27.偏らない偏り:前編
文字数 2,156文字
その紙コップは、レン子先輩の正面に置かれていた。
僕とてもちろん、レン子先輩が一切飲まない人だと言っているわけではない。
ただ、少なくとも部室で飲んでいる姿は見たことがなかったから、反射的に口から出てしまったのだ。
すると案の定、レン子先輩は首を横に振る。
場面が簡単に想像できて、つい同情してしまった。
じゃあ今日は、このあと来るかどうかもわからないのか。
レン子先輩とふたりきりにされるのは、やっぱり気まずい。
――と僕がグルグル考えているあいだにも、レン子先輩はまったく飲みものに手をつけない。
もしかして、僕に気をつかっているのだろうか。
一応促しの意味もこめて訊いてみたら、レン子先輩は「なんでそんなことを訊くの?」と言いたげな目を向けてくる。
ある意味イメージどおりすぎて、ちょっと笑ってしまった。
好き嫌いを言うよりも、断るほうが面倒くさい。
そういう考えだった。
するとレン子先輩は、紙コップを僕の目の前に移動させてくる。
半ば命令されたような形になって、お礼ではなく返事が出てしまった。
同時に、すぐに飲まなければならないプレッシャーを感じ、慌てて手を伸ばす。
紅茶はすっかり冷め切っていた。
そもそも、温かい飲みものが飲みたかったわけではないので、気にせず口に運ぶことにする。
それ以外、感想の言いようがなかった。
無心でゴクゴク飲んでいると、不意にレン子先輩が声をかけてくる。
内心意味もなく慌てる僕。
レン子先輩は長机に頬杖をついて、続けた。
その言葉を聞いて、ハッと思い至る。
温かい飲みものは、いつか冷める。
そこにあった熱は消えたのではなく、周囲の空気に移り、ほんのわずかに室温を上昇させる。それは人肌では到底感じとれないほど、ささやかな変化だ。
なぜそういうことが起こるかというと、温度は偏りがないように調整されてしまうからである。
そのことを『エントロピー増大の法則』といって、説明のたとえとしてよく出されるのが、まさにこの温かい飲みものの話だった。
嫌味とかではなく、本当に意外に思って訊ねると、レン子先輩は鞄からなにかを取り出した。
僕に見せてくる。
有名な科学雑誌だ。そういえば、前に読んでいるのを見かけたことがあった。
ようやく、なぜレン子先輩がパラドックスにこだわるのか、見えてきたような気がした。
はっきりと定義づけされていないものを見ると、モヤモヤしてしまうのだろう。
だから斬っている。
強引でもいいから、自分なりの解釈で、それがなんであるのかを決めようとしている。
そういうことなのかもしれない。
僕がなんとなくそう納得していると、レン子先輩は珍しく露骨に不機嫌そうな表情を浮かべた。
僕が「放置」という言葉を強めに言ったのは、それがこの法則が当てはまる条件であるからだ。
あとから熱を加えて温度をあげる――という手は使えないことを、暗に示したのである。
だがレン子先輩は、譲らない。
先を訊くのが怖くて、思わず黙った僕を見つめて、レン子先輩は告げた。
(続く)
Q.レン子の言う「紅茶が冷めない」方法とは?
ぜひ考えてみてください。