6.'sでは広すぎる:後編
文字数 3,404文字
二枚のハンカチを突き出され、僕は頭を抱えた。
どちらにも、ギャル子のものだと言える理由があるからだ。
おそるおそる訊ねると、意外にもレン子先輩はあっさりと頷いた。
あら、なかなかいい視点ね。私はアリだと思うわ。ただ……どうしてそう思ったのか、言える?
頭のなかで考えるのは簡単だが、わかりやすく言葉にするのは難しい。
僕は大急ぎで頭を回転させながら、口を開いた。
……もともとギャル子のものだった花柄のハンカチをAとして、そのハンカチの穴を埋めるために用意された宇宙人柄のハンカチをBとする。Aはどんなに繕ってもギャル子のものには違いなく、ギャル子はきっとこれからも使いつづけると思う。
じゃあ、花柄になってしまったBはどうかっていうと、もとのAのパーツが全部揃ってしまったからギャル子のもの――っていうより、Bのハンカチがそもそもギャル子のものだったんじゃないかって気がするんですけど……
ちなみに、その気持ち悪い宇宙人ハンカチは、レン子のお気に入りだぜ。
レン子先輩はそう文句を口にしてから、僕の言葉を繋いだ。
つまり幹太は、こう言いたいわけね? Bのハンカチの、もとの持ち主が誰であろうと関係なく、Aの穴を埋めるために用意された時点でギャル子にあげたも同然。だからBもギャル子のものである、と。
さすがレン子先輩は、こういった発言に慣れているようだ。
見事に言い表されて、なんだかスッキリした。
なかなかわかってきたじゃない。この問題に関しては、私もそれが正解だと思うわ。
そうよ。今のは、有名な『テセウスの船』という話をアレンジした問題なの。本家では、ハンカチではなく船を題材にしている。腐った古い木の板を、一枚ずつ新しい板に取り替えていった。
それで最終的に、新しい板だけの船になったんですか?
そう。さらに、取り除いた古い木の板で、同じ形の船をつくったら、どう?
確かに、さっきまでハンカチで行われていたことと、同じだ。
つまり、結論も同じになる?
(――いや、待てよ。それで話が終わるなら、パラドックスとは言えない!? レン子先輩は、まだなにか隠しているんじゃ……)
できれば、感心していないで話に入って来てほしいところなのだが、ここ数日の様子でそれが無理であるのは、わかっていた。
その質問が出るということは、ハンカチと同じ結論にはならないことを、もう察しているのね?
上出来よ。追加の前提はね、ハンカチと違って、その船はもう使われていなかったということ。
テセウスは、ミノタウロスを退治した英雄なの。だから、そのときに使用した船が、長期間大事に保存されていた。それを『テセウスの船』と呼んだのよ。
語尾に「?」がついてしまったのは、話の内容はわかったが、その前提がどう結論と結びついてくるのか、まったくわからなかったからだ。
(リアルタイムで使っているかどうかで、結論が変わるのか? そんな不思議なことが――いや、あるんだ、きっと。レン子先輩の手にかかれば、すでに決まっていたはずの事象さえ、変わってしまうから)
僕が大量の「?」を撒き散らしていることに気づいたのか、レン子先輩はもう一度ハンカチを取り出した。
ちょっと話を戻すけど、さっきから言っている『ギャル子のハンカチ』の定義って、なんだと思う?
定義? えっと……ギャル子の持ちもの、ギャル子が使っているもの、ですか?
我ながら普通すぎる答えだとは思ったが、他に思いつかなかったのでそのまま答えた。
僕を真顔で見返して、レン子先輩は続ける。
そのまま言い換えようとした僕は、とまってしまった。
テセウスの持ちもの――であったもの。テセウスが使って――いたもの。か、過去形にしかならない!?
そのとおり。保存されているあいだ、テセウスが所有していたのかも怪しいわ。木が腐るほどの時間が経っているなら、テセウス自身はもう死んでいるのかもしれない。
少しずつ、レン子先輩の言いたいことがわかってくる。
(ギャル子の場合は、今現在使っているし、これからも使っていけるから、『ギャル子のハンカチ』って言うのが簡単なんだ。でも『テセウスの船』の場合は、船はもうテセウスの手を離れていて、過去のことでしかテセウスのものであったことを証明できない……!)
だからこそ、結論も違ってくるというわけだ。
レン子先輩は饒舌に説明を続ける。
すべて新しい木の板に変わった船が、前と同じ船か? と言われたら、これはどんな前提を並べてもノーよね。まあそれも、『同じ』という言葉の定義を馬鹿正直に受け取った場合の話だけれど。
一か所でも変わってるなら、普通『同じ』とは言わないもんな。
ここでようやく、ふたりも参加してきた。わかりやすい話題だったからだろう。
『テセウスの船』か? という問いの意味が、『テセウスが使っていた船と同じ形の船か?』であるならば、直された船も、新たにつくられた船も、どちらもそうであると言える。『テセウスが所有しているか?』という意味であるのなら、そんなのは管理者に訊かなければわからない。
つまり、『テセウスの船』という言葉が含む範囲が広すぎて、パラドックスが生まれているというわけよ。だから、それさえ狭めてしまえば、パラドックスはなくなる。
さあ、魔女が斬る時間だ。
レン子先輩の瞳の奥が、生気をまとった。
幹太はどう? 『テセウスの船』の意味が、『テセウスが使っていたものと同じ船』だとしたら、どちらが当てはまると思う?
『ギャル子のハンカチ』とは逆です。どちらも当てはまらない……!
やんややんやと沸く部室。
端から見ると異様な光景なのかもしれないが、僕はもう慣れっこだ。
冷静に――ふと、まだ明らかになっていない事象を思い出す。
そ、そういえば、石橋先輩がロッカーに入っていたのは、なんだったんですか? 一般人まで犠牲にして……
ああ、あれなー。おまえの反応を確かめたかったんだって。
誰がとは、訊かずともわかった。
そんなことをするのはレン子先輩しかいないからだ。
視線を送ると、レン子先輩はまるで悪びれない口調で返す。
ハンカチと同じ実験よ。そいつの服を脱がせても、飼い主であることは変わらない。逆に、そいつの服を人に着せても、他人は他人。
じゃあ、あらゆる臓器を取り替えたとしても、変わらない?
まったく考えたことのなかった問いを振られ、言葉に詰まる。
多分多くの人は、脳があるところを『その人』と判断するでしょうね。身体をすべて取り替えたとしても。違う肉体に入ったとしても。
それは……そうかもしれません。記憶や意識を大事に考えるから?
どうかしら。逆に、もし記憶喪失になったとしたら、『その人』と言えるものは身体しかなくなる。
もしも両方同時に失くしたら――それはもう、死んでいるのと同じだと思わない?
どんな事象も、人が絡むと割り切れなくなるの。厄介なものよね。
その唇から語られた『死』という言葉に、僕は昨日のことを思い出す。
どうしても解けないパラドックス――それが解けるまでは死ねないと、語っていたレン子先輩。
じゃあ、もしも解けたら、そのときは死ぬつもりなのかな……?
(続く)
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