28.偏らない偏り:後編

文字数 2,104文字

紅茶は必ず冷めるわけじゃない。私はその方法を、知っているの。
そ、それは……エントロピー増大の法則に逆らう方法ということですか!?
違うわよ。

 あっさりと否定され、コントのようにガクッとなってしまった。


 僕は気を取りなおし、なんとかレン子先輩の真意を探ろうとする。

じゃあ、じゃあ、一体どうやって……

 手のなかの紅茶は、まだ少し残っている。


 でも、これ以上飲む気にはなれなかった。


 そんな僕に、レン子先輩はいつもの真顔で告げる。

たとえば今、あなたがその紙コップを持ったまま、サウナに行ったらどうなる?
……少なくとも今の紅茶よりは、温かくなるでしょうね。でもそれは――

 放置していない。


 外からなんらかの力を加えた場合は、エントロピー増大の法則に当てはまらない。


 僕はそう言おうとした。


 だが、レン子先輩のほうがずっとうわ手だった。

じゃあ、最初からサウナにいたらどう?
えっ?

 遮って告げられた言葉に、ハッとする。

あ……す、少なくともあまり冷めませんね。

 試したことはもちろんないが、想像はついた。


 僕の答えに軽く頷いて、レン子先輩は続ける。

ねぇ、幹太。エントロピー増大のたとえって、どうしていつも冷めるほうなの? 温かい飲みものが何度なのか、それが置かれた部屋の温度が何度なのか、どこにも書いていないのに、飲みものはあたりまえのように冷める。まるで、冷めること=エントロピーが増大することみたい。
そ、それは……温度の偏りがなくなる状態が、わかりやすいからだと……

 なんとか応えても、攻撃は終わらない。

実際には、冷めるだけじゃないわよね? 冷たい水をサウナに置いたら、自然と温まる。そういうたとえだってあってもいい。でもみんなはなぜか、冷めていくことのほうが自然な状態だと捉えているの。

 それからまっすぐに、僕の目を見た。

わかる? 偏りがなくなることの説明自体がひどく偏っているのよ。これってパラドックスだと思わない?
あ……っ

 今までそんなこと、一度も考えたことがなかった。


 レン子先輩に出会ってから、何度そう感じたことだろう。


 思いもよらない視点から斬りこんでくる。


 恐ろしい魔女。

言われてみれば確かに……たとえに出されるのは、大抵冷めるほうですね……

 レン子先輩の言うように、それはきっと、そのほうがわかりやすいと説明する側が思っているからなのだろう。


 僕だって、説明しろと言われたら、同じように説明するに違いない。


 だがレン子先輩は、それに警鐘を鳴らしているのだ。

その結果、飲みものが冷めるほうにばかり目がいって、ほんの少しだけ暖まった空気のことなんて誰も気にしない。でもそれじゃあ、エントロピー増大の説明としては不完全だと思わない?
……あまり知識のない人が聞いたら、勘違いする可能性は、充分にあると思います。
正直で結構。

 レン子先輩は満足そうに頷くと、不意に僕から視線を外した。

本当は、こんな屁理屈になんの意味もないって、わかっているの。

 ポツリと呟かれた言葉に、僕は目を見開く。

どうやっても偏りはなくならない。そういうものがあることも、知っている。
レン子先輩……?

 今日のレン子先輩は、どこか変だ。


 いつも以上に暗く思えるのは、もしかしてふたりきりだからなのだろうか。


 だとしたら、責任を感じてしまう。


 どう応えたらいいかわからずに困っていると、また唐突に、レン子先輩が話題を変えてくる。

――ねぇ。幹太は今までの人生、楽しかった?
いいえ。

 さいわい即答できる質問で、戸惑う必要もなかったので助かった。

嫌なことばかり、ありました。自分は運に見放されてるって、何度も思いました。親からは明るくなれとか社交的になれとか、いろいろ言われてきたけど、そもそもそうなれる環境なんかじゃなかったです。

 僕だって、好きで根暗な引っ込み思案になったわけじゃない。


 前向きに生きたい気持ちだってあった。


 でも常に、裏切られてきたのだ。

そう。
あ、で、でもっ、パラ研にいるのは、結構、好きです。考えるのは楽しいし、みんなちゃんと褒めてくれるし……
そっか。

 自分から訊いたくせに、素っ気ない返事のレン子先輩。


 僕はひとつツバを呑みこむと、勇気を総動員して口を開く。

あの……レン子先輩は……?

 訊かずにはいられなかった。


 僕と似ていたから。


 いつも部室に籠もっていたから。


 七年も大学にいるから。


 ――僕を、選んでくれたから。


 きっとそれが、僕の役目なのだろうと思った。


 今日他のふたりがいないのも、きっとそのためなのだと。

レン子先輩も、楽しくなかったんですか? それに、前言ってた『生と死のパラドックス』って……?

 核心に迫る。


 僕の鼓動はすっかり速まっていた。


 レン子先輩はもう一度、僕を見返す。


 感情の見えない、ただ真面目さだけがわかる顔で。

さっき、言ったでしょ。
え?
どうやっても偏りはなくならない。私は、無意味に、生きつづけていた。
無意味に……?

 これまでの人生すべてを否定したような言葉に、背中がゾクリとする。


 だがレン子先輩は、世間話をするような気安さで、続けた。

生きるということに、偏っているのよ。そう、今も――
(続く)
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登場人物紹介

乾 幹太(いぬい・かんた) 大学1年生


とにかく根暗。

犬飼 レン子(いぬかい・れんこ) 大学?年生


パラ研の魔女。

石橋 仁(いしばし・じん) 大学3年生


明るい好青年。レン子の飼い主。

ギャル子(本名不詳) 大学2年生


見たまんま。

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