29.生と死のパラドックス:前編

文字数 2,432文字

生きることに、偏っている……?

 また出てきた。


 今まで思いもしかなかったこと。


 あたりまえだと感じて、考えることすらしてこなかった、現実。


 言葉をくり返した僕に、レン子先輩は軽く頷く。

そう思わない? もし私たちにも、エントロピー増大の法則が当てはまるなら、私たちは『生』という偏った状態から、『死』という偏りがない状態に向かっていくことになる。
でも実際には、人間は食べることでエネルギーを得ますから、法則の条件に当てはまっていませんけど……
わかっているわよ。だから『もし当てはまるなら』って言ったでしょ。
は、はい、すみません……

 ここはよけいな口を挟まず、最後まで聞いたほうがよさそうだ。


 覚悟を決めた僕は、なんとなく居住まいを正す。


 さっき紅茶を飲んだばかりだというのに、口のなかが渇いているのは、緊張のせいかもしれない。

(――だって、ずっと気になっていたんだ。レン子先輩の言う『生と死のパラドックス』って、一体なんなんだ? レン子先輩ほどの人が解けないなんて、よっぽど難しい問題なんじゃないか)

 それを僕が聞いたって、答えを指し示してあげることなんて、きっとできない。


 だが――ほんの少しでもいい。


 僕に話すことで、答えの尻尾を掴めたら――。


 そう願わずにはいられなかった。


 そんな僕の思いなどつゆ知らず、レン子先輩は再び饒舌に語りはじめる。

私たちはね、生まれた瞬間から、死に向かって歩きはじめているのよ。死は私たちの身近にあるもので、生きている人は常に二分の一の確率で死ぬ。
た、確かに、そうですね。

 僕が次の瞬間も生きているかなんて、本来ならば誰にもわからないことだ。


 ギャンブラーの誤謬の話ではないが、さっきまで生きていたからといって、次に死ぬ可能性が高まるわけでもなければ、連続で生きつづけることが難しいわけでもない。


 誰にでも、死の可能性は常につきまとっている。


 人が普段それをほとんど意識しないのは、心のどこかで「今生きているんだから次の瞬間も大丈夫」という、確信に近い気持ちを抱いているからだ。


 だが逆に言えば、そう思えなければ毎日怯えて暮らす羽目になるのかもしれない。


 それはそれで、あまりよくないことのように思えた。

(レン子先輩は結局なにが言いたいんだろう?)

 思わず首を傾げた僕を見てから、レン子先輩の口もとが動く。

ねぇ幹太。それだけ『生』と隣り合わせにある『死』を、どうして人は悪のように捉えるの?
え?
みんな、死んでは駄目だと言うの。自分から死ぬのは、悪いことだからって。だから私は、仕方なく生きつづけている。生と死のパラドックスを、解明しようとしている。
……っ

 そこで僕はやっと、石橋先輩が飼い主として傍にいる意味を、悟った。


 きっと、なにかの拍子にレン子先輩が死んでしまわないように、気にかけているのだろう。

……レン子先輩は、死にたいんですか?
死にたいわよ。だって、生きていたってなんにもいいことないもの。
嫌な人生だったんですか。
あなたもそうでしょ? 幹太。
……否定は、しません。

 特別なにか、とてつもなく悪いことがあったわけでも、つらいことがあったわけでもない。


 漠然と生きて、自分のレベルを知って、こんなもんかと思って、なにをやってもうまくいかなくて……。


 他の人が聞いたら、「なんだそんなことか」って笑い飛ばしそうなほど、生き甲斐のない人生だった。


 大学生が人生を語るなって言われるかもしれないが、本人はいたって真面目にそう思っているのだ。


 どうしようもない人生だった、と。

何度も死にたいと思ったけれど、そのたびに反対されるのよ。せっかく健康で生きているのだから、自分から死ぬなんてとんでもないって。私に言わせれば、生きているからこそ死を選ぶ権利があると思うのだけど。あなたはどう思う? 幹太。
え、えーと……

 なんと言ったらいいかわからず、口ごもってしまった。


 僕の返事を待たずに、レン子先輩はさらに口を開く。

結局、みんなマゾなのよね。
え、マゾっ?
だってそうでしょう? 死ぬほうがはるかに楽なのに、みんな無理して生きている。死を悪と決めつけて、けっして近寄らないように、小さい頃から洗脳しているようなものよ。どうしてなのかしら。
レン子先輩……

 それが、レン子先輩をずっと悩ませてきた、生と死のパラドックスの正体なのだ。


 死を選んではいけない理由がわからない。


 悲しむ人がいるから?


 周りに迷惑をかけるから?


 生きたくても死んでいく人がいるのに、自分から死ぬなんて卑怯だ?


 そんなありきたりな言葉では、きっとレン子先輩を納得させることはできない。


 必要なのは――そう、きっと屁理屈なのかもしれない。

私はね、本当は、卒業しようと思えばいつでもできるの。だけど、この答えが出ないまま社会に出ても、きっとうまくいかない。それこそ周りに迷惑をかけるだけだって、わかっている。だからパラ研に残って、考えつづけているのよ。

 両親はそれを許しているのか?


 なんて、訊くまでもなかった。


 おそらく、レン子先輩を死なせないために、パラ研に幽閉しているのは彼らなのだ。


 ここにいるあいだ、少なくともレン子先輩はパラドックスについて考える。


 考えつづける。


 その目的がある限り、不用意な死は選ばないから――。

……っ

 そういった背景を知って、背中がゾクリとした。


 僕はここに来て、ただレン子先輩の話し相手をしていたようなものだ。


 だが、そんな僕に知らず課せられていた使命は、レン子先輩の命を繋ぐことだったのかもしれない。


 レン子先輩がけっして笑わないのは、本当に単純な理由で、生きることが苦痛だったからなのだ。


 レン子先輩の顔をまっすぐに見られなくなってしまった僕を、責めるようにまっすぐ飛んでくる言葉。

幹太。あなただって本当は我慢しているんでしょう? どうして生きてるの?

(続く)




Q.死んだほうが楽なのに、どうして生きてるの?

  ぜひ考えてみてください。

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登場人物紹介

乾 幹太(いぬい・かんた) 大学1年生


とにかく根暗。

犬飼 レン子(いぬかい・れんこ) 大学?年生


パラ研の魔女。

石橋 仁(いしばし・じん) 大学3年生


明るい好青年。レン子の飼い主。

ギャル子(本名不詳) 大学2年生


見たまんま。

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