28.真実

文字数 7,911文字

「僕は、涼音に甘えていたんだ」
 征爾が俯く。
 今まで抱えていた何かを、とうとう私に話す日がやってきてしまった。出来るなら、ずっとそんな日などきて欲しくなかったと言うように、征爾は一度深く溜め息をついた。
 零した溜め息は、私がここへ来たことは間違いだと言っているようで、また気持ちが塞いでいく。
 今でも遅くないだろうか。このまま何も聞かずに帰ったほうがいいのだろうか。
 自分がしてきたことに目をつぶり、成瀬に寄りかかり、安穏とした日々を過ごしていけばいいのかもしれない。
 過去の苦悩を穿り返して征爾を傷つけてしまうのなら、帰るべきなのかもしれない。
 心が退き始めた時、先程の女性が入ってきた。同時に視線が女性に集まる。
「気にしないで」
 サバサバとした口調でパソコンの乗る机そばの椅子に女性が腰かけると、ギシリと背もたれが鳴った。女性から視線をはずすと、三人とも示し合わせたみたいに目の前の机を見て黙ってしまう。
 沈黙が続く中、このまま何も言わずにいたら、彼がまた大きな溜め息をつくかもしれない。追い出すようなその息をつかれるくらいなら、と息苦しさに顔を上げた時、女性が口を開いた。
「あたしから話す?」
 また、ギシリと椅子が鳴った。女性が黙りこくったままの征爾に問いかけると、力無く首を横に振る。
「いや。僕が話す。悪いけど、コーヒー……、もう一杯貰えるかな」
 女性に頼むと、りょーかい。ともう一度部屋を出て行った。
 女性が出たのを機に、征爾がようやく重い口を開けた。
「僕があのバーへ初めて行った時の事を、涼音は憶えているかな?」
 過去の記憶を思い出しながら、頷き口を開いた。
「確か、事務所かレーベルの人かな。打ち合わせをしていたと思うけれど」
「うん。事務所の人間と、当時僕のマネージメントをしてくれていた、さっきの彼女がいた」
 やっぱり。あの女性がマネージャーというのは、当たっていたのね。
「涼音、あの頃の君はクラシックから離れていたよね。ピアノを弾くことに意味を見いだせずにいた。なんのためにピアノの前に座り、何のためにクラシックを奏でているのかわからないと嘆いていた。それは、僕も一緒だったんだ」
「え……」
 征爾の言う意味がうまく飲み込めなくて、苦笑いのような表情になる。
 そんな。だって、あんなに楽しいと教えてくれたのは征爾なのに。どうして。
 疑問を顔に出すと、征爾が応えてくれた。
「君の前では、楽しそうにしていたからね。いや、実際、涼音と過ごしている時間だけは楽しかったんだ。けど、それ以外は、どうしようもなく苦痛でたまらなかった。周囲には楽しそうに見せて、必死に自分を偽っていたんだよ。そうしていれば、いつかまた、なんて途方もない希望に縋っていたんだ。僕には、限界が見えていた。このまま続けていくのは、とうてい無理だと、気づいていたんだ。そして、あの事故の日……」
 そこまで話すと、とても苦しげに征爾は俯き、膝の上に置いていた拳は強く震えを伴って互いを握り合っている。
 征爾の言った事故というワードに、私も胸が苦しくなっていった。同じように、膝の上にある自分の手も震えだす。
「初めてバーへ行った日、本当はもうこの世界から去るつもりで事務所の担当者やマネージメントをしていた彼女を呼び出していたんだ。僕の気持ちに少しも気づかない彼らは、いつも通りのスケジュール確認をしてきて、それを聞き流しながらどこで切り出そうかと、僕の心はここにあらずだった」
 そこで、ノックなしにドアが開き、コーヒーを入れてきた女性が戻ってきた。
 毒が入っているかどうかわからないコーヒーを、再びテーブルに三つ置き、自分の分をパソコンのデスクへ置くと、ギシリと椅子をきしませ女性は座る。
 女性が座るのを待っていたように、征爾が又話し出す。
「言い出せないまま、バーでの時間だけがどんどん過ぎて行った時だったよ。涼音、君の存在に気がついたのは。いや、気がついたのは事務所の人間で、君の噂を笑い話のように僕へ話して聞かせたんだ。……ピアノを弾けなくなった、ピアノ二ストの成れの果てだって。君はひどく酔っていて、泣き笑いのような表情がとても辛そうで、それを我慢するみたいに俊くんと話し込んでいた。迷いのなかどうしたらいいのかわからないと、自分自身を諦めているみたいだった。そんな風に、悩みの中から抜け出せず苦しんでいる君のことを、事務所の人間が蔑んだ目で笑いながら見ているんだよ。僕は自分と共に歩んで信頼してきた事務所の人間が、そんな風に言ったことも。涼音のことをそんな目で見ていることも、ショックで許せなかった。その言葉も蔑んだ目も、自分に向けられている気がしてどうしようもなく苦しくなっていったんだ」
 辛そうに語る言葉を一度冷静にさせようと静かに息を漏らしてから、冷める前にどうぞと、添えて征爾がコーヒーを口にする。ゆっくりと一口飲むと、カタリとカップの音を確かめるようにしてから置き、話の続きを始める。
「少し時間が欲しいと思った。表舞台から離れて、曲を作ることからも離れて、煩わしいこと全てから開放された中で、ただギターを弾いてみたかった。純粋にジャズと向き合いたかった。それが唯一の抜け出す方法だって思ったんだよ。僕は、それに涼音を利用した」
 利用……。
 わざとそんな言い方。征爾がそんなひどいことをするはずがない。
 征爾の口から出る利用という言葉を受け止めることができなのに、どういえばいいのか言葉が出てこない。
 胸の中にあるもどかしさを言葉にできずにいる中、話は進んでいった。
「偶然を装うなんて、今思えば浅はかな行動だけれど。涼音の現状を知っていて近づき、ジャズの素晴らしさや楽しさを話したり弾いて聴かせたりすることで、僕自身に言い聞かせていたんだよ。こんなに楽しいじゃないかって。けど、違った。涼音がピアノの楽しさを再確認したり、ジャズの素晴らしさを知っていくのを見ているのは楽しかったけど、やっぱり表に立つことに、僕はもう疲れてしまっていたんだよ。元々性に合わなかったんだろうな。逆に裏方に回って、涼音にジャズを教えてきたように、この素晴らしさをもっとたくさんの若者に伝えていきたいって思ったんだ」
「だから、この教室を」
 成瀬の問いかけに肯定する征爾が、再びコーヒーで喉を潤す。
「けど、世間というものはそういうことを簡単には理解してくれないし、させてもくれない。事務所の人間にも、冗談にしか受け取って貰えないのが本当に辛かった」
 そこで一旦話を区切り、深く息を吸い吐き出した。
「だから、涼音を利用した」
 再び使われた利用という似つかわしくない言葉に、私が言葉をぶつけようと息を吸った時、征爾の後ろから彼女が叫んだ。
「違うっ!」
 さっきまで黙っていた女性が、突然大きな声で征爾の言葉を遮った。
「征爾の心は回復してた。ちゃんと元に戻ってた。ずっと先までのスケジュールだって組んでたじゃない。新しいアルバムだって、精力的に取り組んでた。全部、この女のせいじゃないっ。この女を庇った事故のせいでっ。そこにいる女が周囲も気にせず呑気にしてるから、だから征爾があんな目にあったんじゃないっ。なのに、どうして征爾がこんなところに引き篭もらなくちゃいけないのよっ」
 勢いで叫ぶ女性を振り返ることもなく、征爾は静かに制する。
「違うよ。何度も話したじゃないか。あれは、建前だった。僕は装っていたんだよ。平気なふりを続けなきゃいけないんだって、言い聞かせていたんだよ。あの事故だって……」
 テーブルに向かって静かに零す征爾の言葉に、女性がグッと言葉を飲み、唇を噛みしめる。
 納得していないのは表情を見ればわかるけれど、征爾に止められたことでそれ以上は何も言ってこない。
「事故は、確かに偶然だった。涼音と話しながら、視界の隅にはいるバイクが、おかしな運転をしているなっていうのは思っていた。そうこうしているうちに、信号を無視したバイクが縁石に乗り上げて横転し滑り込んできた。僕はその瞬間を、スローモーションでも見ているみたいに冷静に観察していたんだ。そうして、あの瞬間のわずかな時間に、このまま事故に合えばあの苦痛から逃れられると、稚拙な算段をしてしまった。……ごめん、涼音。君を巻き込んだのは、僕の方なんだ」
 固く握られた拳が、彼の膝の上で小さく震えている。俯き視線を合わせることなく、苦痛に顔を歪め続けている。
「どうして、すぐに彼女に会わなかったんですか」
 成瀬が、うつむく征爾に淡々と訊ねた。
「あわせる顔がないなんて、つまらないことは言わないでくださいよ」
 話す声は冷静に聞こえるけれど、成瀬が怒っていることに気がついていた。いつも私のために一生懸命になってくれる成瀬だから、征爾へ向かって感情が爆発してしまうんじゃないかと心配になり彼の腕に手を添えた。けれど、成瀬の言葉は止まらない。
「涼音が今までどんな気持ちで生きてきたか分かりますか? あなたと出会ってまたピアノを楽しめるようになったのに、事故のせいで今度は触れることさえできなくなったんですよ。そこの女性にはいいように罵倒されるし。涼音は、死んだって構わないくらいどん底まで落ちてたんだっ」
 成瀬の訴えに、征爾が静かに顔を上げる。後悔に潤んだ瞳と目が合った。
「涼音の指。すごく長くて、綺麗なんですよ。俺、一目惚れで。この指で弾くピアノを、ずっと見てみたいって思ってた。なのに涼音は、こんな綺麗な指を包丁で切り落とそうとしたんだ。あんた、そんな涼音の気持ち、わかるかよっ!」
 成瀬の言葉に、征爾の目が見開いた。
「逃げ出すのは勝手だよ。なんで涼音を巻き込むんだよ。巻き込んだなら、最後までしっかり面倒見ろよ。自分だけ逃げ出すなんて、卑怯じゃないかっ!」
「成瀬っ……」
 触れていた腕を強く握り、今にも征爾に向かって掴みかかりそうな成瀬を止めると、肩で息をして興奮している息を吐き出し、なんとか落ち着こうと呼吸を整えている。
「申し訳……ない……」
 征爾の声が震えている。頭を下げ、顔を上げようとしない。
 緊迫した空気の中には哀しみが充満して、やりきれなさに逃げ出したくなる。
 どうしてこんなことになっているのだろう。誰も傷つけたくないし、傷ついて欲しくないのに。
 どうしてこんなつらい感情に、みんな支配されなくちゃいけないのだろう。
 征爾にこんな辛い顔をさせてしまうなんて。成瀬にこんなことを言わせてしまうなんて。
「待ってよ。何よこの茶番はっ!」
 全ての悲しみを代弁するみたいに、椅子を軋ませていた女性が叫び、椅子から立ち上がると私を睨みつける。
「冗談じゃないっ。巻き込まれたのは、征爾よっ。そうでしょっ。こんな腑抜けた女に会わなかったら、征爾はずっとジャズ界でトップのギタリストのままだったはずよ。世界からも認められて、たくさんの曲を作って。アルバムだって何枚も出したはずだわ。人生を狂わされたのは、征爾の方じゃない。頭なんか、下げないでよ。こんな女に、頭なんか下げないでっ……」
 後半は泣き声でくぐもり、彼女は悔しさに涙を流しながら、それでも私を睨み続けている。
「ごめんね、ナミちゃん。君が僕を支えてきてくれたことには、とても感謝してる。けど、逃げ出したくてもがいていた僕は、いつもどこかで逃げ出す切っ掛けを探していたんだよ。あの時の事故は偶然だけれど、あの事故でやっと今いる場所から逃げ出せると安堵したくらいなんだ。僕は、どうしようもないやつなんだよ。あの事故で涼音を巻き込んでしまうことくらい、冷静になれば理解できるはずなのに。そんなことにも考えは及ばなくて。僕は、ただ逃げ出したくて、逃げ出したくて……。涼音が今こうして生きていてくれたことに、僕は感謝しなくちゃいけないんだ。元気でいてくれたことに、寧ろ僕は救われているんだよ」
 沈黙が降りる。征爾が抱えていた悩みに気づかず、征爾が勧める音楽にただのめり込んでいたあの頃。クラシックがダメならジャズだなんて。フラフラしていた私のせいで、悩む征爾の苦悩に気づきもしなかった。
 きっと、征爾だけが悪いんじゃない。私だって、征爾を利用していたんだ。
 ジャズという違う音楽をくれた征爾のそばにいることで、別の道を見つけ出すことが出来たのだから。
「ごめんなさい……」
 頭を下げた私に、征爾と成瀬がハッとする。
「涼音、なんで……」
 隣に座る成瀬がどうして謝るんだ、と驚愕している。目の前の征爾は、何も言えず驚いたようにただ私を見ていた。
「気づけなかったから。私、征爾が悩んでいたのに、自分ばかりが辛いと思って、気づきもせずに甘えていたから」
 私の言葉を成瀬が遮る。
「違うだろっ! 悩んでいた涼音を利用して近づいてきたのは、この人だ。悩みの中にいた涼音が、どうしてこの人の心の中まで気が回るんだよ」
 悔しげな声音で、成瀬が私の手を握る。キリキリと辛そうに歯噛みしてくれている。代わりになって必死に怒ってくれる成瀬の手をそっと握り返した。
 ありがとう、成瀬。
 成瀬の優しさに頷きを返せば、キリキリとした表情のまま納得いかないまでも言葉を飲み込んでくれた。
 目の前に座る征爾へ視線を戻せば、目が自然と傷を負っていたはずの手元へと注がれる。
「……傷。手の傷は?」
 訊ねれば、手術室へと運び込まれていくシーンが頭を過ぎる。たくさんの人が集まり、走り回り、緊迫感や絶望感の入り混じった時間は、今思い出しても苦しさに息が止まりそうだ。
 再起不能と伝えられていたけれど、敢えて事故に巻き込まれていたことや、こうやって教室を開いているということは、傷もたいしたことはなかったのかもしれない。
「怪我は、たいしたことない……」
 征爾の言葉に、マジマジと顔を見た私とは違い、成瀬は瞬時に怒りを露わにした。
「ちょっと待てよっ!」
 ガタリと大きな音を立ててテーブルが鳴り、今度こそ目の前の征爾に掴みかかりそうな勢いで成瀬が立ちあがった。成瀬の態度に動じることもなく、征爾は坦々と自らを蔑むような嘲笑を浮かべている。
「バイクの存在には、気づいていたからね。身体は庇うことができた。打撲やかすり傷程度のものは沢山したけど、骨にも脳にも異常は無かった。、面会謝絶でしばらく入院してたのは、逃げ出したい気持ちがあったから」
 自嘲気味な表情は、後悔の色に染まっている。
「話にならない。涼音、帰ろっ。こんなところにいたら、頭がおかしくなる」
 立ち上がっている成瀬が、私の手を力強く取った。
 自分のことみたいに悔しさに顔を歪めている成瀬を、私は座ったまま見上げた。
 成瀬、ありがとう。だけど、もう少し。もう少しだけ、征爾と話をさせて。
 訴えるように瞳を見つめていると、掴まれていた手の力が緩んでいく。成瀬の複雑な表情には、どうしてっ! とやり場のない憤りがうかがえた。
 その憤りを受け止めるようにもう一度成瀬に向かって頷くと、諦めたようにドサリとソファに座った。怒りを堪える成瀬から、再び征爾へ視線を移した。
「怪我、してなくてよかった」
「涼音……」
「それだけが、気がかりだったから」
 隣の成瀬から、小さくつく息が聞こえた。
 どこまでお人好しなんだ、と言われている気がしたけれど、私は本気でそう思ったんだ。
 再起不能と事務所から聞かされたときの衝撃は、未だに忘れられない。どれほどの傷を負ったのかと考えれば、正気でなどいられないほどだったのだから。
 知らされたことが事実じゃなくて、本当によかった。
「あの頃、征爾が悩んでいたことに、私は少しも気づいてあげることができなかった。けどね。それは、征爾が幸せそうにギターを弾いていたからだよ。私の前でとても幸せそうにギターを弾き、とても楽しそうにジャズを奏でている姿に、沢山助けられたの。だから、ありがとう」
 正直、胸のうちは複雑だった。
 怪我もなく元気で又ギターを弾いてくれていたことには安心したけれど、これだけの長い時間逢いに来てくれなかった征爾の心には、やっぱり利用していたという感情があったからだと思う。
 あれほど自分の事を受け入れそばにいてくれた人の中に、私という存在はそれほどの比重を占めていなかったのだろうと考えれば、とても悲しくなる。
 征爾が事務所の人に不信感を感じたように、私も信頼していたあなたに、裏切られたようで苦しいよ。
 ありがとうなんて口では言ってみたけれど、私は今征爾へどんな顔を向けているだろう。感謝の気持ちとは裏腹に、酷く残酷な表情をしていないだろうか。
 私が伝えた感謝の言葉に、成瀬は納得できないように歯噛みをしている。ナミちゃんと呼ばれた元マネージャーの彼女は、口先だけの言葉には騙されないとでもいうように、未だに鋭い目つきを崩さない。
 征爾は、俯いてしまい小刻みに肩を震わせていた。
 不意に、今までずっと繋ぎとめていた細い糸がプツリと切れてしまったように、征爾が声を上げて涙を流した。私がここへ来たことで、それなりに平穏だっただろう毎日が崩れてしまったことで、決壊が崩れ流れ出してしまったかのようだ。何度も何度も、ごめんと震えながら声に出して涙を流す姿は、征爾らしくなく滑稽に感じてならない。 こんな人ではなかったと、思い描いていた理想の彼が同じように私の中で決壊し崩れていく。
「涼音、ごめん。ごめん、涼音、ごめん」
 あの頃、優しくて頼りになり、いつだって愛してくれていた面影はもう微塵も感じられない。声を上げ、嗚咽しながら涙を流す征爾はとても小さく頼りなげに見える。後悔に打ちひしがれ、表舞台から去っても尚、隠れるようにギターを弾き続けてきた彼の気持ちが、今目の前にいる彼の姿なのかもしれない。
 やっと辿り着いた裏舞台だけれど、後悔したまま過去を引きずり続けて、彼をこんなにも小さく見せているのかもしれない。
 背後の椅子に座っていた彼女は、征爾の涙に言葉もないまま驚きと悔しさを滲ませていた。瞳には、うっすらと涙が揺れていて、征爾のそばで彼女もずっと苦しみ続けてきたのが解る。
 ずっとそばにいながら、征爾を表舞台に戻すことができず、その悔しさをすべて私に怒りとしてぶつけることで、立ち続けることができていたのかもしれない。
 静かに流れる後悔の涙を、これ以上見ている気はない。あの日から止まっていた時間を、私は動かしたい。そのために、ここへ来たのだから。
 だから、征爾。あなたも、もう私になど囚われないで。その手が動くなら、あなたの音をたくさんの人に教え伝え続けていって。私を救ってくれた時のように、他の誰かのことも救ってあげて。
 ずっとそばにい続けてくれた、彼女のためにも。
 さっき成瀬から繋がれた手を、今度は私から繋いだ。
「さよなら、征爾。確かに私は、あなたに救われた。だから、ありがとう。あなたの奏でる音が、大好きでした」
 立ち上がり深く深く頭を下げ、成瀬とドアを出て行く。征爾は、嗚咽を堪えることなくその場で泣き続けている。
 本当は、もう一度あなたと奏でたかったアンダーカレント。いつの日か、あなたを思い出すこともなく弾ける日が来るだろうか。
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