30.生と死のパラドックス:後編

文字数 2,705文字

幹太。あなただって本当は我慢しているんでしょう? どうして生きてるの?

 まるで、生きていることのほうがおかしいと言わんばかりの台詞だった。


 人によっては、「死ね」とも聞こえるかもしれない。


 だが、僕にはちゃんと届いた。


 レン子先輩が本当に知りたいことは、生きる方法なのだ。

――僕には、レン子先輩を悩ませる生と死のパラドックスを斬ることなんてできない。でも、僕がどうして今も生きているのか、この先も生きようとしているのかは、説明できます。

 正直に告げたら、レン子先輩の瞳が興味深げに光った。

それはよかった。参考にしたいから、教えてくれない?
いいですよ。

 今まで、誰にも教えたことのない理由。


 他の人はきっと笑うだろうことも、この人なら真面目に聴いてくれる。


 そう、思えたから。

理学の世界って、いろんな法則があるんですけど、大抵の関係式はあいだにイコールが入るんです。
あー……E=MC²みたいなもの?

 レン子先輩が例に出したのは、アインシュタインが生み出した世界一有名と言われる式だった。


 科学雑誌を読んでいるだけあって、それなりに詳しいらしい。

そうです。つまりどういうことかというと、左右は必ず釣りあうということです。
まあイコールだから、そうなるわよね。で?
極端な話、この世界にあるあらゆるものが、なんらかの手段を用いれば釣りあう可能性を秘めている――僕はそう考えました。だから、これまでの僕のどうしようもない人生にも釣りあうなにかが未来にあるんじゃないかって。

 そのとき、レン子先輩は目を丸くした。


 出会ってから今までで、初めて目にする表情だった。

人生を公式に当てはめようとしたの?
あてはまるものがなかったので、探しているんですよ。今、まさに。
あっ

 そう、それこそが、僕の生きる意味。


 僕は自分の人生そのもので、実験することを思いついたのだ。

なにをやってもダメだった今までと釣りあうには、生半可な幸運だけではとても釣りあわない。でも、僕の人生にそんな幸運が訪れるなんて、やっぱり思えない。きっと、なにかしらの要素が必要なはずです。
足したり引いたり、割ったり掛けたり?

 レン子先輩の口調は、ひどく楽しそうだ。


 その珍しい姿に内心ホッとしながら、僕は言葉を続けた。

そうです。ただ生きるのは苦痛でつまらなくても、毎日が実験だと思えば、試行錯誤はそれなりにやりがいがあります。
うわー、理系っぽい考えかたね。
自覚はあります。でも僕は、こう考えるようになってから、生きるのが少し楽になりました。大学に入ったら根暗な自分を変えて青春をエンジョイするんだ! ――などと前向きに考えられるくらいには、未来に期待を持つことができたんです。
それは悪いことしたわね。パラ研じゃ、青春なんて謳歌できないもの。
そんなことはありません。

 もう、レン子先輩をまっすぐ見つめることに、戸惑いはなかった。

そりゃあ最初は、なんだかよくわからないサークルに入っちゃったなって、思いました。パラドックスって言われてもピンと来ないし、レン子先輩はともかく、石橋先輩とギャル子はどう見ても普段接する機会のないような人種でしたし。
ふたりとも、社交的だものね。
でも、実際に話してみたら、結構話しやすくて……レン子先輩が出してくれるパラドックス問題も、普段考えないようなことがたくさん出てきて、楽しかった。久々に、楽しいと思えたんです。
ならよかった。本当は、幹太は迷惑してるんじゃないかって、少し不安だったの。

 意外な言葉に、今度は僕が目を丸くする番だった。

……レン子先輩でも、そんなこと思うんですか?
あんた、私をなんだと思っているのよ。
す、すみませんっ

(いつもは石橋先輩にしか言わない「あんた」をいただいた……!)

 なんでか、やけに嬉しかった。


 僕は――

僕はね、レン子先輩。もしかしたら、見つけたのかもしれない。これからの僕の人生がいいものになるために、必要なもの。
え……?
レン子先輩ですよ。あなたと会えたことで、僕の人生はきっと、今までとは違う方向に向かう。どうしてか、そんな気がするんです。だから……

 僕は椅子から立ちあがると、レン子先輩の傍まで行った。

だから、お願いですから、死ぬだなんて言わないでください……っ

 一方的な懇願だ。


 僕にそんな権利も、資格もないことはわかっている。


 レン子先輩にとっては、迷惑でしかない言葉であることも。


 それでも、言わずにはいられなかった。


 僕に居場所をくれた彼女を、易々と失いたくはない。


 生きることがつまらなくても、苦痛でも、それでも生きていてほしい。


 そう思えたのは、初めてのことだった。


 そして――


 つぅーと、楽しそうだった彼女の瞳から、ひと粒落ちる。


 いつの間にか泣いていた僕と呼応するように、レン子先輩も泣いたのだ。


 やっぱり初めて見せる顔で。

――幹太。
は、はいっ?
私も、わかったかもしれない。
え……?

 幾筋流れても、まったく気にしない様子で、レン子先輩は僕を見あげてくる。

死んだほうが楽なのにどうしてみんな生きているのか
あっ、パラドックスが解けたんですか!?
あんたのおかげでね。

 ふわりと、笑顔を見せた。

『死なないで』って、言ってもらえる言葉が、嬉しいのよ。悲しませたくないって、思うんだ。私、そんなの綺麗事だとずっと思ってきたけれど――今初めて、それを実感できたわ。
レン子先輩……
幹太の言葉が、いちばん胸の奥まで響いたから。
……っ

 誰かのためになれることなんて、絶対ないと思っていた。


 僕が誰かを救えることなんて、ありえないと。


 でも――僕にもまだ、できることがあったんだ。


 話を聴くこと。


 苦しみを分かちあうこと。


 自分の意見を、素直に伝えること。


 そのどれもが、あたりまえの行動で。


 それでも、誰かの思いを変える力を持っている、大事な行動で。


 僕は今それを、実感していた。


 なにかを成し遂げたわけでもないのに、涙がとまらなかった。


 そんな僕を、同じように涙に濡れたレン子先輩が抱きしめてくれる。


 久しく感じたことのない温もりに、よけい涙が溢れた。

……ねぇ、幹太。
は、はいっ!?

 それでも返事だけはしっかりする僕がおかしかったのか、レン子先輩は肩口で小さく笑う。

私、もうひとつ知れたかもしれないわ。
え?
私はそれを知らなかったから、名乗るのが恥ずかしくて、ずっと隠してきたの。
ん? なんの話ですか……?

 反射的に訊ねると、レン子先輩は僕の頬を両手で包みこみ、自分のほうを向かせた。


 そして、最も破壊力があり、かつ、衝撃的な言葉を口走る。

私の名前。本当はね、『恋する子』で『恋子』というのよ。
(続く)
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登場人物紹介

乾 幹太(いぬい・かんた) 大学1年生


とにかく根暗。

犬飼 レン子(いぬかい・れんこ) 大学?年生


パラ研の魔女。

石橋 仁(いしばし・じん) 大学3年生


明るい好青年。レン子の飼い主。

ギャル子(本名不詳) 大学2年生


見たまんま。

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