第39話 サタン
文字数 2,452文字
潮風と波の音は邪念をかくはんさせ、浮き上がった澱みは、呼気にしのばせて一つ吐き、祥子は堂崎天主堂の扉を開けた。
木の扉の軋む音とともに冷たい空気が祥子を押してくる、それは迫害や虐殺をうけてもなお島民の暮らしに根付いたキリスト教徒たちの声だろうか、ただの好奇心でジロジロ視回すなよと釘を刺されているかのような、キンとした空気だった。
背筋を伸ばした祥子は二人の姿を浮かべて十字架に手を合わせた。
そっと涙を拭う祥子に、気づかないふりをする敬寿は短めに手を合わせて先をゆく、
「私はクリスチャンなのよ、あなたの幸せを祈らせて貰うわね」と言ってくれた二木幸子さんに祥子はお礼を言う。
「お陰様で、幸せを実感できています」
そう、性被害に気づくまでは幸せを実感していた。
そして息子の輝幸さんのシルエットを思い浮かべる、
「S病院の婦人科で、命にかかわるような緊急事態だと騙され診察室に呼び込まれ、検査だと騙され、自分の手と共に撮られた写真を目の当たりにした時の衝撃は地獄絵図だったでしょうね、診察室の外でムンクの叫びのように怯えていた少年は、大学4年生の時でインターンシップをしていた輝幸さんだったのね、私は盗撮されていることも、その後にレイプドラッグに遭っていたことも、AⅤビデオにされたことも、それが盗撮写真と取引されてS病院で回されていたことも知らずに、S病院に来てしまって、私自身に浴びせられた恥辱の限りを、私の代りに受け止めて、傷ついて、人生を途絶えさせてしまって‥‥‥ごめんね」
祥子は輝幸さんが受けていたと思われる心情を言葉に出したのは、理解していることを伝えたかったからだ。しかし、沸々と怒りが湧いてきて、心拍は早く、呼吸は熱く荒く、呼気から澱みを吐き出しているのが分かった。澱みは神聖な空気を汚さんとしている、急いで立ち去ろうと敬寿の後を追った、そして教会を出る間際で一枚の版画に目が留まった。
絵の題名は分からないがサタンが大きな口の口角を耳の辺りまで尖がらせて笑っている。
そしてぎょろっと開眼した目は黒々と光り、ランランとしている、サタンの哄笑絵と称される笑い方は奴とそっくりだ、奴の別名は中島が名付けた「ーオオハラグロワルシーヒトシとちゃうぞワルシやぞ!」
車は入り江をくねり、毎回違った景色を見せてくれていた、しかし祥子の頭にはハメル薬局のワルシばかりが現われる。
1995年、高校のクラス会が催されている料亭の道順を尋ねがてら、挨拶がてらにハメル薬局に立ち寄ってしまったときのワルシはサタンそのものだ。
パソコンを観ながらブツブツと独り言を言い、目はランランとしている。
「これはあっちに送っといたろ、これはこっちに送っといたろ、悪ぅ思うなよ、悪魔のいたずらや、へへへへ」ニタニタニタニタ
ついに祥子は口を切った
「なぁ、新婚の時に婦人科の写真が送られてきたことを認めてよ」
「またその話か、知らんと言うてるやろ」
敬寿の運転は荒くなる
「本当は覚えてるはずや、最初は受診していた産婦人科に電話を掛けて『写真は要りません、送らないでください』と言って、受話器を持って別の部屋へ移動して喋ってたやん、その週末に産婦人科の前まで案内させて、車の中で私を待たせて、自分は医院の中に入ったやん、その後くらいから『同級生に変な奴がおるんや』と言うようになったんやん『パソコンから猥褻な画像を取り込む同級生がいてるはずや』と言ってたやん」
「知らんもんは知らん! せっかく旅行に来てるのに、面白くない話はするな!」
「私の頭の中は景色を見てないもの、頭の中に占めているものを一緒に観て欲しいのよ」
「景色を見る努力をしろ、今を楽しめ」
敬寿は今に戻そうとするが、祥子は続けた。
「あの時のマンションの管理会社の社員三人が突然家に来て『隣の家へ畳にキノコが生えたので確認させて下さい』と言って、入って来たけど、あれは畳の縁を確認したかったのよ、きっと、レイプされていたときの静止画面が送られたんだわ、それで我が家の畳の縁と比べていたのよ、我が家に隠しカメラが仕掛けてあるかどうかを確かめに来たんだわ」
「管理会社も俺が留守の日中に部屋に押し掛けるなんて非常識なんや、そんな奴らの事は忘れてしまえ」
祥子は続ける、悔しい気持ちを共鳴してほしいのだ
「会社の人達だって、あなたが出張の時に、社内でビデオを回してたのよ、『似てる』『別人だと思う』『いや本人だ』と、私の顔を見ながら喋ってたんだよ」
「社員が、会社にアダルトビデオを持ってきたと言うのか! そんな奴らはおらん、妄想や!」
「妄想にしたいということは、社員がビデオを会社に持ち込むよりも、私が精神病であった方が良いと言うことなの!」
敬寿は黙った。黙ったまま、前を向いたまま、釣りをするための漁港を探し始めた。
車内の沈黙のなか祥子はふと気づいた。
祥子は脳裏を占める嫌な出来事は書き出すことで、解消させることができるが、敬寿の場合はどうだろう、他人の悪口を言うことも仕事の愚痴をこぼすことも無いに等しい、あるとすれば、社員が辞職願を出したときがショックだと言っているくらいだ。
大概の思考は前を向いている、婦人科の写真が送られた時は、変な同級生がパソコンから変な画像を取り込んで送り付けてきたのだと思い込むことで、前向きに忘れている。
そうしてせっかく忘れていることを無理やり思い出させるのは、身勝手すぎるのかもしれない、もしも祥子に書くことを阻止されたとすれば発狂するだろう。
最近では書き出すことで乗り越えられそうな気もしている、だからもう敬寿を巻き込むのは止めよう、祥子は血圧高めの敬寿の身を案じ、書くことに集中することに決めた。