラとしながら、知らなくてごめんと苦笑いを浮かべている。
 そんな私も、初めはよく知らなかったけれどね。
 ジャズ界の川端といえば、その世界では一目も二目もおかれていた。彼のギターを聴く為なら世界中のファンは、全てを捨ててでも聴きにくるというほどの才能を持っていた。
 彼のギターに酔いしれた人は、数え切れないくらいいる。そんな彼に偶然にも巡り会った私は、本当についていると思った。
「彼、偶然あのバーに来たの。初めは何かの打ち合わせできていたみたいだけれど、叔父のバーを気に入ってくれて、そのあとも個人的にお忍びで度々来るようになってた。そのうちにあなたと一緒で、ピアノと私の存在が気になったみたい。といっても、彼は私を見た時から、知っていたみたいだけれどね」
 成瀬の持つ彼のCDを受け取り、静かに棚へ戻す。
「何度目かの時、最近、活動してないみたいだね。彼が私にそう話しかけてきたの。さっきも言ったけれど、ずっとクラシック一筋だったからジャズの関係者なんてよく知らなくてね。話しかけられても、何この人? って無視したの。酷いよね。けれど、彼は怒ることもなく、穏やかな瞳をみ向けてくれた。私が壁にぶつかって身動きできなくなっていることが、彼にはバレバレだったの。彼に言われたの。クラシックだけじゃないよって。音楽にはジャズだってある。そう言って、あのバーの片隅に置かれたピアノの前に彼が座った」
「弾いたの?」
 頷きを返す。
「でも、その人ギタリストだよね」
「そうね。だから、けしてプロのように上手くはなかったけれど、それでも楽しそうに弾くのよ。指先を命一杯弾ませて、笑顔でビル・エヴァンスの曲を弾いたの。今にもあのバーの中で賑やかなパーティーでも始まるんじゃないかってくらいに楽しそうに弾くのよ」
 今でも思い出す。本当に衝撃的だった。
 私は今まであんなに楽しくピアノを弾いたことがあっただろうかって、頭をガツンと殴られたみたいにショックだった。
 そして、涙がこぼれた。
「彼に出会ってしまった私は、親の反対を押し切ってジャズにのめり込んだの。彼にたくさんの曲を教えてもらって、あのバーで何度もセッションしたわ。彼、事務所には内緒だよって。私よりも年上なのに子供みたいに笑うの」
 とても可愛らしい人だった。目を閉じれば、今でも彼のくすぐったそうな笑顔が浮かぶ。
 同時にあの苦痛に歪んだ顔も……。
「えーっと、その。ビル何とかって、有名な人なの?」
 話す内容についていけなかったようで、成瀬が申し訳なさそうに訊ねる。
 そうか……。そこも解らないのね。
 肩を竦め、一枚のレコードを成瀬に渡した。
 ビル・エヴァンスとジム・ホールの貴重なレコードは、征爾が私へとプレゼントしてくれたものだった。ジャズを好きになってくれた記念にと言って、征爾がくれたんだ。
 君は、ビルに似ていると。
 何も知らなかった私は、その時とても嬉しく思った。こんな素晴らしいピアノを弾く人物と似ているなんていわれて、光栄にさえ思った。
 けれど今は、似ているといわれた意味が心に突き刺さる。彼と同じように、私も落ちていくのかも知れない。
「私ね、彼からギタリスト生命を奪ったの」
「え……」
 突然の告白に、どういう意味なのかと成瀬が驚いたようにこちらを直視した。その目から視線を逸らし、一つ息を吐く。
「彼と一緒に外にいた時だった。バイクがね、私たちめがけて滑るように突っ込んできたの。私は彼との会話に夢中で、周りが少しも見えてなくて。確か、あの時はギターも覚えたら? なんて彼が冗談のように勧める話を笑って聞いていた時だった。一瞬はやくバイクの存在に気がついた彼が、私を突き飛ばして、代わりに犠牲になってしまった。それで左手がね……」
 無期休業。新聞や雑誌に載ったその文字と共に、彼は私の前から姿を消した。
 事故直後から、病院は面会謝絶。落ちぶれてしまったピアニストとのスキャンダルを嫌がった事務所が、なんとか私との関係を隠し通そうとしたけれど、結局一部のファンには漏れてしまっていた。
「もしかして、昨日の女性って」
「征爾のコアなファンだと思う」
 戯けて笑うつもりが、心を誤魔化しきれなくて声が震えてしまった。
「あの事故のあと、死ねなんてことは、何度言われたことか。ピアニストから転落した時も散々言われたけれど、そんなの比じゃなかった。だって、世界中から注目されている天才ジャズギターリストを事故にあわせたのよ。普通に考えたって、ただで済むはずなんかないよね。だから、彼からギターを奪った私が、生きてること自体許せないって叩かれ続けた。家族は海外逃亡まで考えてここを離れてしまったけど、私だけが残ったの」
「どうして?」
 どうして……。
 確かにね。一緒に逃げればよかったのかもしれない。
 有る事無い事言われて叩かれて。待ち伏せされて、殴りかかられた時だってあった。それでもここを離れられなかったのは……。
「私、彼が怪我をして病院に運ばれてから、今までずっと会ってないの……」
「え……、なんで? もしかして、まだ入院してるの?」
 成瀬の問いに、力なく首を振る。
「退院は、してる」
「あ、じゃあ。事務所の力ってやつ?」
「そうね。私の事務所と彼の事務所。両方で会わせないようにしていたのかもしれない。それに、彼も私に会いたくなかったのかもね。こんな女に関わったから、こんなことになったんだって。そう思ったのかも……」
 笑うしかなかった。じゃないと涙か出そう。
 あの日のことを思い出すだけで、胸が苦しくてどうしようもなくなる。
 だけど、涙なんて流すわけにはいかない。罪人が涙を流すなんて、許されるはずがないもの。
「今は?」
 今?
「逢いに行かないの?」
「もう、どこにいるのかわからないし。これだけ時間がたっても彼から連絡がないってことは、やっぱり逢いたくないのよ。私の顔なんて、きっと二度と見たくないんだわ」
 そんな事ない。
 成瀬の口はかすかにそんな音を漏らしたけれど、私の事も彼の事もよく知らないからか、それをはっきりと口になどできないみたいだった。
 一時の慰めなど、何の解決にもならないことを知っているのだろう。私自身、そんな風に言われたところで、あんたに何がわかると言い返していただろう。
 あの事故は、確かに一瞬の出来事だった。だけど、私にはとても長く、スローモーションのように記憶に残っている。
 私をつき飛ばした彼の必死な表情と、その向こう側から襲い来る転倒したバイクが滑るようにこっちへ向かってくる映像。滑り込んできたバイクから必死で身をかわし転がるように近くの電柱にぶつかっていく姿。彼の体は硬いアスファルトの上を転がり、私から遠ざかっていった。彼に突き飛ばされた場所から、私は彼の名前を叫び、急いで駆け寄った。アスファルトに擦れた彼の体は擦り傷だらけで、彼のどこが一番傷ついてしまっているのか、判別なんてできなくて。私は彼の名前を呼び続けるしかできなかった。
 誰かが呼んでくれた救急車がどれくらいで到着したのかわからないけれど、促されるまま一緒に乗り込んで、たどり着いた病院ではたくさんのいろんな人が駆けつけた。それは彼の家族だったり、彼の事務所の人だったり。私の家族や事務所の人間。そうして私はそこから引き剥がされるように家に連れ戻されてしまった。
 私が一緒にいた事実は、表に出すことが出来ないから。
 その後、メディアから知ることのできる情報は、いつも曖昧で同じことばかり。本当の事が知りたくて彼に連絡してみても、携帯はつながらなくなっていた。
 事務所も一切情報をくれず、何もわからないまま時間が過ぎていった。
 家族の目を盗んで入院している病室へ行ったけれど、面会謝絶の札を遠くに見ただけで、関係者に見つかりまた連れ戻されて。そんな事をしているうちに、私は本当に彼に会えなくなってしまったんだ。
 事故から三ヶ月。公式に発表されたのは、彼の引退だった。詳しい内容は控えられていたけれど、どう考えてもあの事故でギターを弾けなくなったとしか思えない。事務所に問いただしたら、左手に障害が残ったとだけ聞かされ絶望した。
 自分が怪我をしたわけでもないのに、私は絶望したんだ。
 あんなにすごいギタリストから、私は大切なギターと輝く未来を奪った。音楽を奪ったんだ。
 ピアノなんて無意味と、子供のような我儘で引き篭もっていた私自身の無期休業は、彼の事故からしばらくして、なんの発表もなくクラシック界から抹消された。
 私の復帰を願う人など、もうどこにもいないから静かな幕引きだった。
 存在を憶えているのは、彼を慕い私を恨み続けているファンや家族だけだろう。誰にも気付かれないよう、明るく陽のあたる場所を避け、私は今もこそこそと息をし、生き続けている。
 話し終えると、何も言わず黙っていた成瀬が悲しそうな表情でこちらを見ていた。
 その目を見たまま、自分の両手を力なく前に出す。
「手がね……。震えるの。何度もピアノの前には座ったけど、どうしても手が震えてしまうの。怪我をしたわけでもないのに、弾こうとすると震えが止まらない。もう、弾けないのよ。弾いちゃいけないんだよ……」
 力なく持ち上げたままの手を、ソファから立ち上がった成瀬が近づきそっと包み込む。
 慰めの言葉を言うわけでもなく、元気付けるわけでもなく。ただ、そっと私の手を握る。
 その手の上に、涙が零れ落ちた。
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