2.無意味に過ぎる

文字数 1,670文字

 毎日思う。どうして決まった時間にしっかり起きているのだろうと。
 朝食も食べ、決められた場所に向かい、決められた仕事をこなして帰宅する。ずっと引き篭もってばかりもいられないのだから、生きていくためには必要なのはわかっている。
 このままでいいわけでも無いのに、疑問を持っても追求する事なくルーティーンワーク。繰り返し、繰り返し、流れに任せる楽な道は、ただ毎日生きているというだけのこと。
 呼吸する資格だけは、まだあるみたいだ。
 引き篭もっていた私に手を差し伸べてくれたのは、家族からは変わり者だと言われている叔父だった。私は変わっていると感じたことなどないけれど、一人だけクラシックとは無縁の世界にいることが、家族にしてみればそういわせる要因なのだろう。
 家からほんの数分の場所に、叔父の開いているジャズバーがある。音楽一家の、叔父は一人だけジャズにのめり込み、バーを経営していた。
 思い出してみれば、音楽界やコンサートで度々留守にする両親にかわって、幼い私のことをみてくれていたのは叔父だった。自分がジャズを好きだからといって、私に強制することもなかったおかげで、叔父の経営するバーはとても居心地のいい場所だった。
 いつまでもフラフラとしているわけにもいかず、叔父の伝手(つて)で入社した会社には、幸いなことに私の過去を知る人はいなかった。おかげで昔のことを無理やり穿り返されることはないけれど、別段居心地がいいわけでもない。
 私が呼吸していく為に必要な唯一のものは、ジャズの流れる叔父のバーへ通うこと。聴くことに悲しみを覚えながらも、私はあの場所に通い続けている。
 贖罪? 都合がいい話に、嘲笑うしかない。
 彼がいなくなった今も、バーへ通うことに本当は意味などない。想い出の詰まった場所にいるのはとても辛いけれど、もうあそこにしか居場所はないのだ。

 頼まれた書類を、デスクでただひたすらに入力していた。ピアノにしか触れてこなかったせいで、初めはパソコンなんて触ったこともなく、入力して欲しいといわれた瞬間途方に暮れたっけ。
 直ぐに俊ちゃんへ連絡をして、事細かく使い方を伝授してもらった。あれは、かなり迷惑をかけたと今でも申し訳なく思うし、とても感謝している。
 今では、ブラインドタッチもお手の物だ。悔しいけれど、指先の器用さはピアノのおかげだろうと思う。
 黙々とパソコン画面だけを見て入力を続けていると、今日も少し離れた場所から相も変わらずつまらない噂話しに盛り上がる女性社員たちの視線が向けられていた。
「澤木さんて、無愛想だよね。笑ったところ、見たことある?」
「ないない。いつも、ぶすっとしてるし。だいたい、あんなんで生きてて楽しいの? って訊きたくなるよね」
「そうそう。あ、けどー。なんでもお嬢様らしいよー」
「そうなの? ていうか、お嬢様なのにOLって。本当にお嬢様なの? 自分で噂流してるとか?」
「それ、イタ過ぎ」
 ケラケラと聞き苦しい声をあげて笑い合いながら話す無駄話は、興味本位と悪意の塊だ。私に聞こえているのを解っていてコソコソとする。くだらない連中。
 聞こえないふりも面倒だけれど、くだらないことに関わるのはもっと面倒だ。辟易としながらため息を一つ零し、任されている仕事を黙々とこなしていく。
 無闇に過去へ触れられないこの場所では、代わりのように今のような噂話が日常的に繰り返されていた。自分のことを何も話さない上に、誰にも近づかない私が、悪い意味で気になるのだろう。
 きっとみんなヒマなんだ。他人のことを詮索できるなんて、余裕のある日常じゃないの。まったくおめでたい。
 私は、ただ毎日を越えるだけで、それ以上でもそれ以下でもない。もう何かに興味を持つこともない、ただの生きる屍だ。
 いつまでこんなことを続ける気?
 時々、どこかで誰かがそう囁きかけても、私はそれに耳を塞ぐ。そんなの聞きたくないし、考えたくないと。
 そうして、針が定時を告げるのをひたすらに待つだけ。
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