1.ピアノと私
文字数 2,307文字
ピアノを弾く喜びを教えてくれたのは、彼だった。
生まれた時から家にあった、まるで体の一部のように綺麗な光沢を放つ大きなグランドピアノ。拙くも鍵盤を叩けば、その音色に心が躍らされた。
幼い頃は、触れただけで鳴る音が嬉しくて、メチャクチャな音階さえ楽しかった。
なのに、いつしかピアノに触れる事は苦痛でしかなくなっていく。
毎日何時間もピアノに向かい、指の感覚がおかしくなるほど弾かされて、硬くなる指先を眺めながら出るのは溜息か涙だけだった。
コンクールへ出れば優勝するのは当たり前で、体調が悪くて優勝を逃した日などは両親に烈火のごとく叱られ、食事もままならないほどにいつも以上の練習を強いられた。休むことなど許されなくて、学校の授業よりもピアノが優先されていた。
そのおかげといえば悔しいけれど、いつしか幼い天才ピアニストとしてメデイアでも取り上げられるようになった。そんな中、父と母、周囲からのプレッシャーに私は常に押しつぶされそうになりながら鍵盤を叩き続けていた。
ある日、家電量販店の前に置かれていた大きなテレビで、夢の国が映されているのを目にした。画面の中で小さな女の子が父親と母親両方の手を握り、楽しそうに列車に乗っている姿は、私からしたら異国の世界のように見えた。
両親と手を繋いだ記憶は、あっただろうか。まだ十数年しか生きていない私の記憶の中に、その光景は手繰り寄せても、手繰り寄せても現れなくて、寂しさに心臓が締め付けられるだけだった。
心が締め付けられながらも、画面の中の親子からどうしても目が放せなくて、しばらくそこに立ち尽くしていた。
それが切欠だった。何もかもが嫌になり、自室に閉じこもり、練習も拒否してコンクールをサボり続けた。
何のためにピアノを弾いているのだろう。ピアノってなんなの? 体育の授業も、外での遊びも出来ないピアノって何?
鋏さえ持たせてもらえない。自転車だって禁止だ。公園の遊具でさえ、指に何かあったらどうするんだ、と禁止されていた。
何の楽しみも見いだせず。それ以上に、苦痛でしかなくなったピアノとクラシックを恨むようにさえなっていった。
クラシックもピアノも一切拒否し続けると、両親は勝手にすればいいと三行半を突きつけた。まさか、自分たちと同じ血を持つ娘が、音楽を拒絶するなどとは思いもしなかったのだろう。両親の落胆した顔は、今でも忘れない。
その後、お情けとばかりに海外へ移住する事を強制してきたけれど、私はそこからも逃げだした。どこへ行こうと一緒だと思っていたからだ。
ピアノしかない自分の人生が、なんだかとてつもなくつまらなくて、どうしようもないものに思えてならなかった。
この気持ちは、もうどうにもならない。
だって周りにいたのは、プレッシャーをかけ続ける大人たちか、蹴落とそうとするライバルたちだけだったから。
友達なんて言える相手など、存在しない。与えられたものからの重圧に耐え切れず逃げ出した。
そんな私を、もう一度ピアノへ導いてくれたのが彼だった。
音楽は、クラシックだけじゃないよ。
優しく語りかけるような穏やかな瞳。
クラシックしか聴いてこなかった私に、ジャズを教えてくれた人。
ジャズの素晴らしさや、音楽を楽しむことを教えてくれた人。
彼は私の――――。
「涼音 さん、具合悪いの?」
カウンターの向こう側から、まだ幼さの残る顔をした俊 ちゃんが心配してくれる。
薄暗い店内は、幼い頃から通い慣れていて、まるで第二の実家のようだ。十席ほどあるカウンター席も、奥にあるテーブル席も。今は触れることもなくなった、グランドピアノも。存在自体が心を安定させてくれる。
「チェイサー要る?」
「大丈夫。ありがとね」
年下の俊ちゃんに心配させるなんて、ただのかまってちゃんだよね。
目の前のコースターに置かれている、琥珀色した液体の入ったグラスを傾けて、氷の奏でる音に耳を寄せる。
この音は好き。透き通るように奏でる琥珀と、脆く冷たい氷の奏でる音。
耳元でカランと鳴らしてから背後を振り返り、誰も弾くことのなくなったピアノへ視線をやった。
半地下にあるバーの一番奥に佇むピアノは、天井の高い窓辺の近くで寂しげにライトを浴びている。
あのピアノにも、もう随分と触れていない。
「ピアノ。ずっとあのままにしておくのかな……」
ポソリと呟くと、俊ちゃんが困ったように、ううん……。なんて、なんとも言えない声を漏らした。
又だ。アルコールに浸された脳みそは、気遣いという言葉を私から遠ざける。
周囲からの気遣いには大いに甘えるくせに、それを返すことを忘れてしまうなんて、いつか見放されても文句は言えない。
ごめんね、俊ちゃん。
「私が何か言う資格は、無いか」
おどけて笑ってみたけれど、空虚なだけだった。
そんな私を見て、俊ちゃんがまた困った顔をする。
「ゴメンね」
自分のいい加減さに嫌気が差しつつ謝ると、俊ちゃんはブンブンと首を横に振っている。
いい子。
グラスを空にして、ご馳走様と席を立つ。静かに流れるジャズに耳を傾け、今宵の時間を楽しむ数人の客を尻目に出口へと向かった。
ここに居ると私の時間は止まる。いい意味でも、悪い意味でも。
幅の広い重厚な木戸を開け、その戸が閉まると聴こえなくなるジャズにほっとしながらも、寂しさを覚えて俯き、地上に出るゆったりと広く造られた階段をゆっくりと上った。
這い出た夜の天井には、月が煌々と私を見下ろしていた。
生まれた時から家にあった、まるで体の一部のように綺麗な光沢を放つ大きなグランドピアノ。拙くも鍵盤を叩けば、その音色に心が躍らされた。
幼い頃は、触れただけで鳴る音が嬉しくて、メチャクチャな音階さえ楽しかった。
なのに、いつしかピアノに触れる事は苦痛でしかなくなっていく。
毎日何時間もピアノに向かい、指の感覚がおかしくなるほど弾かされて、硬くなる指先を眺めながら出るのは溜息か涙だけだった。
コンクールへ出れば優勝するのは当たり前で、体調が悪くて優勝を逃した日などは両親に烈火のごとく叱られ、食事もままならないほどにいつも以上の練習を強いられた。休むことなど許されなくて、学校の授業よりもピアノが優先されていた。
そのおかげといえば悔しいけれど、いつしか幼い天才ピアニストとしてメデイアでも取り上げられるようになった。そんな中、父と母、周囲からのプレッシャーに私は常に押しつぶされそうになりながら鍵盤を叩き続けていた。
ある日、家電量販店の前に置かれていた大きなテレビで、夢の国が映されているのを目にした。画面の中で小さな女の子が父親と母親両方の手を握り、楽しそうに列車に乗っている姿は、私からしたら異国の世界のように見えた。
両親と手を繋いだ記憶は、あっただろうか。まだ十数年しか生きていない私の記憶の中に、その光景は手繰り寄せても、手繰り寄せても現れなくて、寂しさに心臓が締め付けられるだけだった。
心が締め付けられながらも、画面の中の親子からどうしても目が放せなくて、しばらくそこに立ち尽くしていた。
それが切欠だった。何もかもが嫌になり、自室に閉じこもり、練習も拒否してコンクールをサボり続けた。
何のためにピアノを弾いているのだろう。ピアノってなんなの? 体育の授業も、外での遊びも出来ないピアノって何?
鋏さえ持たせてもらえない。自転車だって禁止だ。公園の遊具でさえ、指に何かあったらどうするんだ、と禁止されていた。
何の楽しみも見いだせず。それ以上に、苦痛でしかなくなったピアノとクラシックを恨むようにさえなっていった。
クラシックもピアノも一切拒否し続けると、両親は勝手にすればいいと三行半を突きつけた。まさか、自分たちと同じ血を持つ娘が、音楽を拒絶するなどとは思いもしなかったのだろう。両親の落胆した顔は、今でも忘れない。
その後、お情けとばかりに海外へ移住する事を強制してきたけれど、私はそこからも逃げだした。どこへ行こうと一緒だと思っていたからだ。
ピアノしかない自分の人生が、なんだかとてつもなくつまらなくて、どうしようもないものに思えてならなかった。
この気持ちは、もうどうにもならない。
だって周りにいたのは、プレッシャーをかけ続ける大人たちか、蹴落とそうとするライバルたちだけだったから。
友達なんて言える相手など、存在しない。与えられたものからの重圧に耐え切れず逃げ出した。
そんな私を、もう一度ピアノへ導いてくれたのが彼だった。
音楽は、クラシックだけじゃないよ。
優しく語りかけるような穏やかな瞳。
クラシックしか聴いてこなかった私に、ジャズを教えてくれた人。
ジャズの素晴らしさや、音楽を楽しむことを教えてくれた人。
彼は私の――――。
「
カウンターの向こう側から、まだ幼さの残る顔をした
薄暗い店内は、幼い頃から通い慣れていて、まるで第二の実家のようだ。十席ほどあるカウンター席も、奥にあるテーブル席も。今は触れることもなくなった、グランドピアノも。存在自体が心を安定させてくれる。
「チェイサー要る?」
「大丈夫。ありがとね」
年下の俊ちゃんに心配させるなんて、ただのかまってちゃんだよね。
目の前のコースターに置かれている、琥珀色した液体の入ったグラスを傾けて、氷の奏でる音に耳を寄せる。
この音は好き。透き通るように奏でる琥珀と、脆く冷たい氷の奏でる音。
耳元でカランと鳴らしてから背後を振り返り、誰も弾くことのなくなったピアノへ視線をやった。
半地下にあるバーの一番奥に佇むピアノは、天井の高い窓辺の近くで寂しげにライトを浴びている。
あのピアノにも、もう随分と触れていない。
「ピアノ。ずっとあのままにしておくのかな……」
ポソリと呟くと、俊ちゃんが困ったように、ううん……。なんて、なんとも言えない声を漏らした。
又だ。アルコールに浸された脳みそは、気遣いという言葉を私から遠ざける。
周囲からの気遣いには大いに甘えるくせに、それを返すことを忘れてしまうなんて、いつか見放されても文句は言えない。
ごめんね、俊ちゃん。
「私が何か言う資格は、無いか」
おどけて笑ってみたけれど、空虚なだけだった。
そんな私を見て、俊ちゃんがまた困った顔をする。
「ゴメンね」
自分のいい加減さに嫌気が差しつつ謝ると、俊ちゃんはブンブンと首を横に振っている。
いい子。
グラスを空にして、ご馳走様と席を立つ。静かに流れるジャズに耳を傾け、今宵の時間を楽しむ数人の客を尻目に出口へと向かった。
ここに居ると私の時間は止まる。いい意味でも、悪い意味でも。
幅の広い重厚な木戸を開け、その戸が閉まると聴こえなくなるジャズにほっとしながらも、寂しさを覚えて俯き、地上に出るゆったりと広く造られた階段をゆっくりと上った。
這い出た夜の天井には、月が煌々と私を見下ろしていた。