終.卒業を選ぶ
文字数 3,146文字
彼女と出逢ってから、およそ一年が経過した。
今日はとうとう、彼女が大学を卒業する日だ。
――七年も通いつづけた部室から、巣立つ日。
僕は自分でも似合わないと思いながらも、用意した花束を手に彼女を待っていた。
石橋先輩とギャル子は、昨日散々お別れを言ったからと、今日は部室に来なかった。
僕に気をつかっているのかもしれない。
彼女をずっと悩ませてきた、生と死のパラドックス。
それをふたりがかりで斬ったあの日から、僕たちは一応恋人同士的な関係になった。
どうして「的」なのかというと、お互いに気持ちを確認しあっただけで、以降特に進展がないからである。
でも、僕はそのほうがよかった。
今まで恋人なんていたことがないのに、急にそれらしい態度を求められても困る。
しかも、部室にはいつも石橋先輩やギャル子がいるのだ。
すぐに感づかれて、散々からかわれるであろうことは、目に見えていた。
それに、多分、彼女も同じ気持ちだったと思う。
いくら前向きに生きようと思えるようになったとしても、急に変わるなんて、やっぱり無理だ。
オンオフを簡単にできるような性格なら、そもそも僕らはこんなに淀んでいないだろう。
結局のところ、どこからどう見ても、僕らは似た者同士なのだ。
思いが通じ合ったからこそ、僕は改めてそう思った。
いつの間に入ってきたのだろう。
彼女はすでに部屋のなかにいて、僕の顔を覗きこんでいた。
相変わらず真顔だが、冗談で言っていることはわかっていたから、僕もおどけて応えた。
自分の視界に手もとの花が入り、はたと思い出す。
急いで椅子から立ちあがり、前屈みになりながら花束を差し出した。
他の女性陣とは違い、本当にいつもどおりの格好の彼女は、少しはにかんだ笑顔で手を伸ばしてくる。
ずっと真顔だった頃に比べたら、だいぶ表情が出てきて、嬉しい。
彼女のおかげで、僕のほうこそ前向きになれたから、受け取ろうとした彼女の指先が僕の手に触れても、跳びあがったりはしなかった。
むしろもっと触っていてほしいと思えるくらいには、成長できている。
やっぱりお互い、正しく偏りはじめている。
それを感じられて、ますます嬉しかった。
逆にお礼を言いたいくらいだ。
すごい返しをされそうだから、言わないが。
彼女は花束を抱えたまま、いつもの席へと向かう。
それを目で追ってから、聞くまでもなかったと悟った。
僕も席に着いたのを確認してから、彼女は再び口を開く。
どうやら僕の受け答えは、彼女が期待するものだったらしい。
自分が勝手に辞めるのに、まるでそのことを正当化するような言いまわしに思えたのだ。
捻くれている僕だからこそ、そう感じてしまったのかもしれないが――
彼女を納得させる言葉を紡ごうと、僕は必死に考えながら口を動かす。
その甲斐あって、彼女は「そうね」と頷いてくれた。
「ですね」と、僕も相づちを打とうとした。
できなかったのは、彼女がすぐに続けたからだ。
その険しい表情に、心臓がヒュッとなる。
ここにきてまだ、彼女を縛るものがあるのだろうかと、不安になったのだ。
なにか新しいパラドックスが、彼女を悩ませているのではないかと。
しかし――
やがて彼女は、フッと笑った。
あっさりと明かして、なおも軽やかに。
僕は導かれるように、答えに辿り着く。
ずっと彼女が、望んでいたもの。
けれど叶わなかったもの。
今はもう、遠ざけていたいもの。
そこにパラドックスはない。
だからもう、選ばない。
落ちついた声音で、彼女は解説を始める。
いつものように。
もうここでは聞けない言葉を。
実に彼女らしい屁理屈だ。
僕は思わず笑ってしまう。
そう思えた。
実は、卒業後の進路すら知らないのだが。
彼女がどんな道を選んでも、やっぱりパラドックスを探して、無闇に斬って楽しむのだろう。
そんな姿が簡単に想像できて、安心したのだ。
やっぱり僕も、ちょっと変なのかもしれない。
一応少しくらいは今後のことも聞いておこうかと、切り出す。
「始める」でなく「始まる」という言葉を選んだのは、そのほうがきっと彼女は喜ぶだろうと思ったからだ。
なぜなら、僕と似ているから。
自発的になにかを始めるタイプじゃない。
案の定彼女はにんまりと口角をあげて、僕を見た。
始まるのは、新しい関係。
ほんのちょっとだけ、近づくであろう距離を想像して――
常に増大しようとするエントロピーに、逆らって。
同じように、明るい未来を探して。
僕らはこれからも、偏りつづける――。
(了)