6.拘束

文字数 1,833文字

 階段を上ると、月がすっきりとした光を放ってそこに居た。輝く月を見上げて、ナットキングコールのフライミートゥーザムーンを小さく口ずさむ。彼の優しい歌声を思い出しながら、共にハミングした。
 光り輝く月は凛としていて、手を伸ばし、月のそばへ少しでも近づきたい衝動をかきたてられる。
 月へ行きたいな。あの高い場所からなら、すぐに彼を探しだすことができる気がする。
 逢いに行きたいわけじゃない。逢いになど、行けるはずがない。
 ただ、どうしているのか。それを知りたいだけ。
 高い高い月と同じ場所から、彼の今を知りたいだけ。
 この地上で探し当ててしまったら、彼に気づかれてしまう。私は、そんな恐怖におびえているから。
 だからあの月から、彼のことをただ見ていたいだけ。
「月。綺麗だね」
 バーのそばで月を見上げていると、無遠慮な声が降りかかった。耳の奥に聴こえていたナットキングコールの歌声はかき消され、憮然と声の主を睨みつけた。
「そんな恐い顔しないでよ」
 それほど悪びれた風もなく、ピアノへ近づいた時のようになんの躊躇いもなく彼が近づいてくる。
 なんなのこいつ。
 ことごとく自分の時間を邪魔されて、苛立ちが胸を支配していく。会話などする気もなく、イラつきを堪えるようにして、家路に向け足を前に出した。
「あっ、ちょっと。待ってよ」
 言葉も発せずに去る私の後を、慌てたように追いかけてきた。それを無視して歩調を緩めることなく、アスファルトにヒールを叩きつけるようにして歩いていく。
「急に話し掛けたから、怒ってるんじゃないかと思って追っかけてきたんだけど。やっぱり、怒ってるみたいだね」
 それ以前の問題だということに、気づかない辺りが更に苛立たしい。
 少しだけ申し訳なさのくみとれるトーンで言いながら、彼は後をついてくる。
「俺、実はあのバーに何度か来てて。前は奥のテーブル席に座ってたんだけど、カウンターに座る君を何度か見かけていて、常連なのかなーって」
 話に纏まりがない。何が言いたいのよ。
 構う事なく足を進めていくと、突然手首を取られて驚いた。
 っ!?
「待ってって」
 人の手首を無理に掴んだ彼が足止めする。
「なんなのよっ!」
 まさか手首を拘束されるなんて微塵も思っていなかったせいで、夜の静けさの中で声が大きく荒れた。自分の声がやけに響いた事に、グッと言葉が詰まる。おかげで冷静な感情が顔を見せ始めた。
「放して」
 静かに抵抗を表すと、低い声音に少し怯んだのか手首を握る手が少しだけ緩んだ。
 だけど、まだ放す気はないらしい。睨み付けると、ヘラっと笑う。その顔が感じ悪い。
 こんな路上の真ん中で、なんなのよ。警察でも呼んでやろうか。
 何なら通り過ぎる人に助けを求めたっていい。素性も解らない男に付きまとわれているんだ。警察沙汰になって、男が掴まろうが知ったこっちゃない。
「放したら俺と話してくれる? あ、駄洒落じゃないよ」
 ヘラッとした顔で、自分の言った言葉に一人クッと笑っている。
 バッカじゃないの! 何を話すっていうのよ。
  そもそもこの状況で自分の言葉に笑うとか、頭おかしいでしょ。
見ず知らずの男に手首を掴まれて話を聞けなんて、どう考えたって犯罪の臭いしかしないじゃない。
「大声出すよ」
 睨みつけた目のまま低く脅しをかけると、それは困るとすぐさま両手を軽く上にあげた。
「降参、降参」
 相変わらずヘラヘラとした顔つきはふざけていて、苛立ちを煽る。
「ちょっと話して欲しいだけなんだけど。ダメかな」
 これだけ犯罪じみた行動に出られて、誰が大人しく話を聞くと思うのだろうか。
 こいつホント、頭おかしいんじゃないの?
「心配だったらさ。あ、ほら、あそこでも」
 警戒している理由は理解しているようで、この時間になってもそこそこ客の入りがある深夜営業のカフェを指差した。あれだけ人のいる場所でおかしな行動には出られない、と言いたいのだろう。
 夜の闇に、カフェの明かりが煌々と灯っている。中にいるお客や数名の店員の中には、何かあれば助けてくれそうなサラリーマンもいる。
 どうせここで振り切ったとしても、またあのバーにはやってくるだろう事は容易に想像できるし、なら話して納得して去ってもらうのが最善か。
 憤りを抱えたまま、仕方なく無言で頷いた。
 それを確認すると、男はやはりヘラッとした笑みを見せた。
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