5.無神経

文字数 2,210文字

 俊ちゃんとのやり取りに笑みを浮かべていたら、木戸が開き新たな来客だ。何の気なしに視線をそちらへ向けると、この前のサラリーマンだった。弾けもしないのに無遠慮にピアノへ触ろうとした彼の登場に目を見開き、瞬間的に憤りが湧き出す。
 何をしにきたのよ。
 自然と睨みつけるような視線を向けてしまう。
「いらっしゃいませ」
 鋭い目つきで見やる私とは対照的に、叔父が穏やかな笑みで迎える。
 あんな雰囲気を味わったにもかかわらず、又やってくるなんてどういう神経だろう。それとも、やはり叔父の対応がよくて、少しも気にせずにいるのだろうか。もしくは、他にはない叔父が入れたビールの味に釣られた?
 なんにしても、無神経には変わりはない。
 サラリーマンの彼は、私の座る席から一つ空けた隣に腰掛けた。
 カウンター席は、私の座っているところ以外全て空いているというのに、どうしてひとつ隣なのよ。なんなら、奥のテーブル席に行けばいいのに。
 ピアノの一件でいい印象のない彼に不満を感じても、口にするわけにもいかない。そんなの、ただの営業妨害だ。
「ビール」
 席に着いて前回と同じようにビジネスバッグを私の座る席とは逆の隣の席に置くと、叔父に向かって注文をする。
 俊ちゃんを窺がい見れば、当然のように拗ねた顔をしていた。僕だって美味しいの入れられるのに、といったところだろう。可愛すぎて、飼いたくなる拗顔だ。お姉さま方がやられるのが、本当によく解る。
 ホストになっていたら、ナンバーワンにはなれなくても、貢ぎまくられるだろう想像は容易にできた。ホスト姿の俊ちゃんを想像したら、サラリーマンに抱いていた感情が少しだけ和らいだ。
 まぁいい。関らなければいいだけの話しだ。
 サラリーマンなどいないものと思って、俊ちゃんの入れてくれた琥珀で、今日のストレスを洗い流そう。
 カウンター越しにグラスを磨いている俊ちゃんに笑みを向けていたら、どうも。と横から声をかけられた。いないものとした瞬間に、これだ。徐々にイラつきが増していく。
 冷めた視線を横に向けると、クイッと顎を少し突き出して親しげな顔を向けてきた。
 特に興味もないというか、寧ろピアノに触れようとした暴挙に興味も持ちたくなかった私はシラッとした顔を向けるだけ。
 せっかく感情が落ち着きを取り戻したというのに、馴れ馴れしさが鼻につく。
 直ぐに視線を前に戻してグラスを持ちあげた。この行動を見れば何の興味も示していないのはわかるはずなのに、僅かに視界に入り込む彼は、まだ親しげな視線を向け続けているようだ。
「この前も居たよね?」
 しつこい。
 興味が無いというしぐさに気づいていないのか。それとも、ただの無神経な奴なのか。
 不躾に話しかけられて、更に気分が悪い。
 今日会社で詰め寄ってきた噂好きの彼女たちと重なり、苛立ちと疲れが押し寄せる。
 疲れを癒しに来ているというのに、邪魔などして欲しくない。
 無視し続ける私に構うことなく、サラリーマンは勝手に話しかけて来る。
「君、綺麗な指してるよね。ピアノとか弾ける人?」
 彼の言葉に、グラスを持つ指がビクリと反応してしまった。指の動きを見逃さなかったサラリーマンは、勝手に肯定と取ったようだ。
「やっぱり。そんな気がしたんだよね。ねぇ、せっかくピアノがあるんだしさ、なんか弾いてみてよ」
 何故得意げなのか、弾むように話すのが気に入らない。上から目線で弾いてみろなんて、無神経にもほどがある。
 私がもしも名のあるピアニストだった場合、一曲いくらかわかっているのだろうか。簡単に弾いてよ、などと口が裂けても言えるものではない。とは言え、既に名のあるという枕詞を私は失っているけれど。
 それにしたって、ズカズカと土足で入り込んでくるようなこの態度は、辟易するを通り越し、怒りを覚えざるを得ない。安っぽい会話を期待しているなら、このバーに来て欲しくない。
 あんたにはもっとふさわしい。そう大衆居酒屋でも、スナックのママのところにでも行けばいい。きっと無神経な話でも、笑顔を浮かべて聞いてくれるよ。
 グラスを握った手に力が入り、沸々とこみ上げてくる憤りに口を開きそうになった時だった。
「お客様。申し訳ありませんが」
 ここは、一人の時間を静かに楽しむ場所ですから。そう言うように、叔父が彼の会話をとめてくれた。
 吐き出しそうになった汚い言葉を何とか飲み込んで、悪意に染まった溜息をゆっくりと吐き出した。
「すみません。あんまり綺麗な人だったから、つい」
 相手の心情など察する気もなく、肩を竦めてビールを口に運んでいる。まだ一杯目だというのに、もう酔っ払ってでもいるみたいな言葉だ。軽口を叩くサラリーマンの無神経さに、やはり嫌気が差す。
 会社でくだらないことに巻き込まれて疲れているのに、こんなんじゃあ益々疲労が増すばかりじゃない。
 琥珀のグラスを一気に空にして、叔父と俊ちゃんに又ね、と声をかけて席を立った。少し乱暴にバッグを手にすれば、サラリーマンが少しだけ息を呑んだような気がした。
 如何に自分が不躾で相手の気分を害したか、今ので理解できただろう。
 気持ちを楽にさせてくれていたキースジャレットは、いつの間にかチェット・ベイカーに変わっていて、彼のトランペットに送られながら足早にバーを出た。
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