22.期待値に期待してはいけない:後編

文字数 2,172文字

さあ幹太。今の答えを踏まえて、さっきの問題を考えてみて。交換するのとしないの、どちらが得か?
あ……っ

 軽く忘れていた。


 なんて怖くて言えなかった。

(落ちつけ僕! ようは、最初の問題も期待値を求めてみればいいってことなんだろ?)


 そう考えて、再びメモ帳に書き出してみる。


 ちなみに、最初に使ったペンはまだ戻ってきていないので、新しいペンを取り出した。

さっきの話だと、金額と確率を掛ければいいんだから――

  20,000円(封筒の中身)×1/2(封筒の確率)=10,000円

   5,000円(封筒の中身)×1/2(封筒の確率)= 2,500円

                      合計 12,500円

――期待値は、一万二千五百円!
そうなるわね。つまり、手持ちの一万円よりも多くなる。
ということは、交換したほうが得……?

 僕がそう口にしたときだった。


 石橋先輩が、突然手をあげたのだ。

はいはい! ちょっと待てっ。それって手持ちが二万の場合も、同じ結果なのか!?

 やはりというかなんというか、石橋先輩が二万円入りを持っているのは確かなようだ。


 仕方ない、一応計算してみよう。

手持ちが二万だと、もう片方は四万か一万になるから――

  40,000円(封筒の中身)×1/2(封筒の確率)=20,000円

  10,000円(封筒の中身)×1/2(封筒の確率)= 5,000円

                      合計 25,000円

――うん、期待値は二万五千円になりますね。やっぱり手持ちよりは多いです。
よっしゃあああ!
交換するっス!

 ふたりは嬉々として、互いに手にした封筒を差し出した。


 どちらも期待値を信じて。

(……ん? あれ、でもなんか、変じゃないか?)


 そのとき僕は、強い違和感を覚えたのだ。


 確かに、計算上はどちらも期待値が手持ちを上まわる。


 しかし、ふたりが交換する相手はお互いなのだ。


 第三者と交換するわけではない。


 つまり、どちらかが必ず損をすることになるのではないか……?


 僕がその考えに至ったときだった。

ぎゃあああああ
やったーっス!

 悲鳴と歓喜の声が、同時に聞こえた。


 封筒からはみ出したお札を見やると、石橋先輩は一万円、ギャル子は二万円のようだ。

なんだよ、期待値で期待させといて、この仕打ち……!
ふっふっふ、信じるものは救われるっス~。

 今にも泣き出しそうな石橋先輩と、すっかり浮かれているギャル子があまりに対照的で……面白い。

なるほど、これがこの問題のパラドックスなんですね……

 理解した僕の言葉に、レン子先輩は頷いて応えた。

そう。期待値上はどちらも得をする可能性のほうが高いのに、どちらかは絶対に損をする。これは『交換のパラドックス』と呼ばれているわ。
ちなみにこれ、片方が交換を申し出て、片方が断ったら、どうなるんですか?
そりゃあ、交換は不成立になるのだから、パラドックスは発生しないわ。

 それを聞いた石橋先輩が、再び吠える。

ちくしょー! 断ればよかった……っ
まあまあ。バシ先輩は男らしく賭けて負けただけっスから、そう落ちこまずに!

 それをギャル子が宥めても、完全に逆効果だ。

返せー、俺の二万円~!
嫌っスよ~。

 狭い部室のなかで、バタバタと走りまわるふたり。


 それを見かねたのか、レン子先輩は口にした。

心配しなくても、それはあとで回収するから。
えっ!?

 ふたりの声が再び揃ったのは、言うまでもない。

あとね、期待値はあくまでも期待値でしかないの。有利か不利かを判断する材料にしかならない。わかるでしょ? いくら有利と言われても、負けることはあるわ。
た、確かに、そうですよね……

 どんなに頑張って計算しても、それはあくまで目安でしかないのだ。


 過信するのも考えものだろう。

自分の直感を信じたほうが、案外うまくいくことだってある。
じゃあ期待値って、なんのためにあるんだよ!?

 石橋先輩が切れ気味なのは、やはり負けたこと自体が悔しいからか。……たんに一万円さえ取りあげられたからかもしれないが。


 レン子先輩は怯まず、腰に手を当てる。

決まってるでしょ。今まさに、あんたが陥っているような状態を、端から見て楽しむためよ。
なにぃっ
期待値に期待して過剰な希望を持つから、外れたときのダメージが大きいの。期待値は、期待しないくらいがちょうどいい。これが私の持論よ。
キャー! レンちゃんかっこいいっス~。
ははは……

 言っていることはめちゃくちゃだが、言いたいことはわかる。


 期待すればするほど、それが叶わなかったときの落胆は大きくなるのだ。


 それならば、最初から期待せずにいたほうがいい。


 同じ後ろ向き人間だからこそ、僕は共感できた。

……期待しなくても、挑戦はできますもんね。
そうよ。いいこというじゃない、幹太。前向きに挑戦しなきゃ成功しないなんて、私は信じていないから。

 そう告げるレン子先輩の瞳に、迷いは少しも見られなかった。


 ずっと思いつづけていた言葉なのかもしれない。

レン子先輩は、なにか挑戦中なんですか?

 なんとなく訊ねた僕に、やっぱりいつもと変わらない表情で。

前にも言ったわよね。どうしても解けないパラドックスに挑んでいるの。
あ、そういえば……
それはね、生と死のパラドックス。いつか……あなたになら、話せるかもしれない。

(続く)

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登場人物紹介

乾 幹太(いぬい・かんた) 大学1年生


とにかく根暗。

犬飼 レン子(いぬかい・れんこ) 大学?年生


パラ研の魔女。

石橋 仁(いしばし・じん) 大学3年生


明るい好青年。レン子の飼い主。

ギャル子(本名不詳) 大学2年生


見たまんま。

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