第9話 標本と呼ばれて

文字数 2,098文字

 「誰ですか」という低い声が何度も頭をかすめ、ふと気づけば声は「標本、標本」という言葉に変わっていた。これは「ハメル薬局」で発せられていた声だ。

1995年、祥子32歳、結婚一年目のこと、妊娠4ヶ月の祥子は、高校のクラス会に出席するために1時間半かけ電車に乗って、K線K駅で降りた。景色を懐かしみながら料亭を探していると大黒が開業した「ハメル薬局」が目に入った。挨拶がてらに料亭への道順を尋ねてみようと思って立ち寄ることにした。
 そのとき、脳裏に
「大黒には気を付けて」と忠告を受けていたことが過ったが、その理由は聞かされていなかったので、ただの悪口だと思って忠告を聞かなかったのだ。店内にいた女性薬剤師さんに自分の名前を告げ、
「大黒さんいますか」と尋ねると、カーテンの奥に
「カギイさんが尋ねて来られています」と伝えてくれる。
すると奥から
「標本か」と言って大黒が出てきた。
女性薬剤師は
「カギイさんです」と再度伝えてくれるが、
「標本でええねん、標本、標本」と言いながら大黒は顔を見せ、祥子に
「おお」と言う、
「久しぶりです、何か標本をつくっている最中だったのですね、忙しいところすみません、同窓会に来たのですが料亭が分からなかったし、ご挨拶もしたかったから」と言うと、カーテンの奥の誰かに向かって
「机の二番目の引き出しから標本出して」と指示し、
「ちょっとまってて」と断りをいれて奥に入り、用事を済ませてから店に出てくる。
「場所教えたるし、ちょっと棚の商品でも観といて」と言われ、商品を見ていると、男性の薬剤師二人が近づいてきて、祥子の顔をジロジロ見始める、祥子は二人の薬剤師に会釈をしたが二人は話しかけてくる風ではない、ただただジロジロ観るだけである。失礼極まりないのに、店長の大黒はそれを咎める様子は微塵も感じられない、祥子は店の真ん中で突っ立ちながら道を教えてもらうのを待っていた。

この時の薬剤師の行動について、2011年の看護専門学校の同窓会の直前に、K病院勤務の波子からこんな話を聞かされている。
「夏美には気をつけや、近づかない方が良い」
「なんでそんなこと言うの」
「ハメル薬局を辞めた女性薬剤師から聞いた話やけど・・・、ある女性客が来店した時、男性薬剤師二人が雑誌を見ながら女性の顔をジロジロ観ていたの、その様子が奇妙だったから、女性薬剤師が男性薬剤師の背後から雑誌を覗いて見たら、雑誌に女性の裸の一部分の写真が挟んであったんだって、大黒が従業員に観させていたのよ、だから大黒には気を付けてね」と聞かされていたのだ。
 しかし、その時期は祥子が、ハメル薬局へ訪れた時から16年も経っていたので、祥子は、ハメル薬局での一コマを完全に忘れていた、なので当時は波子の助言の意図が分からなかった。
「なんで、体の一部の写真がお客さんの身体だって分かるの?」
「女性薬剤師の話だと、大黒が言うには『その女性は覗き部屋に自分で投稿しているから観てあげると喜ぶ、観て貰うためにやって来たから観てあげたらいい』という理由らしい、でもその女性薬剤師は『例え自分の意志で投稿していたとしても、店の中で観るようなものではない、そんな店では働きたくない』と言って退職されたの」
「そのお客は覗き見を、して欲しくて薬局に来たっていうのね、それだったら客が変態やん」
「違うねん、お客さんは変態と違うねん」
「でも自分でサイトに投稿してるんやろ」
「してないねん」
「その人と知り合いなん?」
「ちょっと知ってるねん、その人はそんなことする人と違うし・・・、とにかく大黒は要注意人物やから、夏美にも気を付けるんやで」
 波子の説明はしどろもどろだった、それに、夏美に近づくなと言われても、夏美とも22年ぶりに再会することになるので、お喋りがしたい、そして蔭口は嫌いだ。だから、波子の助言は聞き流していた。

 それにしても大黒の人格は異常としか言いようがない、しかも平気で嘘をつく。

 ところで、ハメル薬局内の二人の男性薬剤師の顔はスケベ顔と言うよりも、泣きたそうな顔をしている。懸命に勉強をして薬剤師になったというのに、いったい何をさせられているのやら、手記を通して、この気の毒な男たちの事を母親達に教えてあげようではないか、しかし、おそらく90歳近くなっているだろうから急がなければいけない、しかし、文章が下手過ぎては誰にも評価をしてもらえないから焦ってはいけない、だから母親に教えてあげるのは断念して、嫁や子供や孫に教えてあげることにしよう、丁寧に推敲しよう。

 話がそれてしまったが、ハメル薬局に戻そう

大黒が同窓会の場所をなかなか教えてくれないからイライラしていると、女性薬剤師が男性薬剤師の雑誌を取り上げ、
「私が教えてあげますよ」と言ってくれた。すると大黒は道順を教えてくれたが、特に地図を見る訳でもなくスラスラと説明した。
「分かっているんだったら、勿体ぶらないでよ」
「まあまあ」と交わされている。

2018年12月、無性に夏美と共感し合いたくなった。
「誰ですか」
「標本ですが、夏美さんいますか」と、祥子は何度も心の中で夏美に電話を掛けている。
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登場人物紹介

祥子・・55歳~57歳、温厚な性格の夫と、成人になった二人の子供と猫との4人と1匹の家族、独身の頃は看護師をしていたが結婚退職の後は専業主婦、その後起業した夫の会社で働く、手術を要する病気2回(一つは癌)を乗り越え、仕事と家事の合間に短歌、作文、絵、神社仏閣巡りなどの趣味を嗜む

敬寿・・祥子の夫(59歳~61歳)41歳で起業する、その頃は祥子の看護師復帰を反対するほどワンマンではあったが、祥子が病気になってからは祥子の身を案じ、家事も手伝い、ワンマンさは消える。寡黙でありながら家族から尊敬されている。趣味は釣り、祥子の付き合いで神社仏閣巡りにも行く。

二木輝幸さん・・青年のシルエットが祥子の瞼の裏に現れて訴えかけてくる。その後名前が分かる、祥子は「輝君」と呼んでいる。

大黒仁志(おおぐろひとし)/別名「オオ、ハラ黒ワルシ」・・薬剤師、祥子とはK病院時代からの知り合いであるが、祥子がK病院を退職した同時期に、独立して調剤薬局の経営者となる、今ではS県内に10店舗経営しているが、裏稼業にレイプドラッグ及び強姦映像の販売をしている。悪行を企てている時の目がランランと光りテンションが高い、一見して明るく社交的で饒舌、リーダーシップを発揮するために頼りがいのある人物に見間違えるが、女性を嵌める為の機を窺っていて、巧みに嘘を重ねる。

夏美・・大黒仁志の妻、祥子とは看護学生時代の同級生であり、K病院では同じ病棟で働いたいた同僚でもある。

六林婦人科医・・この物語では過去の人物としてしか登場しないが、六林医師の盗撮がなければ、祥子はワルシに狙われる事はなかった為に重要人物である。

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