9.漠然とした囚人:前編

文字数 2,484文字

 その日部室に行くと、レン子先輩しかいなかった。


 僕はロッカーに入れられていた石橋先輩のことを思い出し、念のため狭い部室のあちこちを探してから、レン子先輩に声をかける。

あの……石橋先輩とギャル子は……?
それだけ調べたらわかるでしょ。まだ来ていないわ。
そ、そうですか。

 困った。


 慣れてきたとはいえ、レン子先輩とふたりきりにされるのは、やはり気まずい。


 たとえ会話に参加してくれなくても、他の先輩がいてくれるだけで心強いものなのだ。


 特にふたりは、僕やレン子先輩と違って、属性的に明るいものを持っている。


 逆に僕らは、根暗が服を着て歩いているようなものだから、別に哀しいことがあったわけでもないのに、空気はやけに重かった。

(な、なにか話題を振ったほうがいいのか? でも、僕に振れるようなパラドックスの話題はないし……。かといってそれ以外のことだと、きっとレン子先輩は食いつかない。いっそ帰るか!?)

 ――なんて絶対に無理そうなことを考えているうちに、部室のドアが開いた。

あ……!
わりぃ、野暮用で遅くなった。
あたしはキョージュに監禁されてたっス~。

 今なにか犯罪めいた言葉が聞こえた気がするが、この際気にしない。


 僕が内心飛びあがって喜んでいると、背後から冷たい声がした。

有罪。

 そう告げてレン子先輩は、ドアの左右にいつの間にか置かれていたパイプ椅子を指差す。

新人より遅く来るなんて、罪よ罪。ひとりずつ、その椅子に座りなさい。
な、なにを言ってるんですか……?

 オロオロと戸惑う僕をよそに、やはりこういった事態にも慣れているのか、石橋先輩とギャル子はいつもどおりだ。

この椅子っスね?
で、なにが始まるんだ?

(心臓強い!)

 僕だったら「有罪」なんて言われた時点で、なにも言えなくなってしまうだろう。

幹太。ぼんやりしてないで、あなたは取調官の役よ。
えっ? あ、は、はい。

 どうやらまた、寸劇が始まっていたらしい。


 事前に言ってくれれば、僕だって慌てずに済むのに――と軽く恨みがましい視線を送っても、レン子先輩には通じない。

いい? これから『囚人のジレンマ』を実演して、その穴をはっきりさせるわよ。
囚人のジレンマ?

 思わずくり返したのは、僕でも聞いたことのある言葉だったからだ。

知っている?
えっと……確かふたりの囚人に、『黙秘』か『自白』かを選ばせるやつですよね。
具体的な条件はわかる?

 さらに問われて考えるが、そもそもなんとなくしか知らなかった。

わかりません……
そう。なら細かく説明するわね。
す、すみません。
謝る必要ねぇよ。新人なんだから、知らなくても当然だろ。
そうっス。知ろうという気持ちがあるだけ、あたしたちよりはマシっス!
は、はぁ……

 罪人扱いされているふたりに励まされ、僕は複雑な気分になった。

じゃあ、前提条件から行くわよ。まず、飼い主とギャル子は共謀して遅刻した。遅刻の理由にはとある犯罪が関係しているものの、その証拠は掴み切れていない。つまり、今のところは遅刻の罪だけで捕まっているわけね。
ち、遅刻の罪……

 遅刻の常習犯が聞いたら、ドキッとしそうなフレーズだ。

そこで、取調官である幹太は、ふたりをそれぞれ別の部屋――今の場合は椅子に連れていき、容疑者たちに選択を迫るの。まだバレていない犯罪について、このままどちらも黙秘を続けるなら、刑期は遅刻分の一年。逆に、ふたりとも自白するなら、刑期は五年に延びる。

それだと、どちらも喋らないんじゃないですか?
そうね。だから、もうひとつ条件をつけるわ。どちらか片方だけ自白したら、その容疑者は釈放。残った容疑者の刑期は十年になる。
うわぁ……

 思った以上の差が、なかなかにえげつない。


 だが、落ちついて考えれば、それほど難しい問題ではないように思えた。

自白を選んだ場合は、刑期は五年か釈放。黙秘を選んだ場合は、刑期は一年か十年……それだけで考えると、自白のほうが若干有利な感じがします。
最高でも刑期五年だからな。
もしかしたら、釈放の可能性もあるかもしれないっスもんね~。

 僕の意見にふたりが同調してくれて、嬉しくなる。


 ところがレン子先輩は、当然そのままにしておいてはくれない。

お互いに黙っていれば、一年で済むかもしれないのに?

 そう、確かに、ふたりの刑期が最も短くなるのは、両方とも黙秘を選んだ場合だ。


 しかし、自分が自白を選んでしまったら、その可能性は百パーセントないことになってしまう。

自分だけの利を取るか、ふたりの利を取るか、そういう問題になってくるんですね……

 そしてそれこそが、パラドックスなのだろう。


 どちらを選んだ場合も、合理的な説明ができる。


 どちらも正しく、どちらも正しくないことになってしまう。


 そして――悩みはじめた僕に、レン子先輩の刃が迫る。

ちょっと待って。そもそもこの場合の『利』ってなに?
え?

 誰も疑問に思わないことを、容赦なく掘りさげてくるレン子先輩。

それはもちろん、なるべく刑期が短く済むこと……なんじゃ?
あわよくば釈放っス!
それだよな。

 囚人役のふたりも同意した。


 しかしレン子先輩は、納得できないように首を振る。

そうとは限らないでしょ。なかには、長い刑期を望んだり、死刑を望んだりする人もいるかもしれない。この話には、対象となる囚人がどんな人物であるのかの定義がないの。
まあ普通はそんなこと考えませんからね……
っていうか、今の場合は俺たちの話なんだろ? 少なくとも俺は、刑期は短いほうがいいや。
あたしもっス!

 本来は別々の部屋でやるべきことをひとつの部屋でやっているため、囚人たちの結束の固さがよくわかる。


 レン子先輩はふたりを順番に見やって、長い息をひとつ吐いた。

……そうね、あなたたちの場合は、ジレンマでもなんでもないわね。関係がはっきりしすぎているもの。
関係が?
『囚人のジレンマ』とひと口に言っても、どんな囚人にも当てはまるというわけではない、ということよ。このジレンマが成立するには、もうひとつの前提条件が必要なの。

(続く)




Q.レン子の言う『前提条件』とは?

  ぜひ考えてみてください。

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登場人物紹介

乾 幹太(いぬい・かんた) 大学1年生


とにかく根暗。

犬飼 レン子(いぬかい・れんこ) 大学?年生


パラ研の魔女。

石橋 仁(いしばし・じん) 大学3年生


明るい好青年。レン子の飼い主。

ギャル子(本名不詳) 大学2年生


見たまんま。

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