19.挑戦

文字数 1,932文字

 手の震えを克服した。
 そう胸を張って言えるほど、簡単なことでないのはわかっている。
 あの日から今までの時間はけして短くなかったし、その時間を飛び越えるようなマネなど簡単じゃない。
 けど、それでも。今私のそばにいてくれて、いつだって笑顔でほらできたって顔してくれる成瀬が一緒なら、今度こそ乗り越えられると思ったんだ。
 昼間とはいえ、定休日の店内は静けさに満ちている。叔父がボリュームを下げてかけてくれているジャズに耳を傾けながら、何度も深呼吸を繰り返した。
「硬くなりすぎ」
 肩もみでもするみたいに、成瀬が私の両肩を揉みほぐしてくれるのはありがたいのだけれど。
「ごめんっ。くすぐったい」
 肩こりの経験がないせいか、肩を揉まれるとくすぐったくてたまらない。
 体を捩って成瀬の肩もみから逃れ、叔父が入れてくれた琥珀を口に含んだ。いつもの味といつもの美味しさが、今日は特別であっても、特別な日ではないと言ってくれているみたいで安心できた。
 不安そうな顔を見せないようにしているせいか、逆に顔が少しこわばっている叔父をも和ますように、成瀬がまず俺が弾く? なんて戯けている。
「猫踏んじゃった、覚えたの?」
 ふざける成瀬に意地悪な視線を送ると、少しばかり焦った顔がおかしい。
 あー。なんか、うん。この感じ。こういう感じでいいんだよね。
 日常会話に肩の力が抜けていく。舞台で弾くわけでも、沢山の観客がいるわけでもない。
 聴いてくれるのはずっと見守り続けてくれた心配顏の叔父と、時々天然なところもあるヘラヘラ顏の成瀬だけだ。
 たった二人の観客のため。そして、自分自身に向き合うための今日だ。
 ピアノの前に座り、成瀬とやりあう冗談でどんどんリラックスしていく。
 まるでテレビコマーシャルみたいにキザな感じで琥珀を飲み干し、アルコールにぎゅっと顔をしかめてからグラスを譜面台の上に置いた。
 譜面版の隣で窓辺から入る昼間の光を受けるグラスから、視線を鍵盤へと移す。
 もう一度深呼吸。深く、長く。
 頭の中を空っぽにするみたいに、呼吸と一緒に余計なものを吐き出す。気づけば生音のスタンバイに遠慮して、流れていたジャズは音を潜めていた。
 少し離れた場所にあるテーブル席に腰掛けた成瀬が、何の緊張感もなくカリカリなんて音を立ててナッツを食べるものだから、もう笑うしかない。
 緊張感の欠片もない彼に視線を送り、片方の口角をあげた。
 いくよ。それが合図。
 ずっと弾くことも聴くことも、あの日以来避け続けてきた曲。彼の大好きだった曲だ。
 征爾は、私がビル・エヴァンスに似ていると言った。それはきっと、クラシックをしていたことを重ねたに過ぎないだろう。
 けれど、征爾が姿を消してからの私は、似ているという意味が重く圧し掛かり続けて苦しみが増していた。
 潰れてしまった彼のように、破滅してしまうんじゃないかって怯えていたけれど、私はビル・エヴァンスのようにピアノの前で潰れたりしない。
 征爾へ犯した罪を忘れるわけじゃないし、今までもう二度と弾かないのが罪滅ぼしだと思って生きてきた。弾こうとして手が震えてしまうのは、そんな感情の現れだからと受け入れようとしてきた。
 けど、違う。苦しみを背負ったまま、私は弾き続ける。
 征爾のために。私のすべての音を征爾へ届けるために。
 鍵盤に優しく指を置き、一拍の間。そこから指を沈め、最初の音は少し優しく。
 指先にパワーを送り、五感に刺激を与える。譜面がなくても、耳と指が憶えている。
 リズムは心で、体で。
 踊る指先。
 優しく、柔らかく。
 脳内で音符がはじけて遊ぶ。
 けれど慎重に、かつほんの少しのアレンジをきかせて。
 ほらっ、いけた。
 楽しくて自然と肩が揺れる。
 ああ、鍵盤の感触。
 そう、こうだった。硬くてツヤツヤで、高貴な王子様みたい。
 間違った音なんて鳴らしたら、失礼になってしまう。
 でも、大丈夫。今日の私なら、王子様を満足させられる。
 ほら、どう?
 こんな風にメロディーを奏でられるなんて、恍惚としない?
 ベースがないのは、残念だなんて言わないでね。陶酔しそうになっても、遠くへなんか行かせない。
 私の音を聴いて。こんなに楽しく踊る指を見て。
 ほんの四分強の曲。
 叔父が静かに泣いているのが視界に入る。
 ナッツを手に持ったまま、奏でる音に夢中になっている成瀬も見える。
 なんだ、私随分と余裕がある。
 だって、楽しい。
 Waltz for Debby 。
 インテリジェンスなあなたみたいに。けれど、あなたと同じ結末など望まない。
 私は私だから。
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