第11話 I 病院

文字数 5,020文字

 1994年、I病院のパート職員として就職したが、就職当時は看護師の井本さんに毛嫌いされていた。
「アルバイト先は選ばなあかん」と言われる。「意味が分からない」と言うと「自分の胸に聞いてみな」と言われる。
 I病院で勤めるにあたり。採用を決めてくれたのは看護部長さんだが、祥子が勤め始めると直ぐに退職することになった、その退職の日に井本さんから
「謝っておいで、もしかしたら退職を考え直してくれるかもしれない」と言われる。意味が分からないまま看護部長室を尋ねると
「私には手が負えない、もう無理、」とうろたえたような表情で首を横に振るだけだった、そして数日後、祥子は新しく就任された看護部長に呼ばれた。井本さんに
「厳しく怒られるから覚悟しときや」と言われるが、何のことかわからないまま看護部長室に行く、すると咎められるどころか
「来月から正規社員になって欲しい、夜勤にも入って欲しい」と言われた。そして
「午前中に所用で出かけて、その帰りにS看護学校へ寄ってきたのよ、そこで大森教務主任にお会いしてあなたの話も伺ったわ『いい人よ』と貴女を褒めていらしたわ」と笑顔で言ってもらい、理事長の意志も確認済みだから決心してと言われ、その場で正規採用となったのだ。病棟に戻ると井本さんに
「怒られたやろう」と聞かれる、
「いえ、本採用となりましたよ」
「えっ?なんでや」と不可解そうだった。
 井本さんはI病院理事長であるI先生の奥さんと、前任の看護部長と懇意にされていた。
 前任の看護師長が祥子の素性を調べもせずに採用を決めたことで、理事長の逆鱗に触れ退職され、そのことを怒っていたのだろう。しかしI理事長の奥さんからS病院での被害の経緯を聞かされ、誤解が解かれたようだ。
「あんたは悪くない、全然わるくない」と強い口調で何度も祥子に言ってくる。
「何のことですか」
「悪くないから」
 大黒はここでも、祥子が風俗関係のアルバイトをしていると吹聴していたようだ。

 I病院には鬼尾医師という外科医がいた。
 中島が薬を届けに来ていた時、階段のところでその鬼尾医師に何かを交わそうとしている場面に遭遇したことがある、ふたりは祥子の存在に気づくや否や、
「あ、今日はまずい、これだけ渡しておく、あれは後日に」と言って、中島は薄っぺらな封筒を医師に渡している。
 そして後日、祥子はまたもや二人が階段のところで会っている場面に遭遇している、その時は焦る様子はなく、中島は鬼尾医師から封筒を受け取っていた。

 あれはきっと金銭だろう。

 ある日、鬼尾医師が病棟の円型テーブルでカルテを広げ、祥子にチラチラ視線を注いでいた、そこに看護師の渡部さんが
「あら、先生、何を観ているの、むっつりスケベねぇ」とからかうと、
「いや、これは手術の参考にするためのもので、標本や」
「手術の参考と言いながら、実はエッチなんじゃないの」その声に、看護師の三森さんが
「私も見せて、へぇ~横に広げると口みたいになるんや」と言って、鬼尾医師と二人で写真を観ている。三森さんが
「自分のものは、じっくり見たことがないから興味あるわ」と言い。
「カギちゃんも見せてもらい」と言って貰った
「私も見たい」と言ったが鬼尾医師は写真を隠した。三森さんに
「先生、カギちゃんにも見せたってよ」と説得してくれたが、拒否されてその場を立ち去られた。その後、看護師の間では
「I先生は婦人科を開業しようとしているみたい」という噂が流れる。そんなある日、I先生が病棟に来た時に渡部さんが
「先生、婦人科外来を開業しようと思っているのですか」と質問する、I先生がきょとんとした顔をしている、すると、
「先日、鬼尾医師が女性性器の標本を見ていて、『先生エッチ』と冷やかしたら、『外科手術の参考にしているんや』と言っていましたよ、でもその時ね、カギちゃんの方をちらちら見ていましたよ、やっぱり若い子のおしりが好きなんやね」
「おしりを観ながら想像しているんや、おばさんより若い子のおしりの方がいいのよね」と三森さんも言う、I先生は憤怒の表情となり、小声で
「うちの病院は、覗き部屋と違う」と言い残してどこかへ行った。
「あれ、婦人科外来の開業については答えてもらえなかったね」
「まだ内密なんやわ」
「でも・・・」
「小声で覗き部屋って言ったよね・・・」と言って二人は首を捻りながら祥子を見る。
 その後、その話題がきっかけだったかどうかは分からないが、突如、鬼尾医師は解雇され、同じ時期に薬局の業者が変わっている。
「薬の銘柄が変わったし、慣れるまで不便やわ、なんで突然変わったんやろなー」と、不満の声が流れていた。そして「内密に婦人科外来の開業がすすんでいる」という噂だけ広まっていた、また同時にI先生が「うちの病院は覗き部屋ではない」と言い残していたことも囁かれていて、祥子は意味不明な視線を感じていた。
 ある日、
「あのせつはごちそうさま」と三森さんが屈託のない笑みで喋りかけてくる
「何のことですか」と質問すると、三森さんがもじもじしながら答えに困っている。その様子を観て、慌てて井本さんと渡部さんが三森さんの言動を制し、井本さんが三森さんの手を引っ張って階段の方へ連れ出し、何かを言い聞かせている。祥子は渡部さんに事情を聞くがクールに「別に」と首を振るだけだ。後日、三森さんに
「ごめんね」と謝られる、
「何がですか」と問いかける。またしても井本さんと渡部さんは三森さんを制し
「なんも言わんでいいねん」と言う、祥子はその後も三森さんを見かける度に、理由を問いかける。三森さんは祥子を避けて円型テーブルを反対方向に逃げる、祥子は「なに、なに、なに」と笑いながら追いかけると、三森さんは笑いながらも逃げる、円型テーブルをぐるぐると二人で回っていると、井本さんと渡部さんから、
「変やけど、それでええねん」と言われる。しばらくして三森さんも普通に会話してくれるようになったが、休憩室でこんな会話を聞いたことがある
「やっと私も頭から離れるようになった」と三森さんが言うと、別の看護師が
「婦人科外来を経験したことがあるけれど、珍しくないし」と言っている。
 そういえば、こんな事を言ったことがある。
「そういえば、三森さんと一緒に夜勤したことなかったわ、一緒に組んでみたいわ」
「まぁ、私もしてみたいけれど、まだ無理かな」と言われる、他の看護師たちも
「それは止めた方が良いな」と言う、祥子だけが理由を知らなかったのだ。

 I病院の夜勤は準夜勤と深夜勤を通しで働く二交代制を取られており、夜間は比較的静かに時が過ぎてゆくので、相方と話に耽ることもある。そして祥子は井本さんと組むことが多かったせいもあり、彼女に心を許していた、ある日の夜勤で井本さんから質問された
「結婚を前にして、心残りになっている元カレとか、気になる男性はいないの」
 その一言により、祥子が胸の奥にしまっていた蓋が開いた。
「恋愛対象とかではないのですが、生きているのかどうか、気になっている人がいます」祥子はS病院で自分に喋りかけてくれた青年の話しを始めた
「私に『生きていてくれてよかったー』と言ってくれた男の人がいたんです。そんな素敵な言葉を言ってくれるような人は初めてだったから、とても嬉しかったのに、その人の方こそ日毎に正気を失っていって、それが気になって仕方がないから思い切って声を掛けたんです『あなたの方こそ心配です』って、そしたら、いつも猥談ばかりしている奴が来て『喋りかけたるな、お前と会話するのは恥ずかしいんや、恋愛の対象にはならないから諦めろ』と言って、その人の肩を掴んで向こうへ連れて行ったんです、私はその人の背中に向かって『元気を出して』と叫んだんです。そしたらその人は振り返って私を見てくれたの、でも目は死んでいて、その目で顔を横に振っていました。その日から見かけなくなっていて・・・あの時の目が頭から離れないんです・・・それに、実習最終日にS病院の職員で自殺した人がいたんです、その人ではないと思いたいけれど」
 祥子は食堂で見聞きしたこともすべて話し終えてから、
「命の尊さを分かっている人が自殺をするはずがないと言い聞かせてきたけれど、胸騒ぎがして落ち着かないんです、彼がどこの誰なのかも分からないから、探し出すことも出来ないし、でも無性に会いたいの、元気な姿を観れたら安心して結婚できるんです」
 井本さんは掛布団をすっぽり被っていて、その中で鼻を啜りながら
「きっと元気に暮らしていると思うよ」と言ってくれた。
「・・・うん、そう思いたい」
「ところで猥褻な人っていうのは、どんな事をされたの」
「臀部を指さして『血』って言うから、私が白衣を確かめると『生理中や』と言って喜んでいたり、写真らしいものを私の顔に翳してニヤニヤしていたり」
「写真って、どんな写真?」
「誰かのヌード写真だと思う、私の顔に似てたんじゃないかな」
「・・・それが普通の発想やな」
「他にどんな発想がありますか?」と言うと、焦るように「私もそうやと思うよ」と言う。そして夜勤が終わり帰宅の途に付くとき、井本さんは
「今日は胸がいっぱいやから、理事長の奥さんのところに寄って、お茶してから帰るわな」と言って別れた、理事長にも伝わっていたに違いない。
 理事長のI医師には披露宴で祝辞を頂戴している。I病院は一年しか働いていなかった職員達から心から祝福して貰っていた。過去なんて葬り去りたいと思っていたが、忘れたくない人達もいる。祥子は多くの人たちの御蔭で生かされている命を大切にしなければならないと心から思えた。

 祥子は生きるために気晴らしをしようと思い、遊びの計画を立てようとパソコンを開けた。しかしつい、ハメル薬局のHPや大黒の家族のSNS投稿を探ってしまう。そして見つけた。ハメル薬局は約10店舗までに拡大されていた。女性客を安心させるかのように約7割は女性支店長であり個人情報取り扱いについて謳っている。また支店長の顔写真が載っているが男性支店長の顔に見覚えがあった。23年前に本店のハメル薬局で祥子の顔をジロジロ観ていた時の従業員に似ている。また大黒の子供のSNSも見つけた。その目の色が大黒とそっくりだったので憎らしくなった。その目を睨みながら祥子と同じ目に遭えと念じてしまっている、しかし夏美の娘でもあることから嫌な気分になった。恨む相手が違うと自分を制するが怒りが湧いてしまうのは拭い切れないのだ。

 2019年11月 柳谷寺
 柳谷寺のご本尊は眼病に霊験あらたかな十一面千手千眼観世音菩薩様が祀られている。
 そして本堂の中には両目を開眼している「びんずるさん」と呼ばれる羅漢さんが鎮座していて、その「びんずるさん」と目が合い「眼通力を授けてください」と念じた。
 記憶の断片ばかりが見えると全容が知りたくなる、しかし何かを知っていそうな旧知達は頑として口を開いてはくれない、こうなれば自分で見るしかないのだ。後で調べたことだが「びんずるさん」はお釈迦様の弟子の十六羅漢の一人で、神通力(超能力に似た力)が大変強い方と記してあった。
 また柳谷寺には御鈷水(おこうすい)と呼ばれる湧き水があって、その水で目を洗えば、眼病に効くと言われている、祥子は心の目で真実を見たいと念じて目を洗った。
 境内を出ようとしたとき、祥子の脳裏に青年のシルエットが浮かんだ、そして
「僕が自殺した本人です、死んだことを受け止めて欲しい」と伝わってきた。
「やっぱり」とうなずき、彼に、
「大黒を恨むだけでなく、娘のことまで恨んでしまう、自分と同じ目に遭えと念じてしまう、それで良いのか」と問いかけてみた、
 彼は黙って微笑むだけだ、まるで恨んでも良いとも受け取れる。だから祥子は娘達を恨んでも良い事にした、しかしそれと同時に夏美の幸せを念じれば良いのだということに気づき罪悪感は拭われた。夏美の幸せは娘たちの安泰に繋がると思えたからだ。

 2021年現在、Ⅰ理事長はS県の政治家になっている、当時の事は大黒から、アダルトサイトで祥子の写真を見つけたと聞いていただろうが、大黒自身がレイプドラッグを企てて、S病院から婦人科の写真を手に入れた張本人だと知ったとしたら、どうだろう、I病院の患者さんの中にはハメル薬局を利用している方がいるということを不快に思わないはずはない。
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登場人物紹介

祥子・・55歳~57歳、温厚な性格の夫と、成人になった二人の子供と猫との4人と1匹の家族、独身の頃は看護師をしていたが結婚退職の後は専業主婦、その後起業した夫の会社で働く、手術を要する病気2回(一つは癌)を乗り越え、仕事と家事の合間に短歌、作文、絵、神社仏閣巡りなどの趣味を嗜む

敬寿・・祥子の夫(59歳~61歳)41歳で起業する、その頃は祥子の看護師復帰を反対するほどワンマンではあったが、祥子が病気になってからは祥子の身を案じ、家事も手伝い、ワンマンさは消える。寡黙でありながら家族から尊敬されている。趣味は釣り、祥子の付き合いで神社仏閣巡りにも行く。

二木輝幸さん・・青年のシルエットが祥子の瞼の裏に現れて訴えかけてくる。その後名前が分かる、祥子は「輝君」と呼んでいる。

大黒仁志(おおぐろひとし)/別名「オオ、ハラ黒ワルシ」・・薬剤師、祥子とはK病院時代からの知り合いであるが、祥子がK病院を退職した同時期に、独立して調剤薬局の経営者となる、今ではS県内に10店舗経営しているが、裏稼業にレイプドラッグ及び強姦映像の販売をしている。悪行を企てている時の目がランランと光りテンションが高い、一見して明るく社交的で饒舌、リーダーシップを発揮するために頼りがいのある人物に見間違えるが、女性を嵌める為の機を窺っていて、巧みに嘘を重ねる。

夏美・・大黒仁志の妻、祥子とは看護学生時代の同級生であり、K病院では同じ病棟で働いたいた同僚でもある。

六林婦人科医・・この物語では過去の人物としてしか登場しないが、六林医師の盗撮がなければ、祥子はワルシに狙われる事はなかった為に重要人物である。

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