27.偏らない偏り:前編

文字数 2,156文字

 その紙コップは、レン子先輩の正面に置かれていた。

珍しいですね、レン子先輩が飲みものを買うなんて。

 僕とてもちろん、レン子先輩が一切飲まない人だと言っているわけではない。


 ただ、少なくとも部室で飲んでいる姿は見たことがなかったから、反射的に口から出てしまったのだ。


 すると案の定、レン子先輩は首を横に振る。

私が買ったんじゃないわ。飼い主が置いていったの。ホットコーヒーを買うつもりが、後ろからギャル子にアタックされたせいで、ホットティーが出てきたって。
か、かわいそうに……

 場面が簡単に想像できて、つい同情してしまった。

それで、ふたりはどこに行ったんです?
なにか用事があるんですって。
そうですか……

 じゃあ今日は、このあと来るかどうかもわからないのか。


 レン子先輩とふたりきりにされるのは、やっぱり気まずい。

(いっそ帰ってしまおうか?)

 ――と僕がグルグル考えているあいだにも、レン子先輩はまったく飲みものに手をつけない。


 もしかして、僕に気をつかっているのだろうか。

……飲まないんですか?

 一応促しの意味もこめて訊いてみたら、レン子先輩は「なんでそんなことを訊くの?」と言いたげな目を向けてくる。

私、水しか飲まないの。
そ、そうですか……
みんな極端なのよね。ギャル子は炭酸しか飲まないし、飼い主はコーヒーしか飲まない。

 ある意味イメージどおりすぎて、ちょっと笑ってしまった。

なにを笑っているのよ。幹太は? 紅茶、飲めるの?
まあ、出されれば、なんでも飲みますけど……

 好き嫌いを言うよりも、断るほうが面倒くさい。


 そういう考えだった。


 するとレン子先輩は、紙コップを僕の目の前に移動させてくる。

じゃあ飲んで。
は、はい。

 半ば命令されたような形になって、お礼ではなく返事が出てしまった。


 同時に、すぐに飲まなければならないプレッシャーを感じ、慌てて手を伸ばす。

あれ……

 紅茶はすっかり冷め切っていた。

どうしたの?
い、いえ……なんでもありません。

 そもそも、温かい飲みものが飲みたかったわけではないので、気にせず口に運ぶことにする。

(……うん、紅茶だ)

 それ以外、感想の言いようがなかった。


 無心でゴクゴク飲んでいると、不意にレン子先輩が声をかけてくる。

そういえば、幹太は理学部だって言ってたわね。
え? は、はい、そうですけど……?

(なんだなんだ。一体なにを言われるんだ!?)


 内心意味もなく慌てる僕。


 レン子先輩は長机に頬杖をついて、続けた。

紅茶は、必ず冷めるものだと思う?
へ?
エントロピーの増大って言うんでしょ。
あ……

 その言葉を聞いて、ハッと思い至る。


 温かい飲みものは、いつか冷める。


 そこにあった熱は消えたのではなく、周囲の空気に移り、ほんのわずかに室温を上昇させる。それは人肌では到底感じとれないほど、ささやかな変化だ。


 なぜそういうことが起こるかというと、温度は偏りがないように調整されてしまうからである。


 そのことを『エントロピー増大の法則』といって、説明のたとえとしてよく出されるのが、まさにこの温かい飲みものの話だった。

……レン子先輩、文系っぽいのによく知っていましたね。

 嫌味とかではなく、本当に意外に思って訊ねると、レン子先輩は鞄からなにかを取り出した。


 僕に見せてくる。

この雑誌、たまに見ているの。パラドックスも載っているのよ。
え、そうなんですかっ?

 有名な科学雑誌だ。そういえば、前に読んでいるのを見かけたことがあった。

私は普段、言葉について研究しているわ。だからいつも言葉の定義にこだわってしまうのだけど……科学の分野って、明確な定義を公式で表現しようとするところが、なかなか面白いのよ。
な、なるほど。

 ようやく、なぜレン子先輩がパラドックスにこだわるのか、見えてきたような気がした。


 はっきりと定義づけされていないものを見ると、モヤモヤしてしまうのだろう。


 だから斬っている。


 強引でもいいから、自分なりの解釈で、それがなんであるのかを決めようとしている。


 そういうことなのかもしれない。


 僕がなんとなくそう納得していると、レン子先輩は珍しく露骨に不機嫌そうな表情を浮かべた。

――で? どう思うの?
え? なにがですか?
だから、さっき訊いたじゃない。紅茶は、必ず冷めるものだと思う?

(あ、忘れてた)

そ、それはそうですよ。エントロピーは必ず増大します。紅茶を放置していたら、必ず冷めます。

 僕が「放置」という言葉を強めに言ったのは、それがこの法則が当てはまる条件であるからだ。


 あとから熱を加えて温度をあげる――という手は使えないことを、暗に示したのである。


 だがレン子先輩は、譲らない。

本当にそう? たんに『温かい飲みものを放置しておく』なんて簡単すぎる例じゃ、私は認めないわ。
ま、まさか、エントロピー増大の法則にまで、パラドックスがあると言い出すんじゃ……
そうね、そうとも言えるかもしれないわ。
えー……

(今じゃあたりまえのように認められ使われている法則にまで、パラドックス……)

 先を訊くのが怖くて、思わず黙った僕を見つめて、レン子先輩は告げた。

紅茶は必ず冷めるわけじゃない。私はその方法を、知っているの。

(続く)




Q.レン子の言う「紅茶が冷めない」方法とは?

  ぜひ考えてみてください。

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登場人物紹介

乾 幹太(いぬい・かんた) 大学1年生


とにかく根暗。

犬飼 レン子(いぬかい・れんこ) 大学?年生


パラ研の魔女。

石橋 仁(いしばし・じん) 大学3年生


明るい好青年。レン子の飼い主。

ギャル子(本名不詳) 大学2年生


見たまんま。

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