第36話 シェアハウスの住人

文字数 4,136文字

 祥子は自宅マンションの窓の外に目をやれば、道行く人をさえも不審者に見え、はたまた遠方の建物の窓からは望遠鏡で覗かれていそうな妄想に怯える日々が続いた。
 ことの発端は2016年の年末に、観光地にもなっている市場で声を掛けられたことから始まっている。
「貴女の旧姓は鍵井さんですね‥‥‥私は貴方の同級生の友人なのです、同級生の名前は明かせませんが、貴方に関する猥褻な噂を聞いて、他人事と思えないくらい悔しく思っていたから、貴女を見かけたので思い切って声を掛けたのです。あなたの同級生の近畿電力の職員が、貴方の部屋をのぞき見しいていて、猥談として吹聴しているので、訴えた方がいいですよ」
 同級生の知人と名乗る女性は言いたいことだけ告げて雑踏の中に消えて行った。祥子はその人の顔に見覚えは無かった、同級生であったとしても40年近く経っていては認識できないものなのに、その友人となると知るはずもない。そんな顔見知りでもない人が自分を知っているという気色悪さに憎悪を覚え、相手の素性を確かめたくなったが知るすべのなさが歯がゆかった、しかし、その人の言葉が本当だとしたら、憎む相手は近畿電力に勤めている同級生ということになる。
 祥子は独身の頃に自室の窓の外に電気工事中の人を見かけたことがあった、電柱は窓を外れたところに建っているために、工事中であっても気配を感じることはないはずであるが、その日は高所作業車に乗った人が窓の外に立っていたのだ。目が合ったときに直ぐに相手は顔を伏せたので顔を確かめることは出来なかったが、あれは同級生だったというのだろうか、それにしても猥褻な噂を吹聴されるようなことではなかった、いったい何がどうなっているのか、その日から祥子は怒りを超えて震える日が続いたのだ。

 祥子は2002年に催された学年同窓会を振り返った。すると意味深長な言動がそこいらに散らばっていた。

 祥子の周囲でヒソヒソ話が絶えない、
 元テニス部の上井戸が青田に何かを耳打ちし、青田は会場内を走り回って、何かを吹聴している風であった。それを祥子と同じバスケット部の奥元くんが必死に阻止しようと奮闘している。上井戸も奥元もともに近畿電力に勤めている。
 奥元が
「止めろ! しゃべるな!」と青田を止めると同時に、上井戸にも
「止めさせろ!」と指示している。しかし青田は吹聴を続け、上井戸も止めさせる気配がない、その合間に奥元は祥子に
「実家に出入りしていた女の子はいてるか? 姉妹とか従妹とか」
「いてるけど、姉は嫁いでいるし、従妹は頻繁に出入りすることもないけど」
「他には、女の子いてるやろ」
 祥子はじっくり考えて
「私が嫁いだ後に、母も私と同じマンションを購入して引っ越したけど、売り家にする前に四年ほど若い女の子達に貸していた時期があるよ、四人でシェアハウスとして使ってくれてたよ」
「そやろー、その女の子らのことやー」と叫ぶ。
 そして上井戸に
「青田を止めさせろー!」と促す。
 上井戸は相変わらず知らんぷりをしているので、奥元本人が直接青田のところへ行って、吹聴を止めさせに行った。
 青田の吹聴が止まったのを見定めて、奥元は祥子にこんな話をしてきた。
「家を貸していた女の子達、凄いことしてるねんで」
「どんなこと、外で彼氏とキスでもしてるんか?」
「ま、近いけど、もうちょっと破廉恥な事や」
「もしかして部屋を覗いたんか!」
 奥元は黙った。

 祥子が嫁いだ後、二年後には母も祥子と同じマンションに引っ越し、実家は貸家にしたが、近畿電力社員ののぞき見は続いていたようだ。

 シェアハウスとして住んでいた女の子達は一体何をしていたのだろう、もしかすると性被害にも遭っていたかもしれない

 奥元は何を話そうとしたのか、やましいことがありそうだが正直に話してくれるとは思えない。

 そういえば、K病院職員でもある同級生の深川君の言葉にも引っかかっていた。
 周囲がヒソヒソ話をしているときに深川君が言っていた言葉
「猫の首に鈴をつけたい奴はおらん」と話していた時に祥子が首を突っ込んで
「何の話をしてるの?」と問いかけたら神妙な顔で
「祥子はもう同窓会に出席せん方がええで」と言った。
 猫とは祥子のことを指していたのかもしれない。

 祥子は深川君に電話を掛けてみた。
「覗きについてか、俺は何も知らんでよ、男っていちびりなんや、そんなことより、自分は大黒に無茶苦茶なことされてるねんで、知っといた方がええで」
「なんで大黒さんの話になるのよ、あの人には何もされてへんし、今聞いてるのは、近畿電力の同級生が部屋を覗いて、猥褻な話を吹聴しているかどうかについて知りたいのよ」
「大黒のこと、真実を知った方がええで、覗きの事は、俺はなんも知らん」
 そう言いながらも、大黒の話を祥子に聞かせることはなかった。

 2017年当時は、まだ祥子は性被害の記憶が欠如していたので話をすり替えられているとしか思えず、そのことに応えてくれないことを苛立っていた。
 しかし、祥子の性被害の全容を知っている深川君にとっては覗きや吹聴はいちびりのレベルだったようで、同級生をかばってあげたいという意図がみえみえだ。


 奥元は高所作業車の運転免許を持っていると聞いたことがある、おそらく上井戸に誘導されて稼働させてしまったのだろう、そうだとしたら、正直に何かを語ってくれるかもしれない、話してくれたなら、彼の事は庇護してあげよう。

 祥子は夕飯時とは思いつつも、思い切って奥元に電話を掛けてみた、すると突然侮辱された
「今頃なんやねん、分かった、金やな! 金が欲しいんや!」
「何を言っているの? 私はただ真実が知りたいだけ!」
「俺は知らん、悪いのはハメル薬局の店長や、大黒や、詳しいことは磯田に聞け、それに俺は近畿電力には勤めてない、勘違いや」
「なんで大黒さんや磯田君の話になるのよ、それに、近畿電力を辞めた事は知ってるよ」
「‥‥‥俺はまだ晩御飯食べて無いんや、もう電話を切ってくれ」

 奥元君までも話をすり替えられている。

 祥子は奥元への恩赦の念は消え失せ、もう電話を掛けないことにした、謝られては気持が揺らぐからだ。

 磯田というのはテニス部のキャプテンをしていた人物である。もしかすると上井戸もテニス部であるために何かを知っているのかもしれない、

 今ふと浮かんだ人物がいる、それはS病院でビデオ鑑賞会だといって祥子に喋りかけてきた奴を手で追っ払った人がいたが、見覚えのある顔立ちだったから同級生だろうかと思った、磯田君だったのだろうか。
 そうだとしても、電話をかけたところで正直に答えてくれるはずはない、それに祥子は彼と会話をした記憶が無いために電話など掛ける気にはならなかった。
 とりあえず上井戸の口を何とかしなければならない、

 2017年、祥子は弁護士をとおして上井戸に通知書を送った。


 貴殿は近畿殿直株式会社の業務として当時の住居付近の電柱工事作業中に、通知人(旧姓 鍵井祥子)の室内をのぞき見されました。それだけでなく、その様子を歪曲して高校の同窓会において再三にわたって吹聴しておられました。
 貴殿の行為は通知人の名誉を侵害する‥‥‥云々。


 通知書を受け取った上井戸は非通知で弁護士さんのところに電話を掛けてきて、被害届の内容を一方的に全文読み上げて、こう伝えて電話を切ったと言う
「私は覗いていません、歪曲して吹聴していません、同窓会に出席したことはありません」

 弁護士の話では声が震えていて虚偽性が感じられたとのことだ。
 祥子は弁護士にこう伝えた
「上井戸は虚偽を言っていると確信しました。なぜなら、身に覚えのない行為だとしたら、のぞき見しているなどという噂が流れていることに憤りを感じるはずで、噂の出どころを詳しく知りたいと思うはずですから」

 祥子は証人になってくれそうな人を見つけるまで、保留にすることにした、それによりとりあえずは口を封じさせることが出来た、弁護士費用は安くはなかったが、この日より不安を抱えて過ごさなくても良くなるのだ。

 あれから二年経ち、次々に過去が蘇るなかで、夫が経営する会社の社員から忠告を受けていたことも思い出した。

 2008年、祥子45歳の時の事
 敬寿の経営する会社の従業員に中国人の林がいる。
 ある日、祥子と林との二人で営業に回っていた時、林から意味深長な話をされた。
「日本女性のレイプビデオが中国やアジアに出回っているんです、その中で、婦人科で盗撮された人が、レイプドラッグにも遭って、部屋も盗撮されているんです、でも部屋の盗撮は別人だったと思いますが、とにかく、一人の人が被害に遭い続けているんです」
「それは酷いことを、可愛そうにね」
「はい、だから祥子さんも気を付けて下さいね」
「私が? 私なんておばさんだもの、だれも興味がないでしょう、大丈夫よ」
「いえ、気を付けて下さい」
「あ、有難う、気を付けますね」
「ところで、ご実家には若い女の子が住んでいますか?」
「実家はもう売ってしまってるけど」
「売られた先の家族には若い女の子もいますか」
「一人暮らしのおばあさんが買ってくれたみたいよ」
「若い女性の出入りもあるでしょう」
「それは知らないけれど、売る前に貸していた時期があって、若い女の子四人でシェアハウスとして使っていてくれていた時期があるよ」
「それです、若い女性に貸してはいけません」
「うん、雑草が生えまくってたから、一軒家は若い人には向かなかったみたい、もう売ったし大丈夫」


 大黒がつくったビデオは婦人科の盗撮、レイプドラッグ、室内の盗撮という流れで編集されているみたいだ、そうと分かれば上井戸の罪は名誉棄損だけでは済まされない。強姦ビデオの作成から販売まで加担している一味なのだ。もしかすると上井戸の職場には同じ一味の職員が存在していて、同級生名簿から盗撮を繰り返し、大黒の罠の標的にされた女性もいるかもしれない。
 中途半端に動くと大黒に証拠の隠滅されかねない、大黒に捜査の目が及ぶまでは保留にするしかないようだ。
 しかし、おそらく上井戸に通知書を送ったことは黒の耳にも届いているはずなので、既に用心しているに違いない。
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登場人物紹介

祥子・・55歳~57歳、温厚な性格の夫と、成人になった二人の子供と猫との4人と1匹の家族、独身の頃は看護師をしていたが結婚退職の後は専業主婦、その後起業した夫の会社で働く、手術を要する病気2回(一つは癌)を乗り越え、仕事と家事の合間に短歌、作文、絵、神社仏閣巡りなどの趣味を嗜む

敬寿・・祥子の夫(59歳~61歳)41歳で起業する、その頃は祥子の看護師復帰を反対するほどワンマンではあったが、祥子が病気になってからは祥子の身を案じ、家事も手伝い、ワンマンさは消える。寡黙でありながら家族から尊敬されている。趣味は釣り、祥子の付き合いで神社仏閣巡りにも行く。

二木輝幸さん・・青年のシルエットが祥子の瞼の裏に現れて訴えかけてくる。その後名前が分かる、祥子は「輝君」と呼んでいる。

大黒仁志(おおぐろひとし)/別名「オオ、ハラ黒ワルシ」・・薬剤師、祥子とはK病院時代からの知り合いであるが、祥子がK病院を退職した同時期に、独立して調剤薬局の経営者となる、今ではS県内に10店舗経営しているが、裏稼業にレイプドラッグ及び強姦映像の販売をしている。悪行を企てている時の目がランランと光りテンションが高い、一見して明るく社交的で饒舌、リーダーシップを発揮するために頼りがいのある人物に見間違えるが、女性を嵌める為の機を窺っていて、巧みに嘘を重ねる。

夏美・・大黒仁志の妻、祥子とは看護学生時代の同級生であり、K病院では同じ病棟で働いたいた同僚でもある。

六林婦人科医・・この物語では過去の人物としてしか登場しないが、六林医師の盗撮がなければ、祥子はワルシに狙われる事はなかった為に重要人物である。

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