17.憧れ

文字数 6,299文字

 あの日、またと言ったのに、成瀬はなかなかバーに現れなかった。やっぱり社交辞令だったのだろうか。
 期待するなんて、性にあわない。そう思いながらも、仕事が忙しいのだろうかと、気がつけば成瀬のことを考えてしまうのに。待つなんて癪にさわる、このバーには毎日通っているのだから、待っているわけじゃない。なんて誰にともなく言い訳を考えながら、今日も私はここに居た。
 ショッピングバッグに書かれていた成瀬の番号はスマホに登録してある。かけようと思えばかけられるけれど、自分からかけるのはやっぱり癪に障って連絡を取る事もしなかった。
「あの成瀬とかいうお客。最近、来ないっすね」
 カウンターに私しかいないのをいい事に、俊ちゃんはグラスを磨きながら砕けた言葉遣いで話しかけてくる。
 私が成瀬と一夜をともにした事など知る由もないから、未だ付きまとってくる嫌なお客というイメージを持ったままなのだろう。ついこの前まで、私もそうだったのだから仕方ないか。
 俊ちゃんの言葉に苦笑いをこぼし、琥珀を口にする。
 オスカー・ピーターソン・トリオの曲に耳を傾けると、自然とグラスに添えた指がリズムを刻んでいた。
 成瀬が現れるまでは、こんな風に流れる曲を聴いてリズムを取るなんて仕草などしなかったに違いない。いや、気が付かないうちにしていても、それに目をつぶり見ないふりをしてすぐに止めてしまっていただろう。
 音楽を楽しむことは彼への罪を忘れてしまうことのような気がしていたから、曲に乗ることも弾くことも避けていた。
 実際は、弾きたくてもそうできないのもあるけれど。
 少しずつ変化している自分の行動は、彼への背徳行為にはならないだろうか。眉間による皺さえ気にもせず、考えすぎるこの性格に嘆息してしまう。
「あ、クッキー美味しかったです。ご馳走様でした」
 俯き加減で考え込んでいると、俊ちゃんがカラリと話しかけてくる。どうやら、先日渡したクッキーを食したらしい。
 そのクッキー、成瀬と買ったんだよと言ったら驚くだろうな。
 驚く俊ちゃんの顔を想像したら、つい笑いが漏れた。そういえば、キャラクターの耳がついたカチューシャもあげようと思っていたのに、すっかり忘れていた。次にくるときは、持ってこよう。
 再び俊ちゃんのカチューシャ姿を想像して笑えてしまう。
「えー、なんで笑ってるんですかぁ。一人で楽しそうなの狡いじゃないですか~。僕にも教えてくださいよ〜」
 甘え上手全開で俊ちゃんが訊ねるものだから、余計におかしくてかなわない。
 クスクス笑っていたら、さっきまでの甘えた雰囲気を一変させて、俊ちゃんがぽそっと零した。
「よかった」
「え?」
 笑いを堪えて俊ちゃんを見ると、とても穏やかな表情をしていた。
「涼音さん。ここのところよく笑ってるから」
 キュッと口角を上げて笑みを作ると、よかった、よかった、と頷いてグラス磨きの続きをする。
 俊ちゃんが言うように、自分自身も気づいているこの変化は成瀬のおかげかな。何重にもかためて張り巡らせていた心の壁を、成瀬は少しずつ潜り抜け壊していく。
 あのヘラヘラとした軽い表情に苛立ちを感じていた初めの頃が嘘のように、彼のその軽さに救われていた。
 そんな成瀬は、今夜もバーに現れなかった。もちろん、自宅へ訪ねてくる事もなく。
 気がつけば寂しいと感じている自分に、参ったなぁ、なんて呟きが漏れていた。

 一週間ほどして、ようやく成瀬が現れた。と言ってもバーにではなくて自宅前にだ。
 仕事帰りでバーに行く前に、一度家に戻った時だった。
「よっ」
 ヘラッとした笑顔と挨拶で、成瀬が門の前にいた。
 よっ、て……。
 軽いノリは相変わらずで、ヘラヘラした顔を崩さない。いつものその軽さにほっとしながらも、憎まれ口がついて出る。
「何やってんのよ」
 不満顔をあらわにして訊ねると、きょとんとした顔で見たあとに天然なセリフが返ってきた。
「何って。見ての通り、涼音のこと待ってた」
「そうじゃなくて……」
 今まで連絡もなく、と口走りそうになってやめた。早くも依存している自分に気づいたからだ。
 束縛系なんて、似合わなすぎる。
 深く息を吐き出して冷静になろうとしていると、成瀬がなにやら顔を覗き込んできた。
「今日もバーに行くんだろ?」
 訊かれて頷くと、すぐさま手を引かれた。
「今日はさ、ちょっと気分を変えてみない?」
 手を引かれたまま歩き、言われた意味に首をかしげる。
 私の疑問に笑顔だけ向けて、成瀬は大通りに向かうとタクシーを拾った。

 タクシーに乗り込んで向かった先は、小さな店が犇めき合う場所にあるライブハウスだった。
 細い階段。壁中に貼られたチラシやステッカー、メンバー募集の張り紙。
 二枚のチケットを手にして階段を降りていき、タバコの臭いが染み付いた短い廊下を行けば、若い猫背のスタッフが束になったチラシと一緒に半券を返してくれる。
 それを手に、先にある防音のガッチリした扉を開けると、途端にジャカジャカと落ち着きのない音楽が聴こえてきた。
 小さなステージには誰もおらず、まばらな客の数を見ればライヴが始まるにはまだ少し時間のあることがわかった。
SE の音楽が落ち着きなく流れ続ける中、突然放り込まれた小さなライブハウスという、今まで知らなかった世界に戸惑うばかりだ。
「とりあえず、なんか飲むか」
 チケットの半券で、ドリンクを一杯もらえるらしい。
「あ。あのバーにある酒と比べない方がいいよ」
 苦笑いをこぼし、後方にあるバーカウンターで成瀬がビールを注文している。期待をするなということらしいから、取り敢えず成瀬と同じビールをもらった。
 プラスチックのカップに注がれたビールはそれなりに冷えてはいたけれど、美味しいとは確かに言い難い。泡だらけじゃないだけ、マシかもしれない。
 小さな背の高い丸テーブルに寄りかかるように立ち、成瀬が私を見る。
「こういうところ、来たことないだろうなって」
 確かに。成瀬がジャズと無縁だったように、私もクラシックとジャズ以外の音楽には無縁の生活を送ってきたから、こういったライブハウスには一度も来たことはなかった。
 周囲を見渡せば、客層は二十代前後ほどで男性の方が多い。あちこちではタバコの紫煙があがり、ステージサイドにあるやたらと大きなスピーカーが我が物顔に見えた。
 ビールを飲みながら、受付でもらったチラシの束を眺めてみる。カラーのもの、色つきの紙にただ黒い文字でコピーされたもの。自主制作のCDを売り込むもの。
 自分たちの音楽をどうにかたくさんの人たちに聴いて欲しいと、そのひらひらと軽い紙たちには、想いや夢が詰まっていた。
 こういう場所は初めてだけれど、手にしているチラシからは、昔同じ学校へ通っていた人の事を思い出させた。
 彼女の家はごくごく普通の一般家庭で、奨学金で学校へ通い音楽の勉強をしていた。
 家族に音楽家がいるわけでもなく、特段生活に恵まれているわけでもなく。学費以外の音楽に関する物は、サラリーマンの父親と専業主婦の母親がパートで貯めたお金で賄っていた。
 学校で勉強する以外で、彼女は今手にしているチラシのような物も作って、路上に電子ピアノを持ち出し演奏していた事もあった。
 そんな風に必死になっている彼女を少し離れた場所から傍観しながら、私は何処かで羨ましさを感じていた。
 私のように、生まれた時からこれしかないと与えられ押し付けられてきたわけじゃなく。自ら向かう夢がある彼女が羨ましかったんだ。
 彼女は自分でそれを見つけ、楽しんでいたから。
 コンテストでいい成績を残したという話を聞いた事はないけれど、とても楽しそうに弾いていた姿が印象深い。そういうところは、征爾に似ていたのかな。
 私はきっと、楽しんで音楽をしている彼女や征爾に、自然と惹かれていたのだろう。
 過去の物思いにふけっているうちに、気がつけばステージには五人のメンバーがいて、客席からは 拍手や歓声が上がっていた。
ヴォーカル、ギター、ベース、ドラム、そしてキーボード……。
「……あ」
 曲の始まる僅かな静けさ。SEの音が途切れ、演奏が始まる僅かな隙間に漏らした声に、隣の成瀬が反応して私を見たのが視界の隅に入った。
 けれど私は、ステージに立つキーボードから目を離せない。
 始まったステージ。曲調は軽めのポップスから弾けるロック調のもの。そして、クラシックをアレンジしたバラード。
 正直、心を奪われた。曲にも、キーボードを楽しそうに弾く人物にも、心を奪われ続けた。
 あの頃と変わらず、音楽を楽しむ彼女に心を奪われ続けた。
 一時間もなかったと思う。多分、ほんの三十分ほどだろう。
 目の前のステージ上が空になっても、キーボードが置かれていた場所から目を離せなくなっていた。
メンバーたちが袖にはけたあとには、またSEの曲が流れている。
「ねぇ、成瀬」
「今のバンド、なかなかいいだろ」
 問いかけへかぶせるように、成瀬が自慢げな顔を向ける。
 知ってて連れてきたの?
 僅かな猜疑心はあるけれど、成瀬のにこやかな笑みに、疑いを持つような何かを見つける事はできない。
「対バンだから、短いよな。ワンマンやんないのかな」
 大きな独り言を呟きながら、次のバンドも観ていくかどうしようかと迷っている。
 チラシを確認したあと、窺い見てきた。
「次のバンド、俺はよく知らないんだけど。どうする?」
 訊ねられても、キーボードを弾いていた人物のことが気になって、曖昧に頷きをかえすだけだ。
 しばらくすると、次のバンドがステージ上に現れ曲が始まった。さっきのバンドとは雲泥の差で、微妙にあっていないリズムがむず痒さを誘う。ギターが走りすぎていて、リズム隊が焦っている。
 ボーカルも自分のキーを理解していないのか、聞き苦しい高音は不協和音だ。
 勢いだけでどうにかしようということだ。
「イマイチだな」
 音にかきけされないように、成瀬が耳元で話して私の手を引いた。出ようという事らしい。
 空のカップをゴミ箱へ捨てて、来た時と同じように重いドアを開けて細い階段を上がる。外に出ると、さっきまでの音の洪水が嘘のように、夜の帳がおりていた。
 耳の奥には、まだ音の余韻が残っている。特に、あのキーボードのメロディーが耳の奥で残像のように鳴っていた。
「どう? 初のライブ」
 訊かれ応えようとしたところで、駆け寄る足音に気がつき、そちらを見る。視線を移した私と目が合った途端、駆け寄ってきた人物がはちきれたように明るい声を上げた。
「やっぱり、そうだ。涼音。涼音でしょ」
 さっきステージでキーボードを弾いていた彼女は、私が密かに羨ましいと感じていた彼女。蓮実だった。
「はすみ」
「うん。そう、憶えててくれたんだね。嬉しいな」
 弾むように話して笑顔を見せる蓮実は、あの頃よりももっとキラキラしている。夜なのに、太陽みたいに眩しい笑顔だ。
「クラシック、やめたんだね」
 突然の再会に驚き、浮かんだ言葉はそれだった。
 元気にしてた? とか、さっきの曲好かったとか。他にいう事もあるだろうに、なんとも気の利かないセリフだ。
 戸惑いを隠せない私の気持ちを汲み取ったみたいに、蓮実は過去の自身に触れた。
「クラシックはね、私には難しい世界だったよ」
 そう言いながらも、蓮実が見せる表情からは後悔の色なんて少しもうかがえない。
「今のバンド、まだまだ荒削りだけど。この前大手の事務所に声かけられて、今もしかしたらってところなの」
 嬉しそうに話す蓮実が可愛らしくて、やっぱり羨ましい。
 自分のことを矢継ぎ早に話す蓮実だけれど、何一つ嫌だと感じることなく、私は彼女の現在(いま)を聞いた。楽しくて幸せだと話す彼女の、まっすぐな瞳に見惚れてしまう。
 成瀬は気を利かせたのか、少しばかり離れた場所に立ち、近くの自販機で買ったコーヒーを飲んでいる。
「元気そうでよかった……」
 少しだけ眉根を下げた蓮実の言いたいことは、たったその一言で理解できた。彼女は、私に何があったのかを知っている。
 かけられた言葉にどんな顔をしたらいいのか分からず、口角を上げようとしたけれどうまくいかない。
「手」
 蓮実は、降ろされたままの私の手に視線を送る。それから優しく温かな温度の蓮実の両手が、私の右手を包んで胸のあたりまで持ち上げた。それから、もう一方の手も持ち上げて包み込む。
 何も言わずに、ただ私の両手を蓮実の両手が守るように握る。
「私の憧れ」

 え……。
 驚いて目の前の蓮実を見ると、少しだけ照れた顔をしている。
「あの頃、こう出来たら良かったね」
 私がいい意味で有名だった頃、話したことも、まして顔さえ知らない同じ学校内の生徒たちからよく擦り寄られていた。
 媚びへつらい、レコード会社や事務所を紹介して欲しいと、何度となく言われていた。その逆もしかりで、嫉妬でつまらない噂を立てられたことも少なくない。
 そんな時、蓮実は遠くから私を見つめていることがあった。何を言うでもなく、ただいつも少し遠巻きに私を眺めるようにしていた。
 擦り寄る輩に混ざることなく、ひたすら音楽を楽しむ彼女がいつしか気になり、こっそり観に行った路上の演奏で、蓮実はとても楽しげだった。
「あの頃、声をかける勇気があったら良かったんだけど。私、へなちょこだったからさ」
 クスクスと昔を思い出して、蓮実が少しだけ肩を揺らして笑う。
「あの頃より優しい顔になってるのは、彼のおかげ?」
 蓮実の視線の先には成瀬がいて、私は苦笑いしてしまう。きっぱりと否定できない。
「あの時と一緒で、私今日は今までで一番最高で楽しい演奏ができたよ」
「あの時?」
「忘れちゃったかな。一度だけ観に来てくれたでしょ。私の路上ライブ」
 気付いてたの?
 驚く私の顔を、くしゃっとした笑みで見る。
「凄く嬉しかったの。遠くから見てくれている涼音の顔は、学校にいるときと変わらずにつまらなそうで辛そうに見えて、だから元気になって欲しくって、私最高の曲を聴いて貰おうって張り切ったんだよ」
 彼女は、あの頃孤独に過ごしていた私に気がついていたんだ。
 売名行為目当ての輩に囲まれた中で、私は孤独を感じ続けていた。当たり前に与えられたピアノを弾くことで、その孤独から目をそらしていた。
 あの頃に蓮実と話せていたら、彼女のように音楽を楽しめて、何のために弾いてるのかなんて事考えもしなかったかも知れない。
「涼音に会えて良かった。来てくれて、ありがとう」
 元気出ちゃったとはしゃぐ彼女に、それは私の方だと声にならない声が心に広がる。
「観ててね、涼音。また、涼音が聴きたくなる音楽を絶対にやるから」
 元気と笑顔が全開の蓮実は、メンバーに呼ばれまたね。と手を振り、楽屋のあるライブハウスへ戻っていった。
 蓮実の背中を見送ってから、自販機のそばで煙草をくゆらしている成瀬に近寄る。
「なにカッコつけてんの」
 紫煙をくゆらせ、きめている成瀬を笑う。
「あれ。惚れなおした?」
「冗談」
 クスクス笑うと、よかったな。
 一言だけ言って、私の手を引いた。
 ありがとう。
 過去の私を、成瀬が少しずつ救ってくれる。
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