25.彼のいた場所

文字数 2,659文字

 花が溢れる喫茶店を出て、黙って成瀬の後をついていった。
 あの日、この町にいた成瀬は私の事を知りたいと思っていた。自分の事を知ってくれようとするなんて、普通ならとても嬉しい事なのだろうけれど。あの時の私には、たくさんの刃物でも向けられているくらいに怖いことだった。
 知られてしまえば、きっとただではすまない。あの事件のあと、イヤというほど経験したことだから。
 けど、今の私は、成瀬が知りたいと思ってくれたことが嬉しい。上っ面だけじゃなく、芯の中まで知ってくれようとする気持ちが嬉しいんだ。
「前に、涼音と寝てる時に電話があっただろう」
 成瀬は淀みなく歩きながら、憶えている? と訊ねた。
 忘れるも何も、あぁ、まんまと思い通り、罠にはまったと、自分を嘲笑ったのだから忘れるはずもない。
 私も、相当捻くれてるよね。
「あの時の電話で知り合いに呼び出されて話を聞いてみたら、川端さんのやっている教室の場所がハッキリしたって」
「え? じゃあ、正確な場所を知ってるの?」
 うそでしょ。さっきまで歩き回ったり、聞きまわっていたのはなんだったのよ。
  呆れて、溜息と共に脱力する。
「あ、いや。そうなんだけど、そうじゃなくて」
 ハッキリしない言い方に、焦りが顔に出てしまう。
「眉間、シワが寄ってる」
 おどけた口調で笑わせようとしているのだろうけれど、思わず背中を叩いてしまう。
「イッテ!」
 背を叩かれた成瀬が、半歩ほど前のめりに進んだ。
 成瀬の背中を叩くなんて真似が平気できるようになるなんて、心の中に飼っていた闇が明るくなっている証拠だよね。成瀬の持つ明るさが、見えにくくなっている心の中を少しずつ照らしてくれている。
 平手で半歩前に出た成瀬が笑った少し後、ふいに立ち止まると指をさした。指された方角には、小さなビルがあった。
 賑やかさなどない至極ありふれた古いビルは、近づいて見上げてみてもなんの気配も感じられない。
 入り口に掲げられている幾つかの会社名があっただろうプレートも、剥がされている階もあれば、転居と異動先の書かれた紙が貼られている階もあった。
「このビル、もうすぐ取り壊されるみたいで。中に入っていた店子は、みんな撤収してるんだ」
 成瀬の説明を聞きながらも、ギター教室の名前が掲げられているプレートにそっと指で触れる。
 征爾は、ここにいたのね。
 征爾の痕跡に、説明のつかない感情が胸の中にわきあがる。
 ギター教室のプレートが貼られているのは、五階だった。中へ進むと電気も点いていなくて、昼間なのに薄暗い。
 薄暗い通路を奥へ行き、エレベーターの前に立ってから成瀬が、マジか……と項垂れた。
 その横で私も小さく息をついてから踵を返し、非常階段を目指し五階までの階段を、息を吐きなら上っていく。
「エレベーター動いてないとか、マジ冗談。前の時は、動いてたんだけどな」
 はぁっはぁっ言いながら愚痴をこぼしつつ、成瀬が先を行き五階を目指した。
 同じように息を切らせて辿り着いた場所は、とても静かだった。ギター教室だったドアには、転居先も連絡先も何も貼られていない。
 ドアの上部にはガラスがはめ込まれていて、ガラス越しに中を覗いていると、成瀬が横からノブをひねった。
「開いてる」
 取り壊しが決まって、盗まれるものも何もなくなったドアには、鍵など必要ないということだろう。
 ドアを開けて中に踏み込んでみても、埃っぽさが残っているだけでもぬけの殻だ。本当に何もない。
 征爾を思わせるものは、何一つない。
「このビルの管理会社に、川端さんの行き先を訊いてみたけど、手がかりはなくて……」
 申し訳なさげに、成瀬の話す語尾がしりすぼみになっている。
「征爾は、ここでギターを教えていたんだね。怪我は、大丈夫ってことなのかな」
 それとも、手が使えないまま生徒へ指導しているのだろうか。
 想像すると、やはり胸が苦しい。
 あの時、事務所からは再起不能とだけ聞かされていた。実際のところ、彼がどれほどの怪我を負ったのか、私は知らない。けれど、教室を開けるほどなら、奇跡的な回復を果たした可能性もある?
 どちらにしろ、もう一度ギターに関っている事実を知ることが出来てほっとしていた。
 安堵してから、踵を返す。
「手掛は、なしって事だよね」
 成瀬を責めるつもりなどなかったけれど、行きづまってしまっていることについ息が漏れてしまう。
「この近辺で、聞き込みってところかな」
 気持ちを切り替え明るく話すと、成瀬も笑ってくれた。
 息を切らせて上ってきた五階までの階段を、帰りは足早に下りていく。改めて外に出てみると、ビルの隣は片方が有名どころのパーキング施設で、片方は小ぢんまりとしたお弁当屋さんだった。
「ここの人には、訊いてみた?」
 外にあるお弁当の写真を眺めてから、成瀬を見る。
「一応、前に来た時には訊いたけど」
「もう一回行ってみよ」
 成瀬の聞き込みを疑っているわけじゃない。成瀬の時とは、別の店員がいるかもしれないからだ。
「こんにちは」
「いらっしゃい」
 声をかけると、元気なおばさんが顔を出した。私たちを客だと思い注文を待っているところへ断りを入れ、征爾のことを訊ねてみた。
「前にも似たこと訊かれたけどねぇ。……あ、後ろのあんた」
 背後に控えるように立っていた成瀬が、どうもと小さく会釈する。
「前にも話したけど、よく知らないんだよ。悪いね」
 おばさんがそう言ったところへ、大学生らしき青年が現れた。
「おばちゃん、いつもの」
「いらっしゃい。いつものね」
 “いつもの”を繰り返すおばさんが、奥にいる調理担当者に声をかけてから、あっと声を上げた。
「お客さん、ギター持ってたよね」
 “いつもの”しか普段は会話などしないおばちゃんに、突然ギターのことを訊ねられて、少しばかり驚いた青年が頷いた。
 ギターという単語に私も反応し、おばちゃんから会話を引き継ぐ。
「隣のビルに入ってたギター教室のこと、知らないかな?」
 なんでもいい、ほんの少しでいいから手がかりが欲しい。
 縋る気持ちで青年を見ていると。
「あ、はい。征爾さんの教室ですよね」
 呆気なく征爾の名前が出た瞬間、私は青年に食いついた。
「なんでもいいのっ。教えてっ」
 見知らぬ女に勢いよく訊ねられて驚く青年が、いつものお弁当を受け取るまでの間、征爾のことを聞くことができた。
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